02 母親、そして妹と離れ離れに
03 親族の期待を背負って進学校へ
04 自分を捨てた父親との再会
05 再び親に置き去りにされて
==================(後編)========================
06 一家夜逃げの果てに
07 ようやく迎えた思春期
08 性同一性障害と認められない
09 カミングアウトが開いた扉
10 人生の新たな一歩を踏み出して
01生誕の地・中国から日本に