ネット空間、特にTwitterを中心にして、トランス女性が女性スペースを利用することへの差別的発言が昨今、散見されます。差別対象となっているトランス女性は、特に「未オペ」のトランス女性、言い換えれば、ペニスがまだ残っているトランス女性です。差別者の主張としては「ペニスをもったトランス女性は、ペニスがあるために、性暴力やハラスメントを犯す危険性がある」とまとめられるでしょう。
もちろん、トランス女性「全て」を犯罪者予備軍のようにみなすこの主張は、明かに暴論です(例えば、日本国籍の方が犯罪を犯したからといって「全て」の日本人が犯罪者予備軍となるわけではないです)。そもそも、ペニスの有無をどのように判断するのでしょうか。
今回は、身体の性とはそもそも何なのか、そして、「見た目問題」に身体の性の議論が移っているのではないか、という問いからこの問題を考えてみたいと思います。
身体の性の曖昧さ
しばしば、トランスジェンダーの違和を説明する表現として「心の性と身体の性の不一致」という表現が用いられます。性科学者の中村美亜さんが『心に性はあるのか?』(2005,医療文化社)という著作で疑問視しているように「心の性」は、問題となることがあります。
しかし「身体の性」は、外性器の違いという点で語られることが多く、あまり問題視されません。以下では「身体の性」について、以前にも論じましたが今回は社会的な側面から、多角的に見てみたいと思います。
生得的な身体の性?
冒頭で述べた、ペニスを残したままのトランス女性への差別には、次のような主張が付け加えられます。それは「トランス女性は『男性の身体』を持って生まれたのだから、女性とみなすことはできない」というものです。しばしば使われる表現だと「生得的女性」と「トランス女性」は異なるともいわれます。
では、「生得的な身体の性」とは何を意味するのでしょうか。トランス女性を差別する人々も主張するように、外性器、つまりペニスの有無が「男性/女性の身体」を生まれた時から決定するのだというのが一般的な感覚でしょう。出生証明書にもそうして性別が記載されるのですから。
しかし、チェイス・ストランジオというアメリカのトランス男性弁護士で、トランスジェンダー活動家は、外性器で判断され書類に記載される性別は「人口調査と監視」のためのものであって「医療的目的」のためのものではない、と語ります。
実際、僕はあるLGBTフレンドリークリニックで、保険証に戸籍の性別が書かれているにも関わらず、問診票に「男・女」という記載しかなく悩んだことがあります。つまり、書面に記載される性とは医学に基づいた身体の性ではなく、あくまでも男女の比率などを確かめる統計でしかないのです。
ストランジオが話をした医療専門家によれば「セックスを構成する要素は、単なる外性器よりもはるかに複雑なもので、少なくとも、染色体、遺伝子、ホルモン、内性器、ジェンダー・アイデンティティ、第二次性徴(の仕方)」を含むものだとされます。
僕自身、偏頭痛が酷く救急車で病院にまで運ばれたことがあったのですが、その時(まだ検査などはしていないのですが)医師から、女性ホルモンが過剰に出ることがあるのではないか、と言われたことがあります。このような医学的な観点からみると、外性器の有無だけで主張される「生得的な身体の性」は妥当なものだと言えないことが分かります。
「身体の性」は見分けられるのか?
それでも、「ペニスをもったトランス女性、は性犯罪者予備軍であり、女性専用スペースから排除すべきだ」と再度反論される可能性はあります。ですが、「身体の性」が様々な構成要素からなっている以上、ペニスの有無のみから「男/女」を分けることはできません。百歩譲って、ペニスの有無で判断するにしても、どうやってその有無を見分けるのでしょうか?
私たちは衣服を着て生活をしています。そのため、もしペニスの有無を見分けるのであれば裸になるか、CTスキャンのような器具を使って調べる必要があります。しかし、このようなやり方は
1)トイレ使用のような急を要する場合には不適切
2)このような「調査」は全ての人に適応される
そのため、シス女性のような方々も巻き込むことになるという問題を含んでいます。このように、外性器に基づいた身体の性からトランス女性を排除することは、差別や医学的な無理解を招くだけではなく、そもそも具体的に実践可能なものとは到底言えないのです。
見た目の性
しばしば「人間見た目が8割(9割)」と言われることがあります。ことそれほどまでに、人は視覚から入ってくる情報を基に他者を判別し、時に差別の眼差しを向けます。そして、それは性の文脈においても色濃くみられます。
「パス」と「リード」
上記でお話ししたように、ペニスの有無からトランス女性を女性とみなさないことも、また、女性用スペースから排斥することも困難です。そのような事情からなのか、トランス女性を差別する人々はトランス女性の「見た目」という「身体の性」に議論を移しつつあるように思われます。
トランスジェンダーの界隈ではしばしば「パス」と「リード」という用語が使われます。「パス」とは当事者が望んでいる性で他者に認められる場合で、例えば、トランス女性がデパートで「トイレはどこですか?」と聞いた際に、女子トイレの場所を教えられたら「パス」していることになります。
逆に、「リード」とは「パス」とは反対の言葉で、自分の望む性ではない性で見られる場合です。例えば、トランス男性なのに居酒屋でレディースプランを勧められる場合がそうなります。
トランスジェンダーが、自分たちが社会に望む性で自然と溶け込めているかを示す指標だった用語を、現状ではトランス差別をする人々が用いるようになってきました。彼らは「『パス』が出来ているトランス女性であれば女性専用スペースを利用してもよいが、『リード』されてしまうようなトランス女性は使用すべきではない」と言うのです。
