02 あきらめと折り合いを身につけた幼少期
03 つらかった体の変化
04 今は通過点。もっと広い世界がある
05 自分の力で生きていくために
==================(後編)========================
06 治療への障壁
07 作業療法士の道
08 ゆるぎない愛情の土台
09 手術、ホルモン治療、戸籍訂正
10 LGBTが社会で自立し生きていくために
01自分を女性と思ったことがない
“女の子らしく” ない自分
生まれてこの方、自分を女性だと思ったことは一度もない。
小さい頃から外遊びが好きで男の子とよく遊んだ。
髪型はいつも短髪で、服は2つ上の兄のおさがりを着ていた。
そんな自分の様子を、母はしっかり見てくれていた。
「2、3歳の時、お袋さんが大きな花が付いた靴を買ってくれたんです」
「でも、自分はその靴を見た途端、花を引きちぎってしまって(苦笑)」
「お袋さんは『この子はこんなん嫌いなんやな』と思ったようです」
髪を切りに行った時も、美容師さんが可愛くしてくれようと前髪を結ってくれたが、「こんなん嫌やー」と泣きわめいた。
「それを見て、『こういう考え方の子なんや』『それならしゃーないわ』って思ったそうです」
母は “女の子らしく” ない自分をけっして否定せず、いつでも受け入れてくれた。
ただ、父は違った。
親戚の中の子どもはみんな男の子。その中で生まれた自分は待望の女の子だった。
そんなこともあり父は、自分に “女の子らしく” ふるまってほしかったようだ。
「女なんだから早く帰ってきなさい」
「女なんだから髪を伸ばしなさい」
「女らしい恰好をしなさい」
自営で配管工をしている父は職人気質。
1回火がついてしまうとかなり怖かったこともあり、反抗することこそしなかったが、父の言葉はすべて聞き流した。
何で兄には言わないのに・・・・・・。
兄と自分は同じなのに・・・・・・。
何で自分は自分らしくあることを許されないんだろう。
しかし、年を重ねるにつれて、「女らしくしろ」とうるさかった父も何も言わなくなっていった。
おそらくそれは、母が父に話をしてくれたからだと思う。
「しゃーないやん。でもあの子が健康だったら、それでええやん」と。
山下家の教え
自分で責任をとれないことはするな。
「『自分で責任とれるんだったらケンカしてもええよ』」
「『でも、よう考えてみいよ。人をケガさせて責任とれるか?治療費払えるか?』って」
幼い頃からそう言われて育った。
親から言われていたのはそれぐらいだ。
「自分には反抗期がなかったんです。なんせ反抗する対象がなかったから。基本的に両親とも放任主義なので『勉強しろ』とも言われませんでした」
小学生の頃は少し身体が大きかったこともあり、クラスではボス的な存在の女子。
学級委員も務めた。前に出たがりで、目立つタイプ。
でも、人に手を上げたりケンカをしたりすることはなかった。
「イラっとすることがあっても、こいつと喧嘩してなんの得がある?疲れるからやめよ、ってなるんですよ」
親からの教えが根底にあったこともあるが、基本的に争いを好まず、疲れること、無駄なことはしたくないというスタンス。
博愛主義であり、合理主義だ。
02あきらめと折り合いを身につけた幼少期
感情をコントロールする力
親戚で集まると、いとこはみんな10歳以上も年上。
年上が多い中で育ってきたから、周りの様子をうかがいながら過ごしてきたように思う。
兄がやって怒られたことは、自分はやらないように気をつけた。
「親父さんは1回火が付くとかなり怖いので、怒られないようにどう立ち回るかというのは、小さい頃から身についていました」
そんな環境であったからか、幼い頃から自分を押し込めて我慢することもしてきた。
嫌なことは、初めはぐっとこらえて我慢する。
時とともに、今度は「なかったことにしよう」となる。
ため込んでおくのはよくないし、発散して周りに迷惑をかけるのもよくない。
だから、風化させよう、「考えんとこう」とした。
小さい頃から、自分の感情をコントロールするのはうまかったほうだと思う。
あきらめと折り合い
赤いランドセルもスカートの制服も嫌だった。
けれど、親が買って来てくれたもので、それが安い物じゃないというのは子どもながらにわかっていた。
だから、「しゃあないな」と思った。
唯一、小学校1年生の時にブルマだけはすごく嫌がった。
「なんやあれ、色が黒いだけでパンツやないか」
「兄貴は短パンなのに何で自分は違うねん」
ブルマだけはすごく抵抗したが、
親から「でも、それが学校のルールなんだから」と言われた。
その時、“自分が女性ではない” と思っていることが、世の中の常識では通用しないんだということがわかった。
「いくら自分は違うと言っても、大人がそうだと言ったら変えられない。どうにもならないんだと、あきらめました」
それからは自分の中で折り合いをつけるようにしていった。
中学の制服もスカート。
「仕方ない。それがルールだから・・・・・・」とあきらめた。
スカートの下に短パンを履いて。
03つらかった体の変化
体との折り合い
5歳の頃、風邪で病院に行った時に、自分の体は内臓が左右反対であることがわかった。
健康上の問題は何もないが、心臓は右寄りにある。肝臓は左にある。血液循環もたぶん逆だ。
だから、兄や周りの男の子と体の作りが違うことに違和感はあったが、
「人とは体の成長が違うということもあるのかもしれない」と思えた。
自分の体については「しゃーないわ」とあきらめるようにしていた。
