INTERVIEW
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治療はゴールではない。自分がどう生きるかが大切【前編】

「しゃべったもん勝ち」という山下直海さんの巧みな話術に、インタビュー開始早々引き込まれてしまった。人を楽しませようというサービス精神旺盛な人柄である一方、話を聞くにつれ、幼いころから自分なりの価値観を持っている。達観したものの考え方にとても驚かされた。それは山下さんを包んできた、ゆるぎない愛情の土台があるおかげかもしれない。

2017/05/25/Thu
Photo : Taku Katayama  Text : Mayuko Sunagawa
山下 直海 / Naomi Yamashita

1979年、大阪府生まれ。工業高校を卒業後、航空自衛隊に入隊し、愛知県にある基地で救難機などの整備に7年間従事。その後、国家資格の作業療法士を取得し、現在、通所介護施設で勤務している。国内の病院にて2010年に乳腺切除術を受け、2013年にホルモン治療を開始。2016年に性別適合手術を受け、今年戸籍変更をしている。

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INDEX
01 自分を女性と思ったことがない
02 あきらめと折り合いを身につけた幼少期
03 つらかった体の変化
04 今は通過点。もっと広い世界がある
05 自分の力で生きていくために
==================(後編)========================
06 治療への障壁
07 作業療法士の道
08 ゆるぎない愛情の土台
09 手術、ホルモン治療、戸籍訂正
10 LGBTが社会で自立し生きていくために

