02 両親へのカミングアウト
03 すべては自分の気持ち次第
04 自分と向き合い切ること
05 カミングアウトは点でなく線
==================(後編)========================
06 ”いない人” にならないように
07 ひとりの普通の社会人として
08 誰もが垣根を越えて集える場所
09 広がっていくLGBTの活動
10 ”For Minority” は “ For Everybody”
01自分を呼ぶ言葉がない
あれ? 女の子だったの?
物心ついた頃から自分は男の子だ、と思っていた。
初めて違和感を感じたのは幼稚園の入園式。両親が用意してくれたスカートをはくのが嫌で泣いた。
男の子なのに、なんでスカート?
その驚きは、自分だけでなく、周りの友達も感じていた。あれ? 文野って女の子だったの?
小学校からはセーラー服を着なければならなかった。
制服を着ることによって明らかになった性。
戸惑うこともあったが、両親は取り立てて女の子らしくするように言うことはなく、七五三にも蝶ネクタイと半ズボンを用意してくれた。
しかし、果たして自分は男の子なのか、女の子なのか。僕なのか、私なのか。
自分を呼ぶ言葉が見つからなかった。
「一人称を使わないように会話をしていました。例えば『これ誰の?』と聞かれたら、『あぁ、ハイハイ』って感じで。フェンシングを初めてからは “自分” って呼ぶようになりました。いかにも体育会系な呼び方で、都合がよかったですね」
おなべバーを探して
スカートをはくと周りが驚くほど、自他共に認める “男の子”。
しかし一方で、女の子として社会に組み込まれ、好きな女の子ができても、自分のなかの違和感が膨れ上がっても、誰にも言えないままだった。
「女性として生きていくという未来が描けなかったし、男性として生きるという選択肢があるのも知らなかった。ずっと、大人になれずに死んじゃうんじゃないかと思っていました」
「どうせ死ぬなら、早く死にたいと思っていた時期もありました」
悶々としていた頃、深夜番組でおなべバー特集が放送された。
「あ、自分はこれかもしれない、しかも家から近いぞ、と思って、次の日に自転車で新宿二丁目へ行ってみたんです。でも、昼間の二丁目は様子がまったく違くて。どこにおなべバーがあるのか分かりませんでした」
「その後も、”おなべ” という存在に興味はあったんですが、現代社会に教育された僕の頭のなかで、彼らは “変な人” と理解されていて・・・・・・。僕はそうじゃないという想いがありました」
それっきり二丁目には近寄らず、おなべバーに初めて行ったのは大学生になってからだった。
02両親へのカミングアウト
仲のいい家族だったのに
中学生になって、初めて彼女ができた。
「女の子が好きなわけじゃないけど、文野のことが好き」と言ってくれる女の子がいた。
こんな日が訪れるなんて。
しかし、幸せな日々に衝撃が走る。
その彼女が泊まりに来て、ベッドで抱き合っているところを、あろうことかお母さんに見られてしまったのだ。
「それまでは本当に仲のいい家族だったのに、壁ができてしまって。親から病院に行った方がいいんじゃないかと言われたし、さらにはまともに目を見て話ができない状態の時もありました」
「カミングアウトは “バトンを渡す” と表現することがあります。僕が誰にも渡せなくて抱えていたバトンを、母に渡してしまったんです」
「バトンを受け取って、苦しんでいる母を見るのは辛かった。なんとか父から僕の想いを伝えてもらおうと、自分が性同一性障害であるとカミングアウトしたら、『それは病気でもなんでもないから。大変かもしれないけど自分が思うように生きろ』って言ってくれて」
「なんて理解のある親父なんだ、と感動したんですが、しばらく経ってから父が『お前がいつか結婚する時は・・・・・・』とか『性別適合手術なんて、お父さんのハゲを治すのと同じようなもんだろ』とか言ったりしているのを聞いて、ぜんぜん理解してなかったんだなと(笑)」
うちの子であることに変わりはない
お母さんに理解を深めてもらい、少しでも苦しみを軽くしようと思って、性同一性障害に関する書籍を読んでもらうよう渡したりもした。
お母さん自身もまた、自分なりに書籍やネットで情報を集めてくれていた。
