02 社会問題への知識欲
03 鉄道旅行でストレス発散
04 未来が見えない
05 迷ったことが、人生に活きている
==================(後編)========================
06 綺麗なものが好き、綺麗になりたい
07 もっと社会的な活動がしたい
08 制度に合わせる必要はない
09 マイノリティ全体を考える
10 スタートが遅くても大丈夫
01大人には期待しない
鏡を見るのが大好き
「小さい時は、泥んこ遊びがすごく苦手でした」
汚れることが大嫌いで、とにかく綺麗好きだった。
「その頃、性に対する違和感はほとんどなかったです。でも、まわりと比べて身なりは気にしていたと思います」
髪や洋服のちょっとした乱れにも敏感で、しょっちゅう鏡を眺めていた。
性格は、引っ込み思案というよりは、どちらかというと前に出ていくタイプ。
「保育園と幼稚園の両方に通っていたんですけど、先生の手を焼かせることもありました」
「でも、家では姉の方がやんちゃだったんですよ」
5つ上の姉は、パワフルで負けず嫌い。
今では「生まれた性別がお互い逆だったかもしれないね」と話すこともあるくらい、男勝りな姉だ。
さらに、8歳年下の妹もいる。
「だから、一番上と下だと13歳の差があるんですよ」
母いわく、そのあたりは計算して産んだのだそうだ。
「それだけ歳が離れていると、喧嘩のしようがないですからね」
父は工務店を自営していて、休日も仕事に出ていることが多かった。
小学校でのいじめ
小学校に入学してから4年生くらいまで、学校ではいじめられていた。
いじめの理由は今でもわからない。
でも、恐らくセクシュアリティが原因ではなかったように思う。
腕っぷしの強い男子からターゲットにされることが多かったが、単純にやられっぱなしではなかった。
「結構抵抗はしていました。弱い子相手だと、逆にこっちが激しく抵抗して泣かしたりもして」
「ただ、集団でやられたらひとたまりもないんですけどね・・・・・・」
今振り返ると苦い記憶だ。
いじめについて、親や先生に相談することもあった。
「でも、学校の構造上、つねに先生が見張っている訳にはいかないじゃないですか。だから、正直学校の先生は信用していなかったです」
「教員っていうのは神様ではなく、あくまで公務員なので。そういう視点はその頃から持っていましたね」
年齢の割には大人びた、どこか冷めたようなものの見方をしていたと思う。
02社会問題への知識欲
自分は「女っぽい」らしい
中学校に進学して、最初はサッカー部に入っていた。
「男子はみんな運動部に入る雰囲気だったので、流されて入ったんです」
「でも、朝練がめんどくさかったのでやめちゃって(笑)、途中から帰宅部になりました」
そのあたりから、性への違和感を抱きはじめるようになった。
ただ、自分の内側から湧き上がってくるものというよりは、周囲からの反応など、外的要因が大きかったように思う。
まわりから「仕草が女っぽい」と言われることが増えていったのだ。
自分ではこれといって意識はしていなかったが、そうやって周囲に指摘されることにそれほど抵抗も感じなかった。
「なぜなら、うちの家族は女性ばかりだったんですよ」
父は仕事が忙しかったから、日頃家にいるのは母と姉妹たち。祖父母は離婚していて祖母しかいなかったし、飼っていた猫までメスだった。
そうやって女性に囲まれて生活しているから、自分にもどこか女性っぽい雰囲気が漂っているんだろう。
そう納得していたのだ。
それに、肌の色は白い方だったし、ほかの男子と比べれば髪も少し伸ばしていたから、外見的にもかわいらしい雰囲気があったのだろう。
「男の先輩からちょっと想いのこもった怪しい目で見られたり、不自然な優しさを感じることが多かったように思います(笑)。今振り返ればの話ですけどね」
社会問題への関心
もともと、社会への関心は強い方だった。
「中学2年の時に、愛知県で自分と同い年の方が自殺で亡くなられたんです」
その後、いじめ自殺のニュースが相次いだ。
ほかにも阪神大震災や地下鉄サリン事件など、物騒な事件が立て続けに起きた時代だ。
「自分自身がいじめを受けていた当事者だったので、新聞や週刊誌を読み漁ってましたね」
「『週刊現代』を買う中学生でした(笑)」
社会問題についてもっと知りたい、そんな知識欲のようなものがあった。
小さい頃から物事を斜めから見るような癖があったから、きっと周囲には変わり者だと思われていただろう。
「でも、実を言うと、自分の中で小中学校の記憶はあやふやというか、あまり呼び起こさないようにしているんです」
