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Writer/きのコ

3人以上で交際する恋愛のかたち「ポリアモリー」を描いた小説『きみだからさびしい』

愛し合っているのに、相手と自分の望む恋愛のかたちが違うことで、お互いが苦しくなってしまう。そのとき、あなたはどういう選択をするだろうか。この記事では、ポリアモリーを中心として、登場人物達のさまざまな恋愛模様が描かれた小説『きみだからさびしい』(大前粟生著 文藝春秋)を紹介する。

ポリアモリーとの交際における葛藤

3人以上が合意の上で交際する「ポリアモリー」

最近少しずつ知られるようになってきた「ポリアモリー」というライフスタイル。3人以上が全員の合意の上で交際するという恋愛のかたちを指す言葉だ。

ポリアモリーでない人とポリアモリーとが交際するとどうなるのか、ポリアモリーは嫉妬とどう向き合っているのかなど、ポリアモリーに向けられがちな疑問に対する答えがこの物語の中に見つかるかもしれない。

「わたし、ポリアモリーなんだけど、それでもいい?」

小説『きみだからさびしい』の物語において、圭吾はランニング中に出会ったあやめに恋をする。彼が想いを告げると彼女からは「わたし、ポリアモリーなんだけど、それでもいい?」という答えが返ってきた。

彼女にすでに蓮本という恋人がいることを知りつつ、だがそれでも圭吾は「あやめさんがポリアモリーであることにもちゃんと向き合いたい」と交際を始める。しかしやはり自分の幸せと彼女の幸せの齟齬に気持ちが揺れ動き、それぞれの胸の内に葛藤が生まれていく。

ポリアモリーの対義語「モノガミー」

圭吾のように、好きになる人が1人だけという恋愛スタイルを「モノガミー」という(なお、圭吾がモノガミーであると作品の中で明記されているわけではない)。ポリアモリーとモノガミーとがーーもっと広くいうなら、価値観や生き方の違う人同士がーー交際する場合に、どうすれば安定したパートナーシップを結ぶことができるのかは、愛し合う人々における永遠のテーマといえるだろう。

ポリアモリーにも嫉妬心はある

圭吾の嫉妬

ポリアモリーとの交際における大きな課題は「嫉妬」だ。ポリアモリーは嫉妬心をもたないと思われがちだが、この作品の中では、ポリアモリーであるあやめも蓮本も、ポリアモリーでない圭吾も、それぞれの関係の中で嫉妬を感じ葛藤している。

圭吾は、あやめのポリアモリーとしての生き方を尊重しようとするあまりに自分を抑圧してしまう。あやめのもう1人の恋人・蓮本に嫉妬しながらも「あやめさんには自由でいてほしい」と苦しんでいる。

ただ考え方が違うだけなんだ。お互い好きの気持ちはあるのに、違いがこんなに大きな壁になってしまうなんて。
あやめさんはずっと待ってくれてる。俺がふたりの違いを気にせずにいられたら、それで全部うまくいくのに。

俺のことだけを見ていてほしい。
あやめさんがつきあってる相手がどんな人なのかは知らないけど、別れてほしい。俺とだけつきあってほしい。
でもそんなこといえるわけない。俺の気持ちより、あやめさんの気持ちの方が大事だろ。

あやめの嫉妬

一方で、圭吾・蓮本の2人と交際しているあやめにも、嫉妬がないわけではない。あやめは自分自身が複数人と交際していながら、蓮本に他のパートナーがいることに嫉妬してしまう。そしてそんな自分を責める気持ちになっている。

あやめは、自分が圭吾と付き合っているのは、蓮本といて感じる嫉妬やさびしさを紛らわせるためなのではないか、と自問自答している。

私だって嫉妬の気持ちはわかってしまうんだ。
最近できたっていう蓮本さんの他のパートナーに、私は嫉妬の気持ちを持ってるから。
それを直視したくなくて圭吾くんとつきあったのかもしれない。
そう思ってしまうことがときどきある。それじゃだめなんだ。そんなのは圭吾くんのことを蔑ろにしてる。
私はもっと、圭吾くんのことを愛さないと。

蓮本の嫉妬

そして蓮本も圭吾に、あやめの恋人として圭吾に嫉妬することがあると打ち明ける。『きみだからさびしい』のポリアモリー関係にまつわるこの3人は皆、自分の恋人が他の人と恋愛やセックスをすることにある種の「さびしさ」を感じながら、それでも好きな人と一緒にいることを選んでいるのだ。

それを「さびしくないですか?」と圭吾に聞かれて、蓮本はこう答える。

「さびしい?」
「割り切っちゃってる感じ」
「どうなんだろう。いわれてみたらそうかもね。
でも、僕もあやめもそのさびしさを選んだんだよ。
ちょっとさびしくなった代わりに、それ以上に満たされるようになった、みたいな」

「みたいな」
「自分に合った恋愛をするために必要なさびしさなのかもね。まあ、いろいろあるよね」

この物語は、モノガミーである圭吾の感情の機微を見せつつ、ポリアモリーであるあやめや蓮本の葛藤も丁寧に描くことで、あやめが自分勝手に圭吾を振り回しているわけではなく、双方に苦しみや葛藤があるのだということを示している。

