10代のときに流行した少女漫画にいまいちのめり込めなかったのは、主人公の身体と自分のそれが、あまりに剥離していたからだと思う。正しくは実際の身体ではなく、「自分が認識する身体」との剥離。だからわたしにとっては、異性の恋愛を描く少女漫画よりもむしろB Lのほうが、よっぽど自然なラブストーリーに感じられたのだ。
大きな胸のついた体で男の子に恋ができない
少女漫画の主人公は、言わずもがな女の子ばっかりだ。大きな胸と、きゅっとしまったくびれと、丸いおしりを持つ彼女たちの身体に、わたしはどうしても入り込むことができなかった。
“女の子” に感情移入できない
素敵なヒーローに恋する彼女たちは、漫画の中でも “女の子” らしい悩み事で頭の中はいっぱいだ。
彼に毎日のようにお弁当を作ったり、バレンタインのチョコを渡せなかったり、念願叶ってやっとのこと両想いになれた最初の初デートで、ふりふりぴらぴらの服装を友達にコーディネートしてもらって「気合い入りすぎって思われないかなあ?」なんて心配してみたり。
そんな彼女たちに、わたしはどう頑張っても、成り代わることができなかった。
漫画の中に出てくるヒーローは、心惹かれるほどたしかに素敵だ。しかし、彼に恋する主人公にはどうしても感情移入することができない。少女漫画の醍醐味のひとつは、主人公に自分を置き換えて疑似恋愛を楽しむことだろう。
それなのに、なぜだかわたしは彼女たちの持つ “女の子” の身体に潜り込むことができなくて、それがいつもわたしの小さな不満だった。
わたしだって、妄想の中でくらい素敵な男の子と恋愛を楽しんでみたいのに。どういうわけだか、彼女たちと自分のあいだには大きなズレがあって、それが初恋もまだのわたしの疑似恋愛をことごとく邪魔した。
乳房と長い髪のある身体と男の子との絡み合いが、不自然に見えた
その理由がなんとなくわかるようになったのは、中学生になったくらいのころだったろうか。それまで読んでいた「ちゃお」や「りぼん」などの女児向け少女漫画誌ではせいぜいかわいらしいキスシーンくらいしか描かれることのなかったのだが、もう少し上の年齢層向けである「少女コミック」なんかを読むようになると、けっこう際どいセックスシーンもわりと普通に出てくるようになった。
そういういかがわしい場面をきゃあきゃあ騒ぎながら、薄目で同級生たちと回し読みしていたものの、わたしだけはどうにも心からときめくことができなかった。もちろん思春期だから、好奇心も興味もある。けれども、あからさまな言葉で言うならば、性的な興奮を覚えることはなかった。
フリルやレースのあしらわれた下着に包まれた大きな乳房と長い髪を持つ主人公に、自分を重ねることができなかったのだ。実際には女性器を持つ自分の身体は、主人公のそれと限りなく近いものであるはずなのに、彼女とわたしはまったく別の生き物に見えた。
漫画の中でも、女の身体は客体にしかなれない
少女漫画の中に出てくる大きな胸を持つ “女の子” は、常に追いかける/追いかけられる・守る/守られる・触れる/触れられるといった関係において、常に受け身だった。
弱々しくて頼りない主人公は愛され守られ、柔らかそうなその身体は触れられる対象で、存在そのものが結局はヒーローである男の子の都合の良い「モノ」のように感じられた。彼らに搾取されること、渇望されることこそが、男性を魅了する秘訣のように語られる。その文脈に、少しずつ少しずつ、ノンバイナリーのわたしは絶望していったのかもしれない。
フィクションの中ですら、女の身体を持つ以上客体にしかなれない。少女漫画の中に夢を見出すことができなくなって、やがて「これはわたしのための物語ではない」と悟った。
BLに登場する “少年” は、理想の身体だった
少女漫画に登場する “女の子” に自らを重ねることができなくて、がっかりしていたわたしの前に新しいラブストーリーが現れたのは、中学2年生の秋だった。高校生の先輩に借りた竹宮惠子の『風と木の詩』を初めて読んだときの衝撃は、今でも忘れることができない。
華奢で小柄なのに、乳房を持たない身体
上野千鶴子が「少年愛漫画の金字塔」と評した『風と木の詩』は、今でいうBLの走りである。主人公の恋の相手であるジルベールに、中学生のわたしは惹きつけられた。長めの巻毛とハイライトがたっぷりと入れられた大きな瞳、それを縁取る長いまつ毛、紅をさしたように赤い唇など。
ジルベールの造形は、むしろ “女の子” のそれとして描かれている。体の線は細いのに乳房を持たないジルベールは、まさにわたしの理想とする曖昧な身体だった。
男の子にも女の子にも見えない、あるいはどっちにも見えるジルベールは、常にわたしにまとわりつくセクシュアリティの鬱陶しさを軽々と飛び越えていく。『風と木の詩』を知ってから今日まで “ジルベールのような体で生まれてこれたらよかったのに” と何度思ったかわからない。
“少年” の身体にはすんなりと入り込むことができた
『風と木の詩』を皮切りに、わたしはB Lにのめり込むようになった。