今は、先を見据えて活動に力を入れていきたいし、あまり過去を意識的に思い出そうとも思わない。
「過去よりもこれからのことを大事にしたいんです」
03鉄道旅行でストレス発散
囚人のような高校生活
「高校は、校則がすごく厳しいところに入っちゃったんです。人間関係は悪くなかったんですけどね」
工業科の男子校だったから、それまでのように髪を伸ばすことも許されなかった。
「前髪の長さにも規定があって、髪が眉毛と耳にかかっちゃだめだったんですよ。」
「髪の毛を切るのは嫌でした」
抑圧的な雰囲気の学校で、怒るとすぐに手が出てしまう先生も多かった。
ただ、もともと男子校に通うこと自体に抵抗はなかった。
「中学校の時は勉強の仕方もよくわからなかったし、勉強をして幸せになれるとも思ってなかったので、全然勉強をしてなかったんです」
それで通える高校となると選択肢が狭まってしまい、消去法で男子校を選んだのだ。
だからそもそも工業系に進みたいわけではなかった。
「まさかここまで厳しい校風だとも思っていなくて・・・・・・。それで、高2あたりで中退しようと思っていたんです」
「でも、先生に『卒業はしておいたほうがいい』と、引き止められて3年間なんとか通いきりました」
とはいっても、とにかく早く卒業してこの生活から逃れたかった。
毎日が、刑務所に収容された囚人の気分だった。
「ほかのみんなも当時をあまり思い出したくないんでしょうね。そのせいか、今でも高校の同窓会は開かれてないんです」
ぶらり鉄道ひとり旅
高校生活は窮屈だったけれど、長期休暇ごとに旅行に出かけて息抜きをしていたから、なんとかやっていけた。
「中学生くらいの時から鉄道が趣味で、高校生になってからは単身で鉄道旅行もしていたんです」
国内旅行を中心に、いろいろなところを旅した。
「国外も行きたかったんですけど、どうしても言葉が通じないのが怖くて(笑)」
旅行に行く時は、いつもひとり。
「ひとりで行って目的地巡りに専念したいんで、絶対人と一緒には行かないんです」
「それに、岐阜から鈍行に乗って北海道まで行ったりしてたんで、そもそもみんなついてこられないですよね(笑)」
お金がなかった当時の自分にとって、青春18切符は強い味方だった。
さまざまな土地を訪れたが、中でもお気に入りなのはやっぱり北海道。
風土そのものも好きだし、夏場の景色も魅力的だ。
「北海道は廃線跡もすごく多いんですよ。その地域がたどってきた歴史に想いを馳せたり、本州にはない魅力があります」
とにかく、電車にまつわるすべてのものが大好き。
電車に乗るのも撮るのも好きだし、廃線跡を見るのも好きだった。
「高校生の時、廃線跡を見にいったレポートを雑誌に投稿したら、それが掲載されたこともあるんです!」
04未来が見えない
進路への迷い
「10代の頃には、父の会社を継ぐレールに乗せられていたと思います」
父に面と向かって「家業を継げ」と言われることはなかったが、周囲からはなんとなくプレッシャーのようなものを感じていた。
従業員が10数人の会社で、小さい頃から社員旅行や社内イベントにも参加していたから、自然とその輪の中に入っていくような感覚もあった。
だが、そのレールから外れた「夢」を胸の内には秘めていた。
当時は鉄道デザインが盛り上がっていて、JR九州の「ななつ星in九州」をデザインした水戸岡鋭治さんなどが注目されていた。
「それで、将来は水戸岡鋭治さんみたいなデザイナーになりたいな、って思ってました」
もう一つ夢があった。
「藤井誠二さんの様なジャーナリストになりたいとも思っていましたね」
高校がかなり抑圧的な雰囲気であったため、反管理教育運動を起点にジャーナリストになった藤井誠二さんへの憧れも強かった。
「地元の中日新聞に毎週連載されているコラムを食い入るように読んでいました」
電車のデザイナーか、ジャーナリストになりたい。
ただ、どうしたらその仕事に就けるかわからなかったし、それで食べていけるかもわからなかった。
「なので、ひとまず親のすすめで建築関係の学校に行って資格を取ろうと思いました。それで専門学校に進学したんですけど・・・・・・」
「そんなテンションでは資格の勉強に身が入らないし、そもそも試験勉強が苦手だったからすごく悩みました」
結局、これといった資格を取れずに専門学校を卒業。
その後、20代中盤までは就職せず、フリーター生活を送っていた。
心の不調
アルバイトは、高校生の時から続けていた実家の手伝い。
いろいろと融通がきいたし、一緒に働いている大人たちにも面白い人たちが多かった。
「だから自分の家の感覚で働いていましたし、昔はそれほど嫌じゃなかったんです」