「ある時、母が僕を後ろから抱きしめて『あなたがうちの子であることに変わりはないから』と言ってくれたんです。母も僕も泣いていました」
「父は相変わらず理解しきれていないと思います(笑)。以前は、なんで分かってくれないんだってイライラした時もありました」
「でも、よくよく考えてみると、父は僕を分かってくれていないけれど、僕も親父のことをよく分かっていないってことに気づきました」
分からないのはお互い様のことで、当たり前のこと。
そう考えるようになって、一気に腑に落ちた。
「じゃあ、どうやったら分かってもらえるんだろうって考える。面と向かって話すのがダメなら手紙を書いてみたり、とか。本を読んでくれと渡したり、二丁目に一緒に行ったりしてもいい」
「相手が自分を分からない、ということを分かってからはコミュニケーションがスムーズになりました」
03すべては自分の気持ち次第
分かろうとする気持ちがあるか
「セクシュアリティのことに限らず、相手のことをすべて分かるのは難しい。でも、分かることが大事なのではなく、分かろうとする気持ちがあるかどうかが大事なんだと思うんです」
「その点では、父は僕を分かろうとしてくれていた。だから、もういいや。すべて分かってもらえなくてもいいやって」
そんな風に考えられるようになった理由のひとつとして、両親の育て方があった。
子どもも親も、先生も有名人も隣の店の店長も、みんな同じ人間であると考え、両親は幼い自分にもひとりの人間として接した。
そのおかげで、早い段階で精神的に独立していたのだろう。
幸せだと思う気持ちがあるか
「性別適合手術の話になると、『親にもらった体に傷をつけるなんて』という言葉をよく聞きます。僕自身も、できることならば手術をしないで過ごせないか、ずっと考えていました」
「でも、『親にもらった体だから』とか『親を悲しませなくないから』とか、親を言い訳にして自分の意思をないがしろにするような人生ってどうなんだろう。手術することが正解かどうかは分かりません」
「だったら、自分で進む道を決めて、その道を正解にしていくしかないと思います」
「手術をしたとして、親が『なんて不幸な子をもったんだ』と思うか、『文野を生んでよかった』と思うかは親次第です」
事実はひとつ。
その事実に対してどう判断するのかは、当人の気持ち次第。
「人と比べているうちは、幸せにも豊かにもなれない。インドの物乞いの子ども達を見て自分は裕福だって思ったり、ドバイの石油王を見て自分は貧乏だって思ったり」
「ラオスの家族が、自分たちで育てたり採ってきたりしたものだけを家族揃ってゆっくり食べるのと、東京で暮らして、好きなものをなんでも食べられるけど家族と食事をする暇もないのでは、どっちが豊かなのか考えたり。比べてみても、まったく意味がない」
「幸せになれるかどうかは、幸せだと思える気持ちがあるかどうか」
「僕をみて男だと言う人もいれば、本当は女だと言う人もいる。でも、事実は、僕は僕であるということだけ」
「それ以下でも以上でもない。僕は僕。だから、どう思われてもいいやって思っているんです」
04自分と向き合い切ること
旅から学んだこと
そんな考え方に影響を与えた、もうひとつのものは旅。
大学院を卒業したあと、世界中を旅して、旅からいろんなことを学んだ。
「本を出したのは、性的マイノリティは二丁目にいる人やバラエティ番組に出ている人だけでなく、すぐ隣にいる身近な人なんだということを伝えたかったからなんです。でも、本を出したら、性別のことばかり言われて」
ゴミ拾いボランティアのグリーンバードの活動を紹介する記事でも、「性同一性障害を乗り越えて、掃除の活動をしている」という内容になる。
でも、海外はどうだろう。
日本では性別のことばかりで息苦しくても、海外だったら暮らしやすい場所があるんじゃないか。
「でも結局は、世界中どこに行ってもミスターなのかミスなのか、ムッシュなのかマドモアゼルなのか問われ続けたんです。南極に向かう船に乗る時も、男と女どっちと船室をシェアするのかで揉めました」
「こんな世界の果てに来てまでも、自分の性別から逃れられない。自分から逃れられない。場所を変えても意味がないのなら、自分が今いる場所を良くしていこう。それが現在の活動の原点なんです」
やっぱり自分の体が嫌だ