もちろん一口にB Lと言ってもいろいろあるけれど、中でも夢中になったのは、やっぱりジルベールに似た半端で曖昧な身体を持つ “少年” がヒロインとして設定されているものだった。
“少年” の身体で男性と恋愛する物語のほうが、 “女の子” と男性が恋愛する物語よりも、わたしにとってはずっと自然に感じられたのだ。
あんなに “女の子” に自己投影するのが難しかったのに、 “少年” には不思議なほど入り込むのが容易かった。BLを読んでいるとき、わたしはすんなりと “少年” に成り代わることができた。
わたしの身体には乳房がくっついていてペニスもないのに、 乳房を持たないペニスを持つ “少年” のほうがむしろ自分の認識している身体と齟齬を感じることがなかった。
ヒロインでありながら主体になり得る “少年”
単純な身体の造りだけが、少女漫画とBLのヒロインの違いではない。
“少年” は、追いかける/追いかけられる・守る/守られる・触れる/触れられるといった男性との関係においても、常に客体とは限らないのだ。
たとえば吉田秋生『BANANA FISH』── この作品をBLとみなすことに賛否があるのは承知だが、作者のインタビューやスピンオフなどを鑑みて、ここではブロマンスを含む広義のラブストーリーとして考える──の主人公アッシュは、女性と間違えられるほど美しい容貌を持ち、ときに男性の性的搾取の対象とされる。
それでいながら、もう1人の主人公・英二よりも身長は高く身体能力も優れていて、銃撃戦など戦闘シーンでは英二を守る「主体」として活躍する。けれども精神面では非常に脆く、英二に依存し庇護される「客体」となる。つまりアッシュは、女性的な容姿を持ち、実際に男たちに女性の代替として扱われるヒロイン性を保持しながら、英二との関係において主体と客体を都度入れ替わっていた。
そこが “女の子” と “少年” の最大の相違点といえよう。 “少年” は、ただ恋する男性に愛され守られるだけの存在ではなく、自ら考えて選択し、行動する。女性性と男性性を矛盾することなくひとつの体に内包しながら、主体として生きることのできる稀有な存在が、B Lにおける “少年” であるのだ。
ノンバイナリーのわたしにふさわしい身体が欲しい
“心の性” というものがあるとするならば、わたしの心は確実に「女性」ではない。でも、「男性」でもないこともまた同じくらいたしかだ。そんなわたしがすんなりと感情移入することができたのが、BLに出てくるヒロインとしての “少年” で、だからこそBLは思春期のわたしにとって恋愛のバイブルだった。
ペニスが欲しいわけじゃない
わたしの認識する身体は、乳房も筋肉もない華奢で薄べったい身体だ。ペニスが欲しいわけじゃない。まあ、ついてたってそれはそれで構わないけれど。ヴァギナには、違和感も嫌悪感も今のところはないが、でも生理が来るのはとても苦しい。
男性でも女性でもない、どちらにも振り分けられない、曖昧な身体が欲しい。それこそがわたしの真の身体であり、自然な姿なのだ。BLは、わたしのもっとも理想とする姿で
で男性と恋愛する夢を叶えてくれた。
女の容れ物で男性と恋をしたいんじゃない
わたしは背が低くて化粧もする人間だから、少なくとも男性に見られることはない。中性的な外観というよりもむしろ、単純にボーイッシュな女性にしか見えないと思う。だから男性と恋愛をするとき、彼ら(いわゆる性自認男性)はわたしを「女性」としてみなす。でも、わたしの望む恋愛はそうじゃないのだ。
女の容れ物で、男性と恋がしたいんじゃない。わたしは女性でも男性でもないただの「わたし」として、男性を好きになって、セックスがしたい。
男と女じゃなくて、男と「わたし」で恋愛がしたい
ノンバイナリーやXジェンダーだって、トランスジェンダーであることに変わりない。わたしにだって性別違和はある。それなのに、わたしたちのそれは、FTMやMTFのそれよりも軽度であると思われている気がしてやまない。
FTMやMTFじゃないわたしの、心と体の剥離
男から女へ、または女から男へのわかりやすい移行ではないから、ノンバイナリーやXジェンダーが抱える性別違和はどこか「それほど重要ではない」と考えられている風潮を肌で感じる。それはシスヘテロに限らず、同じセクシュアルマイノリティからの視線も含む。
だからこそ、わたしは声を上げたい。男でも女でも、中性でも両性でも無性でもない、ただ「わたし」という性別が、たしかにわたしの中に在ること。そして、わたしの心は、実際の身体とは確実に異なっていること。
BLが、曖昧な身体を望むわたしの恋への憧れを満たしてくれた
恋愛対象に男性を含むわたしにとって、BLは間違いなく救いだった。主人公の “女の子” にどうしても感情移入できなくて少女漫画を楽しむことができなかったわたしの恋への憧れを満たしてくれたのは、 “少年” の身体がヒロインに据えられたBLだったのだ。
甘酸っぱいラブストーリーで「こんな恋愛がしてみたいなあ」「こんな素敵な人を好きになってみたいなあ」という幼い夢を抱いていたわたしを魅了したBLは、今でもわたしにとって大切な物語のひとつである。