「でも、実を言うと専門学校あたりからは苦痛に感じはじめちゃって・・・・・・」
工事現場での仕事の時には、軍手で手はガサガサ、ヘルメットで髪はボサボサ、日焼けだってする。
「そういう、男っぽいことをしたくなかったんです」
綺麗好きな自分にとっては、そうした現場に身を置くことは苦痛でしかなかった。
「それで結構病んじゃって、精神科に行きました」
当時はセクシュアリティ関係に強い病院も地元にはなかったため、普通の精神科へ。
診断名は特におりないまま、ひたすら処方された薬を飲み続けた。
「でも、薬の効果が強すぎたせいか、かえって不安定になってしまいました」
「だから当時はまだ将来について考えられる状況ではなかったですね。24歳くらいまではそんな状態でした」
まるで、自分が鉛筆になってゴリゴリと身を削られていくような毎日だった。
05迷ったことが、人生に活きている
生きる目的
精神科への通院中、両親にもやんわり心の調子が良くないことは話していたものの、しっかりと理解を得ていたとはいいがたい。
「でも、親の反応はそれほど気にしていませんでした。自分のために生きていかないといけないって思っていたから」
最終的に、親は自分より先に死んでしまう。
「自分の死に目まで親が面倒を見てくれるわけではないから、親の反応を気にしてたらしょうがないって思っていたんです」
そうはいっても、相変わらず “生きる目的” は見失ったままだった。
「父親の仕事は継がないって、決めてはいました」
でも、憧れていた工業デザイナーやジャーナリストにも、どうやってなればいいかわからない。
20代半ばまでは、何を目標に生きていけばいいかわからなかった。
しかし、25歳の時に転機が訪れる。
「工場のラインでもやろうと思って、派遣の求人に応募したんです」
職歴のない自分には、ライン仕事ぐらいしかやらせてもらえないだろうと思ったのだ。
しかし、たまたま応募した派遣会社に「CADオペレーター」という設計図を描く仕事の募集もあった。
「それで、CADの仕事にありつけました。実家を手伝っていた時にCADを少し教わって図面の経験はあったので、それが活かされたんです」
図面を描くことは、昔から好きだった。
「小さい時はゲームが好きだったから、自分でゲームの世界の地図を考えて描いたりすることもありました」
そうして自分に合った仕事が見つかったことで、不安定だった精神も徐々に快方へと向かっていった。
「精神科には29歳くらいまで通っていましたが、最後の方は断薬を目指して薬を減らしていくような感じでした」
設計図を描く楽しさ
図面を描くのが大好きだから、仕事も大好きだった。
「仕事自体は快楽というか、楽しくやってましたよ。図面を描いていると脳内麻薬が湧いてくるんです(笑)」
「設計図」と聞くと一般的には堅苦しいイメージがあるかもしれないが、実はコミュニケーション手段としての一面が大きい。
「言ってしまえば、作り手に『こういう風に作ってくださいね』と指示するのが設計図なんです」
だから情報量を詰め込みすぎてもいけないし、なるべくわかりやすく描く必要がある。
「ゴチャゴチャしすぎないように抜くところは抜いて、なおかつ重要なところはしっかりと緩急をつけて描く。それがすごく面白かったんです」
わかりやすくなるように工夫して描いた図面は、お客さんからの評判も良かった。
「上井さんの絵はセンスがいいね」と褒められることもしばしば。
これは自分に向いている仕事だ、そう思った。
「ゴリゴリの理系設計者だと、全部詰め込んだロジカルすぎる図面を描くような人も多いようなんです」
「でも、自分は理系と文系の両方を兼ねそろえているタイプだったので、それが仕事に活きてるなと思いました」
以前、鉄道雑誌に文章を投稿していた経験も、「人に情報をわかりやすく伝える」という点で大きな糧になっていた。
「若い子たちの中には、『自分は理系だからこれはできない』『文系だからこれはできない』って言ってる子も多いと思うんですけど、なんでそうやって自分を限定しちゃうのかなって思うんですよ」
「うちは中途半端でどっちつかずの部分もあるんですけど、まあ、結果的にいいとこ取りできたのかなって思います」
まわりの人と比べれば、自分は迷っている期間が長かっただろう。
だけど、そうやって迷って回り道を重ねたからこそ、吸収できたものも大きかったのだと思う。
<<<後編 2017/06/06/Tue>>>
INDEX
06 綺麗なものが好き、綺麗になりたい
07 もっと社会的な活動がしたい
08 制度に合わせる必要はない
09 マイノリティ全体を考える
10 スタートが遅くても大丈夫