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家族ってなんだろう? 血のつながりのない母が教えてくれた「安心」【前編】

淡い色のコートをまとい、颯爽と現れた久米泰代さん。「宿題は頑としてやらなかった」と話すとおり、やりたくないことには消極的。その代わり、目標が見つかれば、一心に突き進んでいく強さがある。Xジェンダーを自認したのは30代半ば。「自分は自分」という揺るぎなさを得た久米さんに、もう迷いはない。

2020/07/22/Wed
Photo : Taku Katayama Text : Sui Toya
久米 泰代 / Yasuyo Kume

1980年、静岡県生まれ。小学生の頃から、育ての母と2人で暮らしてきた。中学校の家庭科の授業で、建築模型を作ったことをきっかけに、建築に興味を持つようになる。専門学校を経て、15年以上個人住宅の設計に携わり、36歳で独立。現在、建築設計事務所の代表を務めると同時に、LGBT関連の事業を行う会社を新たに立ち上げようとしている。

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INDEX
01 産みの親、育ての親
02 母の想い
03 忘れ物番長
04 初潮がきた日
05 助け合って生きてきた
==================(後編)========================
06 好きってどういう気持ち?
07 憧れの建築士
08 私はXジェンダー
09 建てる人と住まう人
10 助け合って生きていく

