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Writer/古怒田望人

トイレ問題―― 何が問題!?

LGBTQ認知の浸透と共に、「トイレ」の実用的な使用の可能性が、社会問題としてあげられるようになりました。例えば、戸籍の性別やジェンダーに関わらず利用できる「誰でもトイレ」の普及や、トランスジェンダー女性が女子トイレを使用などの人権についての問題です。

しかし、そもそも「トイレを使用する上での様々な社会的問題」そのものは、あまり考慮されてこなかったように思われます。今回は、LGBTQに関わる「トイレ問題」を、人権のような大風呂敷をいきなり広げるのではなく、僕・一人のジェンダー・クィアの生活の観点を始点に考えてみたいと思います。

トイレ使用の不便さあれこれ

まずは、ジェンダー・クィアの僕が感じるトイレを使用するにあたって不便だなぁ、ということがらについて触れてみたいと思います。そこから、トイレ問題がおもったよりややこしいものであることを見てみたいと思います。

トイレが空かないっ!

LGBTQにとってトイレ使用で悩みどころになるのは、「どのトイレを使うか」ということが一つには大きいように思います。僕の場合、「(既存の社会的性としての)男女どちらに見られてもいい、曖昧なファッション」を意図的にしているので、女子トイレは使いづらいのが正直なところです(家族から勧められることもありますが、どこかで他の使用者と対話が必要な場面が出てくる可能性があり、用を足すどころではなくなるからです)。

そうなると、行き慣れている場所ではないかぎり、男子トイレを選択します。不用意に立ち止まらず、ささっと個室トイレに入ってしまえば、特に問題はなく用は足せます。しかし、なかなか空いていないことが多いです。そうなると、個室待ちの列に並ぶことになり、僕のファッションやメイクをみて女子トイレに間違って入ったと思う方がままあり、「ああ・・・・・・」と、僕も忍びなさを感じます。そんなこんなで、待っていてもトイレは空かず、結局その忍びなさも強まり、用を足すことなくトイレを去ることがあります。

トイレはなんで空かないの?

こういう経験を何度もすると、「何で個室トイレがなかなか空かないのか」と、自問することが増えます。確かに、だれでもトイレを増やせば! とか、個室トイレの数を増やせば! とか具体的な提案はみつかりますが、そもそも個室トイレを普段自分がどんな仕方でしようしているのか思いを止めてみるのも、トイレ問題を考えるひとつのきっかけになると思います。

そこで、これは一般論ではないですが、僕の「パニック障害」という事例から考えてみます。今は、お薬で収まっている部分もあるのですが、電車通学が長かった時期などは、人が多い場所――満員電車や狭い教室――にいると、呼吸の乱れと共に吐き気や強い便意が襲ってきました。その場合、頓服薬で落ち着かせながらも、車内トイレであれ、一般の個室トイレであれそこで吐き気や便意と格闘しながら、パニック発作が落ち着くのを個室トイレで待たなければいけません。

トイレの扉を隔てた先のことは、個々人のプライバシーに関わることなので僕にも分かりませんが、単純に「用を足す」だけの問題ではないことが見えてきます。そうなると、「用を足す」目的の個室トイレの増加だけでは、人が抱えるトイレ問題に必ずしも応答できていないのではないでしょうか。

0トイレの目的って?――実用性と社会性

さて、こんな風にトイレ問題は、「用を足す」という実用性のみに収束するものではなさそうです。次に、トイレ問題の社会性の側面を見てみたいと思います。

お化粧直しの場所がないっ!

よく、仲良くなりたてのパートナーたちから「いりやちゃん、お食事するところでメイク直しするのはマナー違反だよ! お手洗い行ってきな」とたしなめられることがあります。お食事した後などの口紅直しや屋外からカフェ等に入り、汗ばんだ顔をメイク直しする場所は、「トイレ」であることが確かに「マナー」でしょう。

ですが、デパートの飲食店のトイレはたいがいそのフロア内にあり、大体が男女別です。そして、ご存知のように、男性トイレにはパウダールームはありません。僕は、デートの時にはなるべく男女別のない個室トイレがある、行きつけのカフェに行くようにしています。それでも、トイレが一つしかなかったりするので、パートナーをしばらく待たせてしまうことになります。

このトイレ問題の前提にあることの一つは、「お化粧は公共の目の届かない所でするべき/直すべき」という一つの社会的な規範です。例えば、電車でメイクをすることがとかくうるさく言われることを想起すればよいと思います。しかし、この規範は私たちの生活を時に窮屈にさせます。お仕事に追われていて、ご自宅でメイクする時間が無い方はどうすればよいのでしょうか?

場の雰囲気的にトイレに立つことができない時には? あるいは、僕のようにメイクを直すことのできるプライベート空間を得られないセクマイは、どうすればよいのでしょうか?このように、トイレ問題には実用性の問題だけではなく、社会性の問題が多分に含まれています。

公共圏と親密圏の境としてのトイレ

別の言い方をすれば、トイレとは「公共圏」と「親密圏」との境が接している空間だといえます。「公共圏と」いうのは学校や会社のような、それが良いか悪いかは別として、一定の社会的ルールが存在する空間です。

他方で、「親密圏」は寝室や自室のような個人あるいは複数の人々のプライベートな生活や体験が確保されるような場所です。この一見別々にみえる二つの領域が、トイレでは重なり合うことがあります。

例えば、早朝にトイレの取り合いが家族や友人となされる時には、それぞれの社会的立場(子ども、学生、社会人、親などなど)が表明されます。「会社に遅れる」とか、「親だから子供を優先させたい」とかです。しかし、トイレ使用の目的は、僕のパニック障害の事例のように、「用を足す」ことに限定されず、さまざまな意味でプライベートな観点を含んでいます。