また、かねてから結論が出せないでいた性別適合手術についても、旅のなかで答えを見つけた。
「性別違和が強い場合は、無人島にいたとしても手術したくなるものだと言われています。心と体が本当に手術を求めているのか、現在の体では生きにくい社会の圧力によって手術しなければと思わされているのか、しっかりと噛み砕いて自分で理解してからでないと、手術すべきではないと思っていました」
性別違和の苦しみを乗り越えたら、手術しなくても楽しく生きられるんじゃないか。
”性同一性障害=手術” というイメージが強い世の中で、そうではない生き方を示すのが自分の役割なんじゃないか。
そんな風に考えていたこともあった。
「でも、エジプトの砂漠にひとりで立った時、見たことのない景色に感動しながらも、自分の体が嫌だと思った。周りには誰の目もない。だけど、自分の体を自分が受け入れられなかった」
そして、手術を決心した。
「一人旅では、話をする相手がいないんで、常に自分と会話しているようなもんなんです。もう僕は、そこで自分と向き合い切ったな、と」
「以前は、自分の嫌なところを見たくなくて、こんなはずじゃない、自分はもっとできるはずだと思っていたけど、それからは自分の情けない部分にも、かっこ悪い部分にも向き合って、受け入れられるようになりました」
「自分を知り、自分を受け入れることは、人生を楽しむ上でとっても重要」
「ちょっと大げさだけど、それが自分の命を使い切ることなんだと思います」
05カミングアウトは点でなく線
溢れ出した苦しさ
友達へのカミングアウトは高校1年生の時。
相手は、バスケ部のキャプテンを務めていた親友だった。
付き合っていた彼女から別れを告げられた辛い気持ちを誰かに吐露することもできず、うつ病のような状態になっていたところ、見るに見かねた親友が「大丈夫? なんかあったでしょ?」と声をかけてくれたのだ。
「なんでもない」
女の子と付き合っていて振られたなんて言えるはずもない。親友から差し伸べられた手。
すがりたい気持ちを抑え、押し戻した。
しかし親友は引き下がらなかった。
「ここなら誰も来ないから」とバスケ部の部室まで連れていき、話を聞いてくれた。
「堰を切ったように今までの苦しさが溢れ出し、泣きながら吐き出しました。最後に『話してくれてありがとう。文野は文野で変わりないじゃん』って言われて、そこで初めて、この世に生まれ出たような想いがしました」
そこから少しずつ、仲のいい友達にカミングアウトするようになり、少しずつ自己肯定感を取り戻していった。
関係性を築くため
「カミングアウトは点じゃなくて線。言ったところがスタートです。言う側は、どう言おう、どのタイミングで言おうと考えて考えて考えて、時間をかけて言うけど、聞いた人にとっては初めて聞くことなんです。やっぱり、いきなり理解するのは難しいですよね」
「両親に伝えて、受け入れてもらえなかったから、それ以来話してません、と聞くことがありますが、それではとてももったいない。ご両親にも考える時間をあげないと」
「それまでカミングアウトできなかったのは、きっと自分が自分を受け入れられなかったせい。そんな、自分でさえ受け入れるのが難しいことを、相手にすぐ受け入れてほしいというのは都合が良すぎると思うんです」
「うまく伝えられなかったり、すぐに受け入れられなかったりしても、そこで終わらず、ちゃんと関係性を築いていかないと」
「僕は時間もかけたし、体力も使いました。ちゃんと向き合えば、ちゃんと分かってもらえるから」
今、6年間付き合っている彼女がいる。
しかし、付き合っていることを報告してから、ずっと相手のご両親から交際を反対されてきた。
「住む世界が違う」
相手のお母さんは、長らく目を合わせてもくれなかった。
それでも諦めず、タイミングを見て何度もご両親のもとへ足を運んだ。
そしてようやく最近、やっと普通に話ができる関係になった。
つい数日前も、自身が経営するレストランへ食事に来てくれた。
いよいよここから。関係性を築くために、線はまだ続いている。
<<<後編 2016/12/31/Sat>>>
INDEX
06 ”いない人” にならないように
07 ひとりの普通の社会人として
08 誰もが垣根を越えて集える場所
09 広がっていくLGBTの活動
10 ”For Minority” は “ For Everybody”