先日、宇多田ヒカルさんがノンバイナリーであることをカミングアウトした。同じノンバイナリーとしてぼくはとても嬉しく思ったのだけれど、一方でSNS上では否定的な声も少なくなかった。
シス男性と結婚したノンバイナリーのぼく
宇多田ヒカルさんのカミングアウトに対して、「セクシュアリティのカテゴリがありすぎてわけがわからない」「カミングアウトする必要ある?」などといった批判も数多く見られた。これが公開される今日はちょうど「ノンバイナリー週間」最終日(今年は7/11〜7/17)なので、このことも含めノンバイナリーというものについて今一度考えてみたい。
ノンバイナリーってなに?
まずはノンバイナリーという言葉の意味から、改めて説明させてほしい。ノンバイナリーは、自分のことを “男性” とも “女性” とも認識していない/あるいはその両方だと認識するセクシュアリティを指す。
“男性” と “女性” の真ん中である中性、あるいはどちらでもある両性、自分に性別を感じられない無性、日によって性自認が変わる不定性(ジェンダーフルイド)の人たち全員を包括した呼び方だから、ノンバイナリーと自認していても人によって認識はそれぞれ異なる。
また、中性だと感じている人の中には2つの性のど真ん中だと感じる人もいれば、どちらかといえば “男性” 寄りの人/“女性” 寄りの人もいる。さらに、両性だと感じている人の中にもパキッと男女半分ずつの人もいれば、“男性” 性が多めの人/“女性” 性が多めの人もいる。つまりは一口にノンバイナリーといっても、その自認の仕方は無数に存在するのだ。
そしてノンバイナリーは、「性自認と性表現を示す言葉」である。性自認というのは「自分自身の性別をどう認識しているかを示す概念」だから、「自分の恋愛/性愛の対象を示す概念」である「性的指向」とはまったくの別物だ。(「性表現」については後ほど触れる。)
ノンバイナリーであることと、シス男性と結婚することは、矛盾しない
ちなみにぼくは、身体女性のノンバイナリーであり、バイセクシュアルを自認している。現在のパートナーはシス男性で、彼とは法律上の婚姻関係を結んでいるのだが、時折このことに対して「 “男性” と結婚しておいて “女性” じゃないなんて矛盾している」などという、それこそ宇多田ヒカルさんに向けられたものとまったく同じ批判を食らうことがある。
ぼく自身はたぶん無性に近いのだと思うけれど、その一方で自分の中の “男性性” ないし “女性性” のエッセンスが皆無とは言い切れない。そして、ぼくは “男性” と “女性” に恋をする。この2つの事実は背反することなく、ぼくの中に存在している。
すなわち、ぼくがノンバイナリーであることと、ぼくが男性を愛して結婚していることに、矛盾は生じないのだ。
ぼくは “女性” の身体を持って生まれたけれど、生まれてから一度も自分を “女性” だと思ったことはない。でも、だからといって “男性” になりたいと思ったこともない。
結婚前も結婚後も、ぼくは変わらずノンバイナリー
現在の夫と交際する前にも数名のシス男性と付き合った経験があるけれど、そのときも今も “女性” として彼らに恋をしたわけじゃないのだ。ただぼくは「ぼく」として、“男性”を好きになって、付き合って、そして人生のパートナーになった人がたまたま “男性” だった。それだけだ。
婚姻届の妻の欄に自分の名前を刻んだその瞬間から、突然その認識が変わったりなどはしない。結婚前も結婚後も、ぼくが “女性” でも “男性” でもないことに変わりはない。
ぼくは生まれてから今日まで、ずっとノンバイナリーだった。セクシュアリティは流動的なものなので「絶対」なんてことは言えないけれど、ぼくは今まで揺らいだことのないタイプだから、きっとこれから先も死ぬまでノンバイナリーなんだと思う。
宇多田ヒカルさん「ノンバイナリー宣言」への批判について
もしかしたら宇多田さんの楽曲の主人公なりに “女性” 性を感じて、そこに自分を重ねたりしていたファンの人は、裏切られたような気持ちになったのかもしれない。じゃあ、逆に言えば、「ノンバイナリーらしさ」なんてものが存在するのだろうか。答えは否だ。
男性と結婚経験があっても、出産していても、宇多田ヒカルさんはノンバイナリーだよ
