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Writer/雁屋優

アセクシュアルでXジェンダーの私。老後不安、介護と向き合う

最近、LGBTの老後問題を目にすることも増えてきた。しかし、アセクシュアルやXジェンダーの人々の老後や介護については、あまり語られていないように思う。アセクシュアルでXジェンダーの私の老後不安を紐解き、どのような問題があるか、考えていきたい。

アセクシュアルでXジェンダーの私、病院における不安

医療機関 ――。 どこまでも、「ふつう」といわれる人しか想定していないシステムが、そこにはあった。

緊急連絡先のないアセクシュアルな私

コロナ禍が始まる前、私は病院で困ったことがある。頭を打って救急搬送されたものの、近くに来てくれる人もいなければ、生家とも仲が悪く、緊急連絡先にできるような相手もいなかった。

精神科や心療内科においては、緊急連絡先がない、もしくは書きたくないことについては一定の理解があるものの、救急外来でそれは無理な話だった。頭を打って搬送されているので、「できれば誰かに見守ってもらいなさい」と言われた。

そう言われても、いないものはいない。幸いにして、お互いの住んでいるところの中間地点までは来られる友人がいて、電車で一時間のところでその友人と過ごすことで、どうにかしたけれど、あのとき、友人の一人もいなければ、私は救急外来から帰してもらえたのだろうか。

病院での入院手続きの説明を聞いたことがあるが、当然のごとく、「ご家族に〇〇をお願いして」などと、家族がいる前提で説明していて、唖然とした。家族のいない人々は、医療も受けられないのか。

私は、アセクシュアルで、生涯パートナーを作らないつもりだ。老いれば、当然友人達が皆亡くなってしまって、パートナーも子どもも友人もなく、個人的に頼れる人間が誰もいなくなるかもしれない。そのとき、私は病院でどう扱われるのだろうか。

Xジェンダーには苦痛な、男女分け

さらに、私は性的指向だけでなく、性自認もマイノリティだ。自分自身を男女どちらの性でもないと感じ、無性でありたいと願うXジェンダーなのである。

性自認がはっきりしていなかった学生時代には、女子更衣室での着替えも、宿泊行事における入浴も、平気だった。周りにいるのは、同性だと思っていたからだ。

しかし今はそうではない。心を許した女性の友人であっても、無性でありたいXジェンダーの私にとっては、共に過ごす人たちが同性のように見えるときもあるが、異性のように思えるときもある。そのため、着替えや入浴をともにすることには、抵抗がある。昔は好きだった銭湯や温泉に行きたいと思えないのは、そのせいもあるかもしれない。

では、病院に入院したときは、どうなるのだろうか。

Xジェンダーの私は、個室に入院するしかないのか

病院に入院する際には、大部屋か個室かを選ぶことになる。当然個室の方が高く、差額ベッド料も発生する。同じく自分を無性と感じている人となら、相部屋になってもそこまで苦痛ではないかもしれないが、性自認としてマイノリティであることから、大部屋の実現は難しいだろう。

結果的に、入院生活に苦痛を感じない滞在をしたければ、Xジェンダーの私は個室に入院するほかないのだ。差額ベッド代を払えるくらいの貯蓄や手厚い保険で、自分で備える以外ないのだろうか。性自認ゆえに、異性との相部屋を拒否するのは、シスジェンダーであれば、当然の行為であるのに。

Xジェンダーとして、介護に不安を感じる

LGBTかそうでないかに関わらず、老後を語るときに、避けては通れない話題が介護だ。

同性介助の原則があるけれど

高齢者問わず、介護は基本的に同性介助の原則がある。ただし、これも必ずそうとはいえないものなのだ。介護従事者の男女比の問題や、心身の状況にそくした介護サポートの実現が難しいことがあるためだ。

それなら、Xジェンダーの私は、どのような人に介護してもらうのが適切なのだろう。そもそも、一般的な性自認の「男・女」に分けられたくない私は、対応してくれる介護事業所があるのだろうか。さすがに、私が老いる頃に、性自認を理由に介護サービスの提供を断られることはないだろうけれど、それでも不安は残る。

Xジェンダーの私は、女性ヘルパーに入浴介助を頼めない気がする

先ほどの入院の話でも書いたけれど、私には、女性が異性に感じられる瞬間がある。男性は、言うまでもなくずっと異性だ。介護にもいろいろある。調理や買い物代行、清掃などの介護は女性のヘルパーにお願いすることはできると思う。

しかし、いずれ必要な介護の範囲も広がって、入浴などの肌をさらす介護をお願いすることになるだろう。そのとき、Xジェンダーの私は女性のヘルパーに安心して頼めるだろうか。多分、その答えはノーだ。

女性のヘルパーに入浴介助されるのは、異性に裸を見られるようで、苦痛だろう。しかもそれが、毎日とか、数日おきとか、私が死ぬまで休むことなく続く、日常となるのだ。ここまで書いて、絶対無理だとよくわかった。想像するだけで、割とつらい。