ペニスの有無をトランス女性排除の理由とすることが難しくなったため、今度は「見た目」を排除の理由として利用しているのです。
ルッキズム
このような「見た目」で他者の権利等を奪う差別を「ルッキズム」と呼びます。僕は幼いころとても太っていたので、その「見た目」から虐めの対象となることがしばしばありました。トランス女性を差別する人々はこの「ルッキズム」を「見た目の『性』」に拡大して利用しています。しかし、この「見た目の性」に基づいた差別も身体の性が複雑だったように、トランスジェンダーに限られた問題ではありません。
シス女性でも高身長、メンズルック、短髪などの要素が加われば男性に見間違われる可能性はあります。僕も男子トイレを使用する際(僕はだれでもトイレか男子トイレしか使用しません)、洋式の列に並んでいると、後ろ姿だけ見た男性は間違えて女子トイレに入ったと思い出ていってしまいますし、逆に、僕の顔まで見た男性は大抵、僕を「メイク男子」だと思ってトイレを使用します。
このように、一言で「見た目の性」といっても、身体の性と同じく一義的には決めることのできない複雑なものなのです。
見た目「問題」
東京大学教授の安冨歩氏が、先日の選挙出馬の際に、Twitter上で自身が女風呂に入ることに賛成か反対かアンケートのようなものを取っていました。そのアンケートへの返答の中には「安冨ファン」のような方がおり、「安冨氏が女風呂に入ることに大賛成」という言葉も見られました。
もちろん、ペニスをもったトランスジェンダー女性が女風呂を利用することなど全くありませんし、不可能です(この安冨氏のアンケートはトランス女性を差別する人々に利用され「やっぱり、ペニスがあっても女風呂にトランスは入ってくるんじゃないか」と差別が助長される結果となりました)。
それにしても、安冨氏が(仮にですが)女風呂に入ることを認めた方々は、なぜそのような発言をされたのでしょうか。一つには、まさに安冨氏の知名度や露出度といった「見た目」が関わっていると推測できます。終わりに代えて、「見た目問題」を少し考えてみたいと思います。
「普通」という問題
「パス」が出来ているトランス女性は、女性用スペースを利用しても良いという主張には、暗に、「女性のように見えるならば良い」という「普通の見た目」の前提があります。事実、メディアで取り上げられ、批判をほとんど向けられることのないトランス女性は、いわゆる「メディア映えし、一般女性に見える」方々が殆どです。
しかし、現実はそう単純なものではありません。元々の背格好や顔立ちが美しいとされる方ならまだしも、トランス女性は、例えペニスを取り、戸籍を変えたとしても美容整形をすることで「パス度」を上げようとします。
また、第二次性徴以前にホルモン投与に際し、裕福かつ理解のある環境なら可能かもしれませんが、第二次性徴を越え「見た目」が明らかに男性に見える人々はどうでしょう。例えば会社の重役等になって資金と権威を得るまでは男性役割をこなすか、「女装している男性」として限られた居場所や時間の中で望む性で生活することを余儀なくされます。
このように「普通」とは決して自明のものではなく、この「普通」という「見た目問題」はトランスジェンダーが望む性で、過剰な賃金労働や限られた場所などを必要とすることなく、生活する権利を奪っているのです。
社会問題としての「見た目問題」
「普通」のような「見た目問題」は、個人の趣向に基づいているように見えます。僕もパートナーを探す時や好きなアーティストを見ている時には自分が「美しい」と思う存在をついつい見てしまいます。言い換えれば、自分の「普通」を基準として他者を見てしまいます。
しかし、「見た目問題」は、個人ではなく社会に向けるべきものではないでしょうか。痩せている女性、体毛のない女性は美しいという例えば美醜の固定観念(「普通」)は電車やビルに張り巡らされたダイエットジムや脱毛サロンの広告が強い影響を与えています。
この社会の「見た目」への圧力はシス女性であっても、トランス女性であっても変わりありません。差別をするのではなく、社会が生み出す「見た目」への「普通」とされるような刷り込みをしっかりと自覚し批判することが大切なのではないでしょうか。
特に、日本は「見た目」の画一化にこだわります。僕が青い口紅をしていると、日本人は変なものをみるような眼差しを向けてきますが、海外の方は「綺麗だね」と言ってくれます。
さて、このような「見た目問題」を解決するにはどうしたらよいのでしょうか。僕もまだはっきりとした回答は見えてきません。最近は、韓国を発端としてお化粧やファッションにこだわることを止め、髪の毛を短髪にするなどの「脱コル」という女性運動も起きています。ですが、ユニークフェイスの方々のように「見た目」を生き抜く必要がある方々たちもいます。それは社会経済的な状況などから現在の社会では「リード」を余儀なくされるトランスジェンダーもまたそうです。
楽観主義的な主張かもしれませんが、個々人が「見た目」を「表現」として、もっと強く言えば社会の「こうあるべき」という「見た目=見られる目」への規範に対する「訴え」として、社会に向ける批判的なパフォーマンスとして捉えることが必要なのではないでしょうか。言い換えれば「見られる身体を」「見せる身体」「訴える身体」に変えるのです。
そして、そのためには「見た目」への差別の歴史や「見た目」の「普通」といった区分がどう歴史的に構築されていったのかを学び、より多角的な視点をもたなければなりません。そうした広い「見た目」への視野から、トランスジェンダー差別を考えなければならないのではならないのではないでしょうか。