先にぼく自身について述べたように、シス男性と結婚する身体女性のノンバイナリーはぼくの他にもいる。婚姻届の「妻」の欄に自分の名前を記入することへ抵抗がなかったわけじゃないけれど、いろんなことを考えて現在の夫との法律婚を決めた。戸籍が女性であることを利用したのだが、現状この日本において「男性と女性以外の婚姻」は認められていないのだから致し方ない。
ぼくの性自認はノンバイナリーであり、性的指向はバイセクシュアルだから、シス男性と恋をすることも交際することも結婚することも当然である。宇多田ヒカルさんがぼくと同じように生まれたときから今までずっとノンバイナリーだったのか、あるいは途中で変化したのかはわからないけれど、どうあっても男性と結婚することがおかしいだなんて他人が断ずることはできない。性自認と性的指向は、まったくの別物だから。
「出産までしたのに?」と疑問を呈する人もいたけれど、「出産したこと」が “女性”の証とは限らない。女性と自認していなくとも出産を決意する人も、出産に抵抗のない人も存在するのだ。もしかしたら、これはシスヘテロの人にはわかりにくい感覚かもしれないので、次でもう少し詳しく説明させてほしい。
ノンバイナリーが全員「身体を変えたい」わけじゃない
身体は女性だけれど、性自認が “女性” ではないという人全員が、「身体を変えたい」と望んでいるわけじゃない。性自認と身体に齟齬のあることを「性別違和」と呼ぶのだが、これには個々人によって程度の差がある。
ちょっとズレは感じているけれどまあこのままでいいかと思っている人、ぼくのように乳房縮小ないし乳房切除を望む人、男性の身体になりたい、取り戻したいと願う人、今の体のままが気に入っている人まで、本当にさまざまなのだ。ノンバイナリー自体が男女二元論を覆す概念だから、翻って男女どちらの身体でもかまわないと感じる人だっている。
それに、これはもしかしたらあまり知られていないことかもしれないけれど、FTM/ MTFでも外科手術を望まない人だっている。もちろんノンバイナリーの中にも同じように、「身体を変えたい」とまでは思わない人もいるのだ。だからすべてのFTN(X)が出産──ひいては子宮があることに違和感を覚えているわけではない。または違和感よりも子供を望む気持ちが勝って、出産を選択する人もいる。
身体女性のノンバイナリーで、性表現が “女性” に近い人だっている
性自認、性的指向までは知っている人も多いかもしれないけれど、「性表現」という言葉は耳慣れないという人もいるかもしれない。これは「見た目や言動で表す性」を指す概念だ。先ほど述べた通り、「ノンバイナリー」は性自認と性表現の両方を含むから、ノンバイナリーを自認する人は各々の思うノンバイナリーとして振る舞う。
繰り返しになるけど、例えばぼくは性自認と性表現はノンバイナリー、性的指向はバイセクシュアルである。“男性” にも “女性” にも見られたくないから、普段は化粧をしてメンズ服を着て生活している。でも、悲しいことに背がものすごく低いから、パッと見は「ボーイッシュな女性」にしか見えない。
身体女性のノンバイナリーであるのならば、性表現は “男性” に近いと誤解する人も多いけれど、実はそうとは限らない。髪が長くてフェミニンな可愛らしい服装を好むノンバイナリーだって、存在するのだ。
何をもって “女性らしい” “男性らしい”とするかは人によって異なるし、「“女性” 寄りの中性」ないし「“女性” 性多めの両性」の人なんかはフェミニンな格好をするだろう。もちろんそこには、単純な好みの問題もあるのだけれど。
宇多田ヒカルさんもぼくも、性役割の逃避としてノンバイナリーを自称したんじゃない
宇多田ヒカルさんのカミングアウトについて、「結局はジェンダー規範から逃れたいだけでしょ」とか、「そのへんの普通の女とは違う、サバサバ系アピールってやつ?」というような揶揄も見受けられた。ここの誤解についても触れておきたい。
「宇多田ヒカルは “女性” の性役割から逃れたいだけでしょ?」
ここまで説明してきた通りぼくは “女性” じゃないから、“女性” の性役割を押し付けられるのは死んでもごめんだ。でも、“女性” の性役割から逃れるためにノンバイナリーを自称しているわけじゃない。それとこれとはまったく別の話だし、ごっちゃにしていい問題じゃない。