01産みの親、育ての親

何でもあるけど、何もない

生まれ育った静岡県浜松市は、「何でもあるけど、何もない街」だ。

公園もショッピングセンターも文化施設もあるけれど、地元の人にとっては新鮮味がない。

電車に乗れば静岡市にすぐ出られるし、名古屋までは新幹線で30分。
新幹線に1時間半乗れば、東京にだって遊びに行ける。

週末、都会に足を延ばすと、無意識のうちに浜松と比べてしまう。

「地元はなんてのんびりしてるんだろう・・・・・・」と。

でも決して、浜松が嫌いなわけではない。

「浜松は、駅をはさんで北と南で、雰囲気が違うんですよ。駅の北側には繁華街が広がっていて、浜松城公園など観光スポットもあります」

「反対に、駅から少し南に下ると畑が増えて、そのうち田んぼばかりになります」

実家があるのは、浜松駅の南側。

「子どもの頃は、駅の北側に住んでる友だちから “ど田舎” って茶化されてました(笑)」

兄弟はいない。

小学生の頃から、血のつながっていない育ての母と2人で生きてきた。

「幼稚園の年長のときに、父が再婚したんです。その数年後に、父は家に帰って来なくなりました」

本当の両親への想い

産みの母のことは覚えていない。なぜなら、小学生より前の記憶が全くないからだ。

「家族のことだけじゃなく、幼稚園で遊んだ記憶もごっそり抜け落ちてますね」

「幼稚園の頃の写真が数枚残ってるけど、いつ撮った写真なのかわからないんです」

覚えているのは、実の父と母に対する「大嫌い」という感情だけ。

「どんな関係であっても、親のことは好きだし、憎みきれないという人が多いですよね」

「でも私は、実親のことが、本当に嫌いだったんです」

「まだ小さな子どもでしたけど、家に帰ってこなければいいのに、と思ったことを鮮明に覚えてます」

父が再婚したとき、心の底から「助かった」と安堵した。

「育ての母に対しては、親というよりも、救ってくれた人っていう感覚がありますね」

02母の想い

たった一度の会話

再婚後も、実の父との関係は縮まらなかった。

「一緒の家にいても、無視されるんです」

「ただいま」も言わずに帰って来て、そのまま無言でご飯を食べる。

母と自分がテレビを見ている前を素通りし、お風呂に入って、気づいたときにはもう寝室で寝ていた。

「妻である母に対してさえ、そんな調子でした」

「たまに、理不尽に怒ることもあったので、関わりたくないと思ってましたね」

父親らしいことをしてもらった記憶はない。

一度、ファミコンをやっている父に、「そのゲーム何?」と話しかけたことがある。

「ドラゴンクエストのソフトが発売された直後だったんです。見たことのないゲーム画面だったから、好奇心が抑えられなくて」

「『これおもしろいんだぞ』って、言われたことを覚えてますね」

それが、ただ一度の親子らしい会話だった。

ザ・お母ちゃん

育ての母は、よく笑い、よく話す人だ。

「豪快で、ザ・お母ちゃんって感じ」

「なんとかなるでしょ、ってどーんと構えてるんです。父の役割も母の役割も、1人で背負ってくれてました」

小1のときに家を新築し、両親と自分の3人で暮らし始めたが、小3のときには父が帰って来なくなった。

残った家のローンは、母が仕事をして、一生懸命払い続けてくれたことを知っている。

「子どもながら、家が裕福じゃないことには気づいてました。でも、みじめな思いや、不便を感じた覚えはないんですよね」

「私が悲しまないように、母がすごく頑張ってくれてたんだと思います」

03忘れ物番長

宿題はやりたくない

小学生のときは、体育と図工が好きだった。

「足は速かったですね。毎年、リレーの選手に選ばれてました。運動会しか活躍するシーンがない子です(笑)」

好きなことには熱中するが、嫌いなことは頑としてやらない。

「勉強は大嫌いでした」

「いくら先生に怒られても、宿題を絶対やらなかったんです」

「うちのクラスだけ “忘れ物ルール” が規定されたのは、たぶん私のせいです」

宿題を1つ忘れたら、廊下の雑巾掛け5往復。

「私、30往復したことがあるんですよ(笑)」

教壇の前に立たされて、皆の前で「明日は宿題をやってきます」と言わされたこともある。

「それでもへこたれませんでしたね。小5まで、ついに宿題をやることはありませんでした」

やっかいな問題児

廊下の雑巾掛けをしていると、クラスの子から「また宿題忘れたの?」と笑われる。

「今振り返ると、よくやったな、というかやらないで通したなと思います」

「先生から見れば、やっかいな問題児ですよね」

友だちは呆れていたが、変な目で見られたり、いじめられたりすることはなかった。

「小6のときには知恵がついて、友だちに宿題を見せてもらってました」

「『宿題教えて』って言ったら、『教えてじゃなくて見せてでしょ』って言われましたね(笑)」

宿題をしたくなかったのは、少しでも長く外で遊びたかったから。
学校から帰った後は、近所の友だちと、田んぼの用水に入って遊んだ。

「当時は用水がきれいだったので、フナやザリガニを獲って遊んでました」

「小さい橋をくぐって、蜘蛛の巣に引っ掛かりながら冒険することもありましたね」