付き合う人が1人なら1人ならではのさびしさがあるし、複数人なら複数人ならではのさびしさがある。どんな恋愛のかたちでも、埋められないさびしさはどこかに残るものなのではないだろうか。

誰かを好きになることには、必ずそのさびしさが含まれているということを、この物語は教えてくれているような気がする。

小説『きみだからさびしい』で描かれる性欲への嫌悪感

自分の性欲のことが好きじゃない

『きみだからさびしい』においては、ポリアモリーとの交際だけではなく、圭吾が感じている自分の性欲や男性性に対する嫌悪感も大切なテーマであると思う。圭吾は、自分の性欲や男性性が好きな人を傷つけてしまうことが怖くて、それをなかなか率直に表現することができない。性欲に対する疾しさは、他の登場人物にはみられない圭吾だけの感覚だ。

心地よさが続くと、どこまでが恋で、どこまでが性欲なのかわからなくなっていくみたいで、なんだか泣きたい気持ちになってきた。俺は自分の性欲のことが好きじゃない。俺っていう、男の性欲だ。グロテスクだって思ってしまう。できることなら、恋愛感情と性欲なんかきっぱり区別してしまいたい。見分けたい。自分の心を整理したい。でも、そんなことできるんだろうか。

性欲とどう向き合うか

圭吾はなぜ、このように自分の性欲と相容れないのだろうか。ポリアモリーと性愛は、切っても切り離せない関係にある(もちろんポリアモリーでアセクシャルという人々もいるが)。

圭吾が、自分自身の性欲に否定的だったり、それをうとましく思うのは、圭吾がポリアモリーではないからだろうか 。あるいは逆に、自分の性欲が好きではないからこそ、圭吾は自分自身の性愛を複数人に向けることがないのかもしれない。

一方で圭吾は、「あやめさんは性欲に疾しさ を感じたりしていないみたいだ」と彼女のことを羨んだりもする。圭吾が感じているように、自分自身の性愛を否定したり抑圧したりしていては、ポリアモリーは難しいのかもしれない。

自分自身の性愛に向き合い、否定せず、とはいえ暴走させず、うまく付き合おうとするなかで、ポリアモリーというライフスタイルにたどり着く人は多い。

小説『きみだからさびしい』から考えた恋愛感情と性欲

必ずしも、性欲を否定する必要はないと私は思う。恋愛感情と性欲は必ずしもセットにはならないが、それらに優劣をつける必要もないものだ。「恋愛感情は尊いもので、性欲は卑しい ものである」という価値観は、ともすれば圭吾がまさにそうであるように、人を苦しめかねない。

圭吾は性欲を醜いものであるかのように扱うことで、必要以上に自分自身を苦しめているのではないかと思う。

一方で、『きみだからさびしい』で描かれた圭吾のある意味での臆病さや煮え切らなさが、あやめとの関係をゆっくりと成熟させる効果をもっていたともいえるのではないだろうか。あやめは圭吾の好意に気づいていながら、彼がそれを無理に押し付けてこないことを好ましく思っていたように見える。

蓮本が会ったその日に、無邪気に率直に好意を伝えてくる人間だったからこそ、圭吾の押し付けがましくない様子にかえってホッとし、後に圭吾と交際することを選んだのかもしれない。

ポリアモリーだからこそ、真逆の人達と一緒にいられる

臆病でやさしい圭吾と、無邪気で率直な蓮本

あやめと出会ったのは圭吾が先だったが、付き合ったのは蓮本が先だった。もし、あやめが圭吾ではなく蓮本と先に出会っていたら、きっと3人はこのような関係にならなかったのではないだろうか。

圭吾と蓮本は真逆といっていいほど違う人間だ。だからあやめは双方と交際できたのかもしれない。臆病でやさしくなかなか自分を表現できない圭吾と、無邪気で率直でとにかく人懐こい蓮本。

率直に自分の気持ちを伝えることのできる人間は、ある意味で強い。蓮本は決して傲慢に自分を押し付けてくるタイプの人間ではないが、圭吾のように自分を抑圧するタイプではない。だからこそ、出会ったのは圭吾が先だったにも関わらず、蓮本が先にあやめと付き合うことになったのだと思う。

圭吾と蓮本の偶然の出会い

物語の後半で、圭吾と蓮本はまったく偶然に出会う。圭吾は最初、苛立ちを見せながらも、ほんの少し蓮本に共感を抱くようになる。

この2人がこの後これ以上仲良くなっていくかどうかは分からない。しかし、少なくとも実際の蓮本との思いがけない出会いがなかったら、圭吾はずっと嫉妬に苦しむままで、物語の最後に大きな決断をすることはできなかったのではないだろうか。

ポリアモリーにまつわる人々の喜びや悲しみ

ポリアモリーを含めたパートナーシップが描かれた小説『きみだからさびしい』を紹介した。

3人以上で交際する恋愛スタイルということで、珍奇な印象をもたれたり、性的に奔放であるかのような誤解を受けたりと、まだまだ理解されにくい面もあるポリアモリー。

この作品を通して、ポリアモリーが異民族や異星人のような「特殊な感性をもった特殊な人々」ではなく、喜びや悲しみに満ちた人生を送っている普通 の人々であるということを想像してみてもらえたら嬉しい。

■今回ご紹介した本
『きみだからさびしい』
大前粟生 著
文藝春秋

 

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