同性婚を法制化するべきか、という議論が活発になってきた。それ自体は本当に喜ばしいと、心から思う。でも、「同性婚が実現すれば、結婚は誰にとっても平等な制度になるよね」って、それは、違うだろう。同性婚法制化は、ゴールではない。
同性婚法制化で婚姻の平等が達成されるという嘘
ハッシュタグ「札幌0317」を嬉しく眺めていたが、一人のXジェンダーとして、私はもやもやしていた。
同性婚に賛成しているけど、もやもや
元々、私は、大学生の頃くらいには、「同性婚は私に関係ないし賛成も反対もないよ」と思っていた。婚姻が自分の人生に必要な選択肢だとは思えなかったから。それよりも、一人きりで生きて死んでいける社会になることを切望していた。
自分自身がXジェンダーであり、アセクシュアルであることを自覚し、文章を書くようになって、同性婚を認めないこの社会は、同性婚を望む人から不当に人生の選択肢を奪い続けている、と気づいた。それからは、同性婚法制化に賛成している。
でも、同性婚法制化に向けた当事者や支援者の活動を追っていくうちに、私がもやもやしたのも、また事実だ。
同性婚法制化は、婚姻の不平等を完全に消しはしない
私がもやもやするキーワードは、“婚姻の平等”だ。「同性婚の法制化により、婚姻の平等が実現される」といった主張を見かけると、「何それ、自分のことしか見えてないじゃん」といらいらする。
同性婚が実現したから、婚姻の不平等は解消ですって、そんなうまい話があるか。まだそこには、婚姻という制度に守られることのできない人々がいるんだ。
その人々を置き去りにして、同性婚法制化というゴールで、安心しようっていうなら、私は、許さない。
婚姻の平等という嘘
私は、攻撃的な書き方をしていると思う。でも、これは、1対1の婚姻ただ一つを望まない私にとって、死活問題なんだ。婚姻が、フィットしない私にとっては、「誰もが人生の選択肢に婚姻を持っている」と勘違いされることが、おそろしい。
同性婚が法制化されても、それでも、婚姻はなお不平等だ。それをあたかも婚姻の平等が実現するかのように言うことは、嘘だ。
複数愛やグループでのセーフティネットは?
私は、婚姻とは、「自分で家族を選び、それを公的に認めてもらう制度」だと考えている。
婚姻は、もっと広く認められるべきだ
私の婚姻の解釈が、世間一般と違うのかもしれない。私の婚姻の解釈は、理想に過ぎるのかもしれない。ただ、「婚姻は、自分で新たに家族を作っていく制度」という解釈は広く一般に受け入れられるものであると思う。
では、それは1対1の男女のカップルにのみ認められる権利なのか。いや、それは違う。1対1の同性のカップルにも、認められるべきだろう。
そのような主張をしているのが、同性婚法制化に向けて動く人々だ。私はこの主張に、概ね賛成する。だが、この主張に付け加えたい。
すべての人々が、婚姻という制度の利用という選択肢を取れる社会にしたい。そして、その上で婚姻という制度を利用しない選択をした人々も困らない社会を作りたい。
私は、それを望んでいる。
婚姻にフィットしない人々
具体的に、現行の婚姻や同性婚にもフィットしない人々とは、どんな人々だろうか。ポリアモリー(複数愛)の人々や恋愛に基づかないパートナーシップを結びたいと考える人々、信頼のおける人々とグループで結びつきたいと考える人々、などが思いつく。私が知らないだけで、他にもまだまだいるのだろう。
私自身の話で言えば、信頼のおける友人と数人のグループで法的な結びつきのある関係を構築したいと考えている。でも、これは、現状の婚姻制度では、公的に認められない関係性だ。ここに、婚姻の不平等がある。
私がいくら信頼のおける友人を緊急連絡先にしたって、医療機関は私の実家に連絡を取るだろう。そうでなければ、もしものときに私の実家に訴えられるかもしれないから。
また、私は恋愛関係や性的接触を望まない。しかし、現在、婚姻において、セックスレスは離婚理由になりうる、“義務”であるとの判例がある。
婚姻はもっとシンプルでいい
婚姻そのものに、多くの義務が課され過ぎているとも思う。婚姻はもっとシンプルでいいのではないか、と私は考える。この人、もしくはこの人達と家族になりたいと考え、それに相手の合意が得られて成立する。それくらいのシンプルさで、いいのではないか。
「私人としてこの人達と助け合って生きていきたい」が婚姻の本質だとしたら、今の婚姻は、ずいぶん余計なものがくっついていやしないか。
そもそも婚姻とは何ですか
婚姻って、そもそも何なのか。
婚姻への、怒りにも似た感情
今、こうして婚姻に関して自論を展開している私だが、そもそも婚姻制度そのものに、かなりの反発を覚えている。