僕のように、メイクやファッションについて男子トイレでとやかく言われたくないから、あるいは早く発作を収めたいから個室トイレに速足になる時、トイレでの社会性は数少ない個室トイレをどう共有し合うかという公共圏の側面と同時に、僕のプライベートに関わる親密圏の側面をもっています。

こう考えてみると、トイレ問題は狭い意味での性別に関わるジェンダーにのみ限定されたものではなく、ジェンダーの語源の「種類(ゲヌス)」に依拠するような、人間のさまざまな社会問題を含んだとても広い議論だといえます。

僕なりに思うトイレのあり方

今はどうか知りませんが、都内の誰でもトイレを使用しようとしたら、施錠されていて「係員をインターホンで呼び出してからご使用ください」と書かれていました。僕は少し立ちすくみ

「なんて説明すればいいのかしら? 」
「見た目がこういうのだからって言ってもインターホンじゃ伝わらないし、係の人待ってたら膀胱炎になるし」
「かといってパニック障害あるから待つと発作が出るで通じるか分からないし、そもそも何で僕が自分のマイノリティ性を、トイレ使うのにいちいち説明しなければいけないんだろう」

と心の中で、ぶつぶつ呟きました。

僕が公共のトイレに嫌われているだけかもしれませんが、こういう自分の事例を思い出すと、いったいどれだけの人が、赤と青で区別されたトイレ、施錠されたトイレの前で色々な悩みや問いを自分になげかけてきたのかと想像します。最後に、これまで見えてきたトイレ問題の多角さに、僕なりの応答をしてみたいと思います。

居場所の不在

また個人的な話から始めることをお許しください。
研究渡航費削減のため泊まったカプセルホテルの朝、前日の学会発表の緊張感でふらふらの僕はチェックアウトギリギリになり、当日のイベントのためのメイクが間に合わなかったりします(焦りすぎるとパニック発作が酷くなるので、いつもゆっくり身支度になるのも原因ですが)。

何とかヒゲは剃れたもののメイクをする場所がない・・・・・・。そこでホテルのロビーにある男子トイレの個室で、用を足すついでに手鏡でメイクをします。朝の忙しい時間帯です、時々「コンコン!」とトイレのドアをノックされるたびに、「ああ、お急ぎだろうに、申し訳ない・・・・・・」と思いつつも、ノックを返します。

こんな僕の振舞いを聴いて、やっぱり「マナーがない」という方もいますし、「自分は醜形恐怖だからパウダールーム使えなくて、いりやさんと同じように個室を使います」と、共感してくださる方もいます。賛否があるのは、ある意味で、やむをえません。しかし、公共圏のトイレの中で、メイクやファッション、疾患などプライベートな問題が扉を隔てた先に、親密圏の部分が存在することを意識することは大切なのではないでしょうか。

自分の日々の社会規範に則って他者に発言している時、他者の立場にどれだけ立っているでしょうか。つまり、自分の社会規範が、他者の居場所を無くさせていることにどれだけ配慮しているでしょうか。

パウダールームだけではありません、女装を家族に見せないでと言われ悩んだ末に、トイレに駆け込み、メイクを落として洋服をメンズに取り換える着替え場所の不在、疾患を公的に見せられない/気づいてもらえないこと、あるいは落ち着いて食事ができず、個室トイレでランチをすること――これらはみな、社会規範の中で居場所が不在であるからこそ、個室トイレを一つの居場所としています。

問題は自分でも他者でもなく社会の仕組みにある―― 壁一枚向こうへの想像力を

もちろん、「用を足す」こととしてのトイレを無視しているわけではありません。トイレ問題を「問題」として捉えるには、どんなジェンダーであっても、望むジェンダーのありように応じた「用を足す」トイレ使用の問題という、とてもシンプルなのに中々社会が応じてくれない「人権」の観点が必要となります。

しかし、だからと言って、これまで見てきたようなトイレ使用に伴う様々な問題を見過ごしたり、単純化したりしてはいけません。なにより、他の問題を「無関係」とはねつけることは他者の存在を無いものとみなすことと等しいのではないでしょうか。哲学者のパスカルは「そこは私の日向ぼっこする場所です。ここから地球上すべての簒奪の始まりとそのモデルが生まれる」、と記しています(パスカル『パンセ』)。

問題は、自分の居場所=「日向ぼっこする場所」の確保に邁進することではなく、トイレしか居場所がない、という社会の大きな仕組みの問題です。言い換えれば、戦うべき相手は個々の他者ではなく、お互いがお互いの仕方で生きづらくなっている社会制度そのものなのです。

個室トイレの列に並んでいる時の想像以上に開かない扉に、「なんでぜんぜん空かないんだ!」と、イライラされるかもしれません。ですが、壁一枚向こう側にどんなプライベートな問題が押し込まれているのか、そういった「想像力」が必要なのではないでしょうか。

そういった想像力があってはじめて、私たちは他者に寄り添うことができ、それぞれの居場所を、言い換えればトイレがただただ「用を足す」ための場所になりえると思うのです。

「トイレ問題を『用を足すこと』その実用性に置くためには、様々な社会的規範から、用を足す以外の用途でトイレ使用を余儀なくされる、現状の利用者の存在に気が付けるような態度を持つことが一つなのかもしれません」

そうして、それぞれの居場所を見つけられる社会をつくることが、可能なのではないでしょうか。セクマイのトイレ問題、ちょっと足を引いてみて関わってみるのも一つの選択肢なのでは、というのが僕の思うところです。

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