ジェンダー規範にはもちろんのこと、ぼくは心底反対している。“女性” だけが家事をしなくちゃならないなんてちゃんちゃらおかしいと思っているけれど、それはシス女性だって同じだろう。“女性” というだけで何かを我慢したり負担したりしなきゃいけないなんて、あってはならないことだ。
だけど、そこから逃げる隠れ蓑として「ノンバイナリー」を利用しているんじゃない。単純に、ぼくの心はぼく自身を “女性” だとは思っていないという、本当にただそれだけのことなのだ。
「宇多田ヒカルはサバサバ系アピールをしている」わけじゃない
また、「サバサバ系アピールなんじゃないか」と穿った見方をする人もいた。「特別な人」「変わっている人」と見られたいのでは、はたまた「そこらへんの女と自分は違う」というある種のミソジニー的思想があるのではという邪推もあったけれど。
“女性” を見下しているから、ノンバイナリーだとSNSのbioに書いているわけじゃない。この世にはいい人もそうでない人も存在するから、ノンバイナリーを自認する人全員がミソジニーを持っていないとは、もちろん言い切れない。けれども少なくともぼくは、女性蔑視を心底憎んでいる。“女性” ではないことと、ミソジニーを抱えているかどうかは、まるっきり違う問題だ。
ぼくや宇多田ヒカルさんがノンバイナリーを自認するなら、それが真実なのだ
ぼく・ライターチカゼの記事を読んでくれている方は気付いたと思うけれど、ぼくは今回の記事から一人称を変えることにした。以前、自称詞に対する葛藤についてエッセイを書いたけれど、「わたし」はやっぱり妥協で使用していたに過ぎないし、「ぼく」の方がずっとぼくにふさわしい呼び方だから。そして身体女性のノンバイナリーとして発信していく上で、そのほうが伝わりやすい気がしたから。
「宇多田ヒカル、わざわざノンバイナリーって宣言する必要ある?」
この質問に、宇多田ヒカルさんと同じくノンバイナリーを自称するぼくなりの回答をしてみようと思う。ぼくが29歳というこの年齢で一人称を変更してまでノンバイナリーの1人として声を上げるのは、存在を認識してほしいからだ。だって、「ノンバイナリー」というカテゴリの名称なくして、いったいどうやってぼくたちがこの社会で普通に生きていることを、知ってもらえるというのだろう?
男女どちらにも当てはまらない性別の人間だって、この世で呼吸してご飯を食べて買い物して洗濯して暮らしているんだということを、知ってほしいのだ。その2つ以外の性別など存在しないだなんて切り捨てられたくないから、“わざわざ” カテゴリの名称を名乗っているのだ。
その必要性を、シスヘテロの、確固たる居場所がある人が問うのは、ちょっとずるいよ。足場が不安定な感覚を知らないのに、「必要あるの?」なんて鼻で笑わないでほしい。何度だっていうけれど、セクシュアリティの名称は人を分類するためにあるんじゃない。社会の中で自分の居場所を発見するための、そして他の人に自分の存在を認識してもらいやすくするための言葉なのだ。
宇多田ヒカルさんが、ぼくが、何であろうとなかろうと、否定だけはしないで
「セクシュアリティのカテゴリがありすぎてわけがわからない」という気持ちは、正直理解できる。ていうか、ぼく自身すべてのカテゴリを網羅などできていない。これについてはだいたいみんな同意見で、ぼくの周囲のセクシュアルマイノリティ当事者からもよくそういった声を聞く。
でも、知ってもらいたいのも覚えておいてもらいたいのも、名称じゃない。「男でも女でもない、男にも女にも恋をする人間がここに生きている」というシンプルな事実それのみだ。
すべてを理解してくれなどとは言わない。そもそも他人を真に理解するなんてこと自体、とうてい不可能なんだから。ただ、否定はしないでほしい。生きていること、存在を、ないものとして扱わないでほしい。
「この世には男女どちらかしか存在していない」と勝手に決めつけて、それを基準に「おかしい」「矛盾している」などと断じたりしないでほしい。
セクシュアリティは、自分自身が決めるものだ。他人がああだこうだと口を挟む権利など、一切、ない。賛否両論あること自体が、本当はおかしい。宇多田ヒカルさんが男性と結婚していたことや出産経験が有ることを「証拠」として、「今更 “女性” じゃないなんて筋が通らない」などと判断しないでほしい。
宇多田ヒカルさんが、ぼくが、自分自身をノンバイナリーだと自認するのならば、もうそれのみが真実なのだ。