01自分を女性と思ったことがない

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“女の子らしく” ない自分

生まれてこの方、自分を女性だと思ったことは一度もない。

小さい頃から外遊びが好きで男の子とよく遊んだ。

髪型はいつも短髪で、服は2つ上の兄のおさがりを着ていた。

そんな自分の様子を、母はしっかり見てくれていた。

「2、3歳の時、お袋さんが大きな花が付いた靴を買ってくれたんです」

「でも、自分はその靴を見た途端、花を引きちぎってしまって(苦笑)」

「お袋さんは『この子はこんなん嫌いなんやな』と思ったようです」

髪を切りに行った時も、美容師さんが可愛くしてくれようと前髪を結ってくれたが、「こんなん嫌やー」と泣きわめいた。

「それを見て、『こういう考え方の子なんや』『それならしゃーないわ』って思ったそうです」

母は “女の子らしく” ない自分をけっして否定せず、いつでも受け入れてくれた。

ただ、父は違った。

親戚の中の子どもはみんな男の子。その中で生まれた自分は待望の女の子だった。

そんなこともあり父は、自分に “女の子らしく” ふるまってほしかったようだ。

「女なんだから早く帰ってきなさい」
「女なんだから髪を伸ばしなさい」
「女らしい恰好をしなさい」

自営で配管工をしている父は職人気質。

1回火がついてしまうとかなり怖かったこともあり、反抗することこそしなかったが、父の言葉はすべて聞き流した。

何で兄には言わないのに・・・・・・。
兄と自分は同じなのに・・・・・・。

何で自分は自分らしくあることを許されないんだろう。

しかし、年を重ねるにつれて、「女らしくしろ」とうるさかった父も何も言わなくなっていった。

おそらくそれは、母が父に話をしてくれたからだと思う。

「しゃーないやん。でもあの子が健康だったら、それでええやん」と。

山下家の教え

自分で責任をとれないことはするな。

「『自分で責任とれるんだったらケンカしてもええよ』」

「『でも、よう考えてみいよ。人をケガさせて責任とれるか?治療費払えるか?』って」

幼い頃からそう言われて育った。

親から言われていたのはそれぐらいだ。

「自分には反抗期がなかったんです。なんせ反抗する対象がなかったから。基本的に両親とも放任主義なので『勉強しろ』とも言われませんでした」

小学生の頃は少し身体が大きかったこともあり、クラスではボス的な存在の女子。

学級委員も務めた。前に出たがりで、目立つタイプ。

でも、人に手を上げたりケンカをしたりすることはなかった。

「イラっとすることがあっても、こいつと喧嘩してなんの得がある?疲れるからやめよ、ってなるんですよ」

親からの教えが根底にあったこともあるが、基本的に争いを好まず、疲れること、無駄なことはしたくないというスタンス。

博愛主義であり、合理主義だ。

02あきらめと折り合いを身につけた幼少期

感情をコントロールする力

親戚で集まると、いとこはみんな10歳以上も年上。

年上が多い中で育ってきたから、周りの様子をうかがいながら過ごしてきたように思う。

兄がやって怒られたことは、自分はやらないように気をつけた。

「親父さんは1回火が付くとかなり怖いので、怒られないようにどう立ち回るかというのは、小さい頃から身についていました」

そんな環境であったからか、幼い頃から自分を押し込めて我慢することもしてきた。

嫌なことは、初めはぐっとこらえて我慢する。

時とともに、今度は「なかったことにしよう」となる。

ため込んでおくのはよくないし、発散して周りに迷惑をかけるのもよくない。

だから、風化させよう、「考えんとこう」とした。

小さい頃から、自分の感情をコントロールするのはうまかったほうだと思う。

あきらめと折り合い

赤いランドセルもスカートの制服も嫌だった。

けれど、親が買って来てくれたもので、それが安い物じゃないというのは子どもながらにわかっていた。

だから、「しゃあないな」と思った。

唯一、小学校1年生の時にブルマだけはすごく嫌がった。

「なんやあれ、色が黒いだけでパンツやないか」

「兄貴は短パンなのに何で自分は違うねん」

ブルマだけはすごく抵抗したが、

親から「でも、それが学校のルールなんだから」と言われた。

その時、“自分が女性ではない” と思っていることが、世の中の常識では通用しないんだということがわかった。

「いくら自分は違うと言っても、大人がそうだと言ったら変えられない。どうにもならないんだと、あきらめました」

それからは自分の中で折り合いをつけるようにしていった。

中学の制服もスカート。

「仕方ない。それがルールだから・・・・・・」とあきらめた。

スカートの下に短パンを履いて。

03つらかった体の変化

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体との折り合い

5歳の頃、風邪で病院に行った時に、自分の体は内臓が左右反対であることがわかった。

健康上の問題は何もないが、心臓は右寄りにある。肝臓は左にある。血液循環もたぶん逆だ。

だから、兄や周りの男の子と体の作りが違うことに違和感はあったが、
「人とは体の成長が違うということもあるのかもしれない」と思えた。

自分の体については「しゃーないわ」とあきらめるようにしていた。

大人になったら男の体に変わる、というロマンを追い求めることはしなかった。

一人思い悩んだ苦痛

生理が来たことについても、「しゃーないな」「そういう身体なんやもん」と思えた。

でも、経血量が多く、ひどい痛みを伴った。