大人になったら男の体に変わる、というロマンを追い求めることはしなかった。
一人思い悩んだ苦痛
生理が来たことについても、「しゃーないな」「そういう身体なんやもん」と思えた。
でも、経血量が多く、ひどい痛みを伴った。
「本当にしんどかった。多いし、痛いし」
「絶対に布団を汚しちゃうので、一晩中椅子に座って過ごしました」
その苦しみは丸一週間続き、毎月一度やってきた。
おこづかいで痛み止めを買い、のんで痛みをしのいだ。
痛み止めは、生理中の1週間でひと箱がなくなった。
今まで様々なことは押し込めて、我慢することができていた。
でも、生理だけはダメだった。
毎月全てがリセットされて、つらいことは毎月やってきた。
終わったらまたやり直し。この繰り返し。
すごくストレスだった。
それでも婦人科には行けなかったし、母にも言えなかった。
一人で抱えるしかなかった。
04今は通過点。もっと広い世界がある
男女の差が出てくる頃
通っていた小学校が大きく、みんな同じ1つの小学校から同じ中学校に上がったため、9年間同じ顔ぶれだった。
みんな知った顔だったため、周りには「男みたいな子」だと思われていたが、いじめやからかいは一度もなかった。
それでも中学にあがると、男女で発育に差が出る。
「小学校の時は、腕っぷしがあるぞ!強いぞ!って感じでしたが、男子との差が出てきてからは無駄に張り合うのはやめました」
学校では友達としゃべったり遊んだりしたが、家に帰ってから集まって遊ぶことはしなくなった。
みんなは部活に忙しかったが、自分はパソコン部だったので毎日部活はない。
「学校から帰ると、家でずっと本を読んでいました」
「“学校に行く引きこもり” みたいな」
家には、赤川次郎や西村京太郎の本が棚に並んでいた。
母が好きだったのだ。
その影響からか、自分も小学校1年で赤川次郎を読み始めた。
孤立はちっとも怖くない
中学になると、女子たちが色気づいてくる。
「自分は男の子らと普通にしゃべるので、それを傍で見ていた女の子から『私が好きなのを知ってるのに、なんで仲よくするの?』『私が好きなことバラしたでしょ?』って」
それが発端となり、孤立したことがあった。
でも、全く気にしなかった。
「逆に、人のことを無視するのって大変だから、ご苦労さんって思っていました(笑)」
相手が喋ってくること、相手がしてくることに対しては、全然気にならない。
一方で、自分が人にしたことで、相手がどう受け取るのかはすごく気になる。
「朝のあいさつでも、このタイミングで大丈夫かなーとか、言い方は大丈夫かなーとか」
自分が発信したことに対して相手がどう思うのかが気になる。
ぐるぐる考えてしまう。
それは、自分の発信したことで相手ともめたくない、争いたくないというのが根底にあるから。
また、孤立してつらくなかったのは、「今はこの狭い中にいるけど、大人になればここで生きていく必要はない」ということに気づいていたというのもある。
それは本やテレビの影響かもしれない。
西村京太郎と内田康夫の小説を読めば、自分のいる世界がいかに狭く、世の中にはもっといろんな世界があることがわかった。
ここは通過点だから、孤立なんてたいしたことではないのだ。
05自分の力で生きていくために
社会で自立して生きていくということ
機械をいじるのが好きだったこともあり、工業高校の機械電気科に進んだ。
高校卒業後の進路を決める際には、飛行機などの機械をいじる仕事に興味を持ち、それが航空自衛隊という仕事にぴったりとはまった。
「もともと人を助ける航空救難機というのに興味があったんです」
「機械電気も学んでいたので、それも活かせると思いました」
自衛隊は公務員で大きい組織。保障もしっかりしている。
自分一人で自立して生きていくにはよい場所だと思った。
摂食障害になるほどのストレス
航空自衛隊には女性として入隊した。
まだ治療を開始していなかったし、戸籍上も女性であったから、入隊するには女性としてしか選択肢がなかった。
入隊後は基地内の女子寮に入って、同僚の女性と一緒に過ごさなければいけないことはわかっていた。
慣れてしまえば何とかなると思っていた。
しかし、自衛官といってもやっぱりみんな女の子。
その中で自分が24時間一緒にいることは想像以上に大変だった。
「入隊して3ヶ月くらいご飯をまったく受け付けなくなり、10kgも痩せてしまいました」
男性とは区別された生活をし、女性の中で過ごすことが大変だったのだ。
「今は、よく『女湯に入れてええやん』って言われるんですけど、それどころじゃない」
「自分の身体が周りに見られてしまう。それがすごく嫌でした」
周りは自分を女だと思っているのでなんとも思わないだろうが、自分はその認識ではない。
自分さえ認められていない体を、人に見られるのが一番嫌だった。
それでも、7年は航空自衛官として働いた。
「『石の上にも3年じゃないけど、仕事を3年は継続しましょう』っていう高校の担任の教えもありましたし、自分らはちょうど就職氷河期だったので、仕事を変えることに罪悪感もあったんです」
それから同期の支えもあった。
「同期みんなで『ここまで頑張ってきたからやってこう』って励ましあっていました」
24時間365日一緒だった同期との絆も、自衛官を続けられた理由だ。
<<<後編 2017/05/27/Sat>>>
INDEX
06 治療への障壁
07 作業療法士の道
08 ゆるぎない愛情の土台
09 手術、ホルモン治療、戸籍訂正
10 LGBTが社会で自立し生きていくために