LGBTへの身体介護、どうすればいいのか、わからない

『LGBT専門医が教える心・体そして老後大全』(針間克己監修、わかさ出版、2020年)では、同性による介護は現実的でないとあり、絶望した。異性に肌をさらしながら、終末期を過ごさなければならないなんて、考えたくもない。でも、有効な手立てを私は思いつけない。

介護ロボットがいくら普及しても、最後は人の手が必要だろうし、そうなるとやはり、LGBT当事者は、性別に関係なく、信頼できる介護者と出会うとか、そういうことを目指すしかなくなるのだろうか。

死後のことを任せられる人がいない

手厚く弔ってほしいとは思わないが、それでも最低限の処理はある。

 

パートナーや子どものいない、もしくはパートナーに先立たれた人々が、LGBTか否かに関係なく、直面しうる問題ではある。前提として同年代の信頼のおける友人には先立たれ、パートナーがいたとしても、先立たれていると考えて、話を進める。人は誰でも、自分が最期のときに「最後の一人」になる可能性があるからだ。

パートナーも子どもも欲していないアセクシュアルの私は、「最後の一人」確定だろう。そうなると、死後の処理をする人がいない。

私が求める死後の処理

私が望む死後の処理とは、最低限必要な処理とは何だろう。現行の制度では火葬をするのが現実的だから、火葬は確定として、葬儀や墓といったものに、私は必要性を感じない。これは死生観の問題にもなってくるだろうが、私は、正直自分の死後にあまりお金をかけたくない。

私の財産は、生きている私が使うためにあるものだ。死後盛大な葬式をしてもらったからって、私の生はとうに終わっているのだから、意味なんかない。個人的にはそう考える。それに、私の死を誰が悲しもうが悲しむまいが、私の知ったことではない。

それならば、最低限の火葬、そして、遺骨を持っていたって置き場に困るだけなので、その処理を考えておこう。

最低限でいいけど、それを頼める人もいない

近年では、「ゼロ葬」や「直葬」といった言葉もあるように、簡素な葬儀プランが出てきている。選択肢が増えるのは、本当にいいことだ。火葬については問題ないにしても、火葬後の遺骨をどうしようか、その答えはまだ出ていない。毎年管理費を払い続ける必要があったり、高価な墓であったりする必要はない。そういったものは、私にはむしろ不要だ。

できれば、最初に支払いを済ませて、あとは掃除も何もなく、といった形式がいい。散骨はその点で魅力的なのだけど、あまり現実的ではない。樹木葬は最近よく見かけるが、きれいな花をつける樹木を見て故人を思い出すくらいなら、墓参りと気負わなくてもよくて、いいなと思っている。

毎年義務のように墓参りしてくれる相手もいないだろうが、もしいたとしたら、その生活にはできる限り配慮したい。そう言ったところで、パートナーはおらず、子どももなく、友人達は先立ち、とくると、それらを頼める人もいない。

そういった死後の諸々を代行してくれる会社か行政サービスがあれば、よいのだが。人は誰でも「最後の一人」になりうるのだから。

LGBTだけではなく、老後(介護)の不安は社会の問題

こうして不安を列挙してみて、気づいたことがある。

LGBTゆえの老後不安と、シングルゆえの介護の不安

老後不安を整理してみて、私の老後不安は、LGBTであることに起因するもの(大部屋や介助問題など)と、シングルであることに起因するもの(「最後の一人」になる可能性)があると気づいた。LGBTの話のみに絞らなかったのは、シングルであることに起因する介護の不安も、LGBTと無関係ではないと考えるからだ。

LGBTであるから、シングルであるとは限らないが、シングルである理由にLGBTが入ってくることはある。それゆえに、シングルであるから発生する老後不安も、LGBTと無関係ではない。

そもそも、LGBTはマイノリティであるがゆえに、パートナーを見つけることが難しい側面もある。LGBTの人々が、シングルで介護や必要になった場合のことを考慮しておくことに、意味はある。

老後不安は、社会システムの欠陥から生じている

考えれば考えるほど、私が感じた老後や介護への不安は、社会システムの欠陥であるように思えてくる。一つは、高齢者福祉やその周辺の社会制度において、LGBTが想定されていない事例が多すぎること。もう一つは、LGBTであるか否かに関係なく、「一人で死ねない」社会制度が構築されていること。

これは、LGBTに限った問題ではない。もちろんLGBT特有の問題はあるが、「一人で死ねない」社会は、LGBTでない人々にとっても、不安を感じさせるものであるだろう。いくらコミュニティを作り続けたって、「最後の一人」になる可能性はある。それを、「自助」や「共助」でどうにかしろと言うのは、無理難題だ。

社会システムの欠陥のつけを、個人に払わせてはいけない。

誰もが安心して老いを迎えられる社会に

LGBTであっても、そうでなくても、安心して老いを迎え、誰かに介護などのサポートを受けながら死んでいける社会システムの構築が急がれる。LGBTだからこそ特別な対応が必要な場面、そして、LGBTでない人とも共通する不安もある。

老後や介護の不安ということで、私達は互いに手を取りあい、ともに考えていけるのではないだろうか。

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