04初潮がきた日

なんで男じゃないんだろう

小学生のとき、近所に幼なじみの男の子がいた。

「その年頃って、足の速い子は一目置かれるじゃないですか。足が速くてカッコいい、みたいな」

「私のほうが、その子より断然足が速かったんです」

「速く走れるのに、なんで私は男じゃないんだろう、って思ったことを覚えてます」

男になりたかったわけではない。素朴な疑問だった。

子どもの頃、セクシュアリティに関して、強い違和感や嫌悪感を覚えた記憶はない。

「ただ、スカートは嫌いでした」

「母が女の子っぽい服装をあまり好まなかったから、普段はズボンやキュロットを履いてたんです」

「だけど、音楽会のような行事のときは、スカートを履かされて・・・・・・」

「そういうときは、嫌だなって思いながら我慢してましたね」

初めて生理がきたのは中1のとき。

初めて経血を見て慌てふためき、「お母さーん、血が出たよ!」と叫んだことを覚えている。

母は「それ生理だよ。あんた良かったねぇ」と言いながら、ゲラゲラ笑っていた。

「その日は、父の誕生日だったんですよ」

「初潮がきた日を覚えてる人って少ないと思うんですけど、そのせいで忘れられなくて・・・・・・」

「母からも、『変な日に初潮がきちゃったね』って言われました(苦笑)」

姉のような先輩たち

中学校ではバスケ部に入り、部活中心の生活が始まる。

「バスケ部、ソフト部、吹奏楽部は、厳しいって有名だったんです。でも、いざ入部してみると、面倒見が良くて、優しい先輩ばかりでした」

先輩たちは「自分たちが1年のときはひどい扱いを受けたけど、それを下に引き継ぎたくない」と言い、理不尽なルールを課さなかった。

姉のように頼もしい先輩たちのおかげで、練習をサボらず続けられた。
勉強はそっちのけで、バスケにのめりこんでいく。

先輩が引退した後は、スタメンになり、センターを任された。

「先輩たちとは、今でも連絡を取り合ってます。でも、同級生の子たちはどうも好きになれなくて・・・・・・」

「部活内で派閥ができてたから、深入りすると良くないと思って、あまり仲良くしなかったんです」

05助け合って生きてきた

親権争い

中学生になってからも、勉強は嫌いだった。相変わらず、宿題は友だちに見せてもらっていた。

「友だちに恵まれてたんだなと思います」

「面倒見のいい子ばかりで、色々助けてもらってましたね」

通知表には、「忘れ物が多い」とよく書かれる。
それを見ても、母は「あんたどうなってるの?」と聞くだけ。

娘が宿題をしていないことも、おそらく知らなかったと思う。

「いくら成績が悪くても、『勉強しなさい』って言われたことはありませんでした」

「『自分が親に言われなかったから、あんたにも言えない』って言ってましたね」

当時の母は、娘の成績に構っている場合ではなかったのかもしれない。

「私が中3になるまで、離婚が成立しなくて揉めてたんです。父が私を連れて行こうとして、追い掛けられたこともありました」

「実親2人が学校まで来て、さんざん嫌な目に遭わされましたね」

思春期だったが、母に反抗している余裕はなかった。

安心できる生活を手に入れるためには、母と結託して戦うほかない。

「子どもが15歳以上になれば、両親のどちらについて行きたいか、裁判所で意見を言えるんです」

「母と相談しながら、15歳までなんとか耐え抜きました」

高校入学を機に、父と母は離婚。

この騒動のおかげで、母との絆はより頑丈になった。

「助け合って生きてきた感覚がすごくあります」

夢が見えたとき

小学生の頃、『インディ・ジョーンズ』の映画を観て、考古学者になりたいと思った。

「影響を受けやすい子どもだったんです(笑)」

「インディ・ジョーンズ博士が、遺跡を歩きまわるのがいいなって。宝探しみたいで、わくわくする仕事だなって思ってましたね」

将来やりたい仕事を明確に描くようになったのは、中学生のとき。

家庭科の授業がきっかけだった。

「間取りを描いて、それを基に建築模型を作ったんです。キットを使って、二次元の間取りを三次元に起こしました」

「家って自由に考えられるんだ、って初めて知ったんですよね」

「あまりに楽しくて、友だちの分も作りました(笑)」

そのときはまだ、建築士という職業があることを知らなかった。

しかし、目指すべき道が見えたことは大きかった。

中学卒業後、地元の大半が通う高校に進学。

入学直後、担任の先生から、「お前、本当に危なかったぞ」と、合格スレスレで受かったことを知らされる。

「建築士になろうと思ってたから、進路調査に『大学進学』って書いたんです」

「そうしたら、担任の先生に『今の成績じゃ、大学なんて話にならないよ』って言われたんですよね」

「ようやく、自分の将来のために勉強するようになりました」

 

<<<後編 2020/07/25/Sat>>>
INDEX

06 好きってどういう気持ち?
07 憧れの建築士
08 私はXジェンダー
09 建てる人と住まう人
10 助け合って生きていく

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