「本当にしんどかった。多いし、痛いし」

「絶対に布団を汚しちゃうので、一晩中椅子に座って過ごしました」

その苦しみは丸一週間続き、毎月一度やってきた。

おこづかいで痛み止めを買い、のんで痛みをしのいだ。
痛み止めは、生理中の1週間でひと箱がなくなった。

今まで様々なことは押し込めて、我慢することができていた。

でも、生理だけはダメだった。

毎月全てがリセットされて、つらいことは毎月やってきた。
終わったらまたやり直し。この繰り返し。

すごくストレスだった。

それでも婦人科には行けなかったし、母にも言えなかった。

一人で抱えるしかなかった。

04今は通過点。もっと広い世界がある

男女の差が出てくる頃

通っていた小学校が大きく、みんな同じ1つの小学校から同じ中学校に上がったため、9年間同じ顔ぶれだった。

みんな知った顔だったため、周りには「男みたいな子」だと思われていたが、いじめやからかいは一度もなかった。

それでも中学にあがると、男女で発育に差が出る。

「小学校の時は、腕っぷしがあるぞ!強いぞ!って感じでしたが、男子との差が出てきてからは無駄に張り合うのはやめました」

学校では友達としゃべったり遊んだりしたが、家に帰ってから集まって遊ぶことはしなくなった。

みんなは部活に忙しかったが、自分はパソコン部だったので毎日部活はない。

「学校から帰ると、家でずっと本を読んでいました」

「“学校に行く引きこもり” みたいな」

家には、赤川次郎や西村京太郎の本が棚に並んでいた。

母が好きだったのだ。

その影響からか、自分も小学校1年で赤川次郎を読み始めた。

孤立はちっとも怖くない

中学になると、女子たちが色気づいてくる。

「自分は男の子らと普通にしゃべるので、それを傍で見ていた女の子から『私が好きなのを知ってるのに、なんで仲よくするの?』『私が好きなことバラしたでしょ?』って」

それが発端となり、孤立したことがあった。

でも、全く気にしなかった。

「逆に、人のことを無視するのって大変だから、ご苦労さんって思っていました(笑)」

相手が喋ってくること、相手がしてくることに対しては、全然気にならない。

一方で、自分が人にしたことで、相手がどう受け取るのかはすごく気になる。

「朝のあいさつでも、このタイミングで大丈夫かなーとか、言い方は大丈夫かなーとか」

自分が発信したことに対して相手がどう思うのかが気になる。

ぐるぐる考えてしまう。

それは、自分の発信したことで相手ともめたくない、争いたくないというのが根底にあるから。

また、孤立してつらくなかったのは、「今はこの狭い中にいるけど、大人になればここで生きていく必要はない」ということに気づいていたというのもある。

それは本やテレビの影響かもしれない。

西村京太郎と内田康夫の小説を読めば、自分のいる世界がいかに狭く、世の中にはもっといろんな世界があることがわかった。

ここは通過点だから、孤立なんてたいしたことではないのだ。

05自分の力で生きていくために

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社会で自立して生きていくということ

機械をいじるのが好きだったこともあり、工業高校の機械電気科に進んだ。

高校卒業後の進路を決める際には、飛行機などの機械をいじる仕事に興味を持ち、それが航空自衛隊という仕事にぴったりとはまった。

「もともと人を助ける航空救難機というのに興味があったんです」

「機械電気も学んでいたので、それも活かせると思いました」

自衛隊は公務員で大きい組織。保障もしっかりしている。

自分一人で自立して生きていくにはよい場所だと思った。

摂食障害になるほどのストレス

航空自衛隊には女性として入隊した。

まだ治療を開始していなかったし、戸籍上も女性であったから、入隊するには女性としてしか選択肢がなかった。

入隊後は基地内の女子寮に入って、同僚の女性と一緒に過ごさなければいけないことはわかっていた。

慣れてしまえば何とかなると思っていた。

しかし、自衛官といってもやっぱりみんな女の子。

その中で自分が24時間一緒にいることは想像以上に大変だった。

「入隊して3ヶ月くらいご飯をまったく受け付けなくなり、10kgも痩せてしまいました」

男性とは区別された生活をし、女性の中で過ごすことが大変だったのだ。

「今は、よく『女湯に入れてええやん』って言われるんですけど、それどころじゃない」

「自分の身体が周りに見られてしまう。それがすごく嫌でした」

周りは自分を女だと思っているのでなんとも思わないだろうが、自分はその認識ではない。

自分さえ認められていない体を、人に見られるのが一番嫌だった。

それでも、7年は航空自衛官として働いた。

「『石の上にも3年じゃないけど、仕事を3年は継続しましょう』っていう高校の担任の教えもありましたし、自分らはちょうど就職氷河期だったので、仕事を変えることに罪悪感もあったんです」

それから同期の支えもあった。

「同期みんなで『ここまで頑張ってきたからやってこう』って励ましあっていました」

24時間365日一緒だった同期との絆も、自衛官を続けられた理由だ。


<<<後編 2017/05/27/Sat>>>
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06 治療への障壁
07 作業療法士の道
08 ゆるぎない愛情の土台
09 手術、ホルモン治療、戸籍訂正
10 LGBTが社会で自立し生きていくために

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