誰かと結びつくこと、そのものが保障されるのは好きにすればいい。でも、なぜ、誰とも結びつかない、関係を結べない人が、社会制度から、周囲から、排斥されなければならないんだ。
怒りにも似た感情を覚えながら、私は思う。人類に、婚姻というツールは、早すぎたのではないかと。何で、誰かが排斥されうるとか、置いてけぼりにされうるとか、そういったことを思い至れなかったんだ。
だとしても社会は、婚姻の解釈を問い直したり、婚姻制度を利用できる人々の範囲を広くしたりしようと考え始めた。だから今、ここはチャンスなのだ。婚姻をより自由にするための、ひいては私達をより自由にするためのチャンスだ。
婚姻は、私にフィットしない
Xジェンダーでアセクシュアルである私は、婚姻制度から今は排斥されている。性別:その他を望む私は、そもそも男女のどちらかにならねばならない婚姻届を書ける気がしない。恋愛や性的接触を前提とした婚姻制度に、1対1の婚姻制度に、私はフィットしないのだ。
でも、そういう人間だからこそ見えることってあるんじゃないか。最近そう思うようになった。周囲が当たり前だと思っている “常識” を捉え直す視点を、他の人々よりは持ち合わせているのかもしれない。
婚姻を自由にする
婚姻をもっと自由にする。その一つのプロセスに、同性婚法制化や選択的夫婦別姓があるんじゃないか。それなら、今、私達は婚姻を捉え直し、人生の選択肢を増やす方向に動くべきだ。
同性婚法制化に賛成しつつ、それで終わりではないんだと意識し、考えていく。そういうことが大事だ。
同性婚はLGBT当事者のゴールではない
重ねて言おう。私は同性婚法制化に賛成だ。ただ、社会には、まだやるべきことがあると考えているだけだ。
LGBT当事者にとっての目標設定を思い出して
LGBT当事者の目標は、「性自認や性的指向によって差別されることのない社会にする」だったはずだ。決して、「同性の、1対1のカップルの婚姻が認められる社会にする」で終わりではない。もちろん、同性婚法制化を目指してさまざまに活動することは必要で、大事なことだ。
でも、最終的にどうなりたいかを忘れてはいけない。そこを見失えば、また誰かを置き去りにしてしまう。そして置き去りにされた誰かは、今、同性婚法制化を望んで動く人々より少ないので、権利獲得のために、さらに困難な闘いを強いられる。それは、ひどいディストピアだ。
同性婚法制化は、あくまで過程。その先にあるものを、忘れてはいけない。
目指すものは、差別されない社会
「性自認や性的指向によって差別されない社会を目指す」のなら、LGBT当事者やALLYの人々が考えていくテーマは、多岐に渡るだろう。それは、ジェンダー平等とも接続しうるし、社会構造そのものへの問いにもなりうる。具体例を挙げると、男女の賃金格差は、LGBT当事者にも密接に関わっているし、婚姻を選ばない人々へ向けられる視線は、社会への問いを生み出す。
同性婚法制化は、メインテーマではなく、性自認や性的指向によって差別されない社会の実現のためにクリアすべき小さなゴールで、これを達成しても、まだまだやるべきことはある。だから、間違っても、「同性婚法制化で、婚姻の不平等が完全に解消される」なんて思わないでほしい。もしもそんな認識が当たり前に広まっているのだとしたら、私は、それがひどくおそろしい。
例えば、家を借りるときに、同棲をしているカップルが、結婚を考えていなくても、「結婚を考えています」と言わなければ家を借りにくいこと。同じ仕事をしていても、男性より女性の賃金が低いこと。婚姻を選ばない人々への風当たりが強いこと。
ざっと思いつく限りでも、婚姻にまつわる差別はこんなにも社会にある。しかもこれは、LGBTに何かしら関係があるものをピックアップしただけだ。他の分野にも広げれば、もっと多くのものを挙げることができるし、きっとそれだけでこの記事が終わってしまうだろう。
同性婚法制化の、その先へ
同性婚法制化は、LGBTやALLYにとって、差別の終わりではない。目を向けるべき大きな問題が一つ解消されるに過ぎない。構造を、目標を、見間違わずに、婚姻に限らず、社会にあるさまざまなものを、問い直していく必要がある。
アセクシュアルを自認する私は、正直に言えば、同性婚法制化が少し怖い。恋愛感情を抱かない自分への排斥が強まるのではないかと危惧している。それでも、婚姻の範囲を広げ、婚姻制度を使いたい人が使えるものにするためには、必要な過程であると理解もしている。だからこそ私は、同性婚法制化はゴールではないけれど、強く望む。
LGBT当事者、ALLY、ひいては社会に生きる人々が、「こうあるべき」ではなく、「こうしたい」でさまざまなことを選び、自分の人生を生きられる社会になることを願っている。その一つの過程として、私は同性婚法制化を後押しする。