バイセクシュアルだとカミングアウトすると、ときたまとんでもなく不躾な質問をぶつけられことがある。そのひとつが、セックスに関するものだ。
バイセクシュアルだとカミングアウトしたときの、友人の詮索
これまで実生活において自分のセクシュアリティについて打ち明けたことはそれほど多くはないんだけれど、カミングアウトしたときにものすごくモヤっとする反応を返されたことがあった。
「女の子同士って、どうやんの?」
仲の良いシスヘテロの男友達に、ある日バイセクシュアルであることを打ち明けた。彼は自称「理解のある人」。すでに性自認がノンバイナリーであることは知らせていたから、性的指向について話すことも抵抗はなかった。
2人きりで遊んだり、深い悩みを打ち明け合うような仲だったので、むしろ黙っていることの方が不自然に思われたのだ。だから女性の恋人ができたとき、するりと「最近付き合い始めた人、実は女の人なんだよね」と口から出てしまった。
すると彼はちょっと驚いてみせてから、こう言ったのだ。「ねえ、女の子同士ってどうやんの? やっぱペニバンとか付けんの? 腰に巻いてさ!」と。
そのときわたしたちは、チェーン店のしゃぶしゃぶ屋で向かい合って鍋をつついていた。締めの雑炊を作るために大量の明太子を入れようと皿を傾けたまさにその瞬間だったので、予想の斜め上を行く返答に、勢い余ってどぼんとすべての明太子を鍋に突っ込んでしまった。
沸騰したお湯がばしゃりと跳ね、鍋はピンク色に染まった。彼はそれを見て「いきなりぜんぶ入れんのかよ、豪快だな〜」とげらげら笑っていたが、わたしは引き攣った笑みを顔に貼り付けるのが精一杯だった。
「おめでとう!」よりも何よりも先にセックスの内容を訊ねられて
そのとき感じたモヤモヤを、当時はうまく言語化することができなかった。彼はセクシュアル・マイノリティに対して、差別的な感情は少なくとも持っているように見受けられなかったし、わたしのカミングアウトに驚きはしていたもののドン引きしたりはしていなかったから。何より「俺、そういうの理解あるから大丈夫!」と以前から主張していたし。
でも、すごくがっかりした気持ちになったのだけは覚えている。
ええ、まじか。打ち明けた直後にもうセックスの内容訊ねてくるのか。
いやでも、嫌な顔しないだけマシじゃない?
でもでも、「おめでとう!」よりも何よりも、真っ先にセックスのこと訊ねるってどうなの?
そんな言葉たちが、頭の中をぐるぐると巡った。
信頼していたから打ち明けたのに
こういう質問にモヤつく同性のパートナーを持つ人々って、実は多いのだということを知ったのは、ずいぶん後のことだ。当時は「受け入れてもらったのだからそれでよしとしないと」なんていう、異性愛中心主義に囚われた妙な謙遜から、友人にもとっさに文句を言うことができなかった。マイノリティだから弁えないといけないというような思い込みこそ、間違ったものだと理解していなかったのだ。
もしそのときできた恋人が男性であったなら、彼は「おめでとう!」と言ってくれたはずだ。その一言よりも先に、セックスの内容を脈絡なく詮索されたのは、わたしにとってけっこうショックだった。
彼の名誉のために一応言っておくと、おそらくこれはわたしだったからこそ口をついてしまった言葉なんだと思う。わたしと彼は普段からかなりあけすけに猥談をする方だったため、そのノリで訊いてしまったのだろう。それでも、カミングアウト直後の最初の質問がこれっていうのはいくらなんでもきつかった。
消費される同性同士のセックス
シスヘテロの人々が異性カップル以外のセックスについて、気軽に踏み込んでしまう原因はいろいろあると思うけど、そのひとつは同性同士のセックスのコンテンツ化なんじゃないかと思うことがある。
セックスしかないBL
わたしはBLを思春期の頃から好んで読んでいるんだけど、中には眉をひそめたくなるような酷いものもある。男性同士のセックスそれのみにフォーカスし、登場人物の心の機微を描く気はない作品は、本当に嫌いだ。人を人として扱っておらず、消費するためのコンテンツとしてしか見ていない気がして、とても不愉快になる。
こういう類いの作品がシスヘテロの人々の消費の対象になっていることは、軽視していい問題じゃない。現にBLを好む人たちのごく一部の間で、登場人物たちのことを「ホモ」と呼ぶ風潮が見られる。
「ホモ」が差別用語だと知っているのにも関わらず、だ。蔑称だと知っていながら使い続けることができるのは、B Lの登場人物 ──つまりはゲイの人── を「実際にはいない特殊な人」として認識しているからこそ、のような気がする。彼らはファンタジーで、おとぎ話の住人だから、コンテンツとして消費するのは当たり前だと言わんばかりの傲慢さをそこに感じてしまうのは、いささか穿ちすぎであろうか。
AVの “レズ/百合” カテゴリへの違和感
こういう同性同士のセックスのコンテンツ化は、もちろんB Lに限った話じゃない。昨今スマートフォン向け漫画アプリが流行っていると思うんだけれど、成人向け作品の検索欄を開くと必ずと言っていいほど “レズ・百合” カテゴリが選択肢として存在する。女性同士のセックスを「プレイ」として扱われているのは、もちろん良い気がしない。
わたしは漫画アプリでこのようなカテゴリがあることを知ったのだが、聞くところによると男性向けA Vでは昔からあるジャンルだそうだ。シスヘテロ男性向けのセクシュアルな作品で、シスヘテロ男性が女性同士のセックスを消費するって、かなりぞっとする。
特定の女性には惹かれる “オネエ”
セクシュアルな描写を含む漫画に対して思うことは、他にもある。よくスマートフォンでネットサーフィンをしていると漫画の広告が出てくるのだけれど、「オネエ」とシスヘテロ女性の恋愛ものを見かけたことがあって驚いた。どういうことかと思って先を読んだのだけれど、「オネエ」はどうやら本来はゲイであり女性との恋愛経験はなかったのだが、シスヘテロである主人公にだけは特別に恋愛感情を抱いてしまう・・・・・・というトンデモ設定であった。
この「オネエ」の人物造形もゲイのステレオタイプ的なキャラ付けで、「オネエ言葉」を話すしナヨナヨとしていた。「女に興味を示さないはずだけれど自分だけは特別で、かつ普段は頼りなく “女っぽい” のにセックスのときだけ男らしい」部分に萌えを感じる女性が多いのか、この手の設定はけっこう流行っているみたいだ。
なんだかなあ。百歩譲ってセクシュアリティなんて流動的なものだからあり得なくはないのかもしれない。でも、そういうふうに消費されることそれのみを目的として生み出されたキャラクターや作品に思いを巡らせると、いつもやりきれなくなる。シスゲイ男性がある日突然女性に恋をすることも、M T FまたはM T Xで性的指向は普段男性限定だけどたまに女性を好きになる人がいることも、もちろん変じゃないけれど。それでもやっぱり、モヤモヤは払拭されない。
“当て馬” としてのセクシュアル・マイノリティ
異性の恋愛を扱う作品では、しばしば “当て馬” としてセクシュアル・マイノリティが登場したりする。ヒーローとやたら距離の近い女性がいてヒロインがヤキモチを妬くのだが、その女性は実はレズビアンだったり、はたまたMTFだったりする、アレだ。けっこうお決まりなパターンだし、誰しも一度は目にしたことがある展開じゃないだろうか。
前者でヒロインが安堵するのはまだわかるとして、後者の場合ヒーローが「こいつ男だから、君が心配することは何もないよ」なんていう台詞を平気で吐いたりとかしているシーンが出てくるようであれば、その時点でわたしはその作品を見る意欲を途端に失ってしまう。
こういうときのセクシュアル・マイノリティは、シスヘテロのヒーロー・ヒロインを傷つけることなく害することなく損なうことなく、ただ無心に彼らの幸せを祈る無害な引き立て役でしかない。
彼らの恋を盛り上げるためのスパイスとしてセクシュアル・マイノリティという特徴を授けられたキャラクターを見ていると、「わたしっていったいなんなんだろうな」とやるせなくなってしまうのは、きっとわたしだけじゃないんじゃないか。
同性とか異性とか関係なく、セックスの話が嫌なわけじゃない
他人とセックスの話をすることそのものが、わたしは嫌なわけじゃない。お酒の入った席でそういう類いの話を振られるのにものすごいアレルギーがあるとかじゃないし、そこまで慎ましやかでも貞淑でもお上品でもないから。
同性との交際を打ち明けた途端、わたしは珍しい生き物になった
要は、LGBT当事者をコンテンツとして消費するのではなく、1人の人間として扱ってくれさえすれば構わないのだ。ただしこれは、あくまでわたしの場合は、という話だけれど。
カミングアウトをした直後にセックスの内容を訊かれたとき、「あ、最初に興味を持つのってそこなんだ。わたしの気持ちとか、そこに至るまでの背景はどうでもいいんだな」と悲しくなった。バイセクシュアルだと打ち明けた途端、彼の目に映るわたしは「わたし」ではなく何か珍しい生き物になってしまった気がした。
彼とわたしは対等な友人であったはずなのに、その瞬間に「受け入れる側」と「受け入れてもらう側」になった。だからセックスのことをいちばん最初に訊ねられても「俺、理解あるから大丈夫!」と主張する彼に対して「それはちょっと違うんじゃないの」とは言えなかったのだ。
相手が同性でも異性でも、ただ好きになって付き合っただけ
彼女のどこを好きになったとか、馴れ初めとか、男性の恋人を持ったときみたく訊いてほしかっただけなのだ。それで「おめでとう、よかったね!」とふつうに祝福されて、からかわれて、2軒目に移動したあたりで「で、どこまで進んでんの?」とかにやにや訊ねられたかった。そうしたらわたしもたぶん、にやにやしながら答えられただろうに。
わたしにとっては相手が男性だろうが女性だろうが、ただ好きになって付き合っただけのことだ。ときめく気持ちはまったく同じだし、身体が同じ女性だからといって特別に何かが変わるわけではない。だから、これまでと同様に、彼には相談に乗ってもらったり愚痴を聞いてもらいたかった。それだけだったのだ。
レズビアン・コミュニティ内でのタチ・ネコ・リバを気軽に訊く風潮
気軽にセックスの内容を訊ねてしまいがちという現象は、主にシスヘテロからセクシュアル・マイノリティ当事者に対して行われることが多い。でも、実はセクシュアル・マイノリティ当事者間でも発生している。
レズビアン用のマッチングアプリでマッチした相手といざメッセージを交わすと、挨拶もそこそこに性行為での嗜好を訊ねられることがままある。タチか、ネコか、はたまたリバか。わたしは自分がバイセクシュアルだと気がつくのが成人してからだったし、それまではずっと男性としか交際経験がなかったから、最初は面食らってしまった。え、まだ顔も合わせたことのない人にそんなことまで話さなきゃなんないの? と。
ただ、ビアンの界隈ではもうそれは当たり前の風潮のようだったので、ちょっと嫌だなと思いつつ訊かれたら答えるようにはしていた。だけど、やっぱりこれってわたしはあんまり好きじゃない。ものすごくプライベートな情報を、見ず知らずの相手に明かしたくないと思うのは、当たり前の感情なんじゃないか。同じセクシュアリティだからといって、すぐに打ち解けられるわけでも親密になれるわけでもないんだから。
バイセクシュアルのわたしは、ただ生きてるだけ
シスヘテロ同士であれば、恋人とのセックスについて唐突に訊ねられることはほとんどないと思う。じゃあ、なぜ同性同士の場合は即座にセックスに結びつけられやすいんだろう。
「純粋な好奇心」でも、プライベートに土足で踏み込まないで
シスヘテロの人が同性同士のセックスについて突っ込むのは、「純粋な好奇心」として片付けられてしまいがちな気がする。たぶんその根っこには、「セクシュアル・マイノリティの人を理解してあげたい」という気持ちがあるんだと思う。「俺、そういうの理解あるから大丈夫!」と主張したわたしの友人も、「それを訊いても俺は引かないよ」という意思を表明しようとしただけなのかもしれない。
だけど、異性カップルの場合は「セクハラ」だと糾弾されかねないような質問が、なぜ同性カップルだと問題ないだろうと捉えられてしまうんだろう。プライベートな部分に土足で踏み入れられたら不愉快な気分になるのは、セクシュアリティにかかわらず誰であろうと同じなのに。
「理解があるから大丈夫!」は本当に大丈夫か
異性愛が「標準」とされてしまいがちなこの世界において、マジョリティであるシスヘテロとマイノリティであるセクシュアル・マイノリティは「受け入れる側」と「受け入れてもらう側」になってしまいやすい。
でも、本来であればわたしたちは対等であるべきだし、「受け入れてもらえるだけありがたい」なんて気持ちで生きていたくはない。シスヘテロにも、「受け入れてやってるんだからありがたく思え」「そのくらいで差別だと騒ぐな」なんて言われたくない。
たとえ悪気がなくても、善意からくる発言であろうとも、それが誰かを傷つけたり怒らせたりすることは往々にしてあるのだ。「理解あるから大丈夫!」「自分は差別感情なんて持っていない!」と言い切ってしまうことこそが、けっこう危険なんじゃないかな。わたしも、自分自身に対して常に「理解した気になっていないかな」「差別意識を持っていないかな」と問いかけながら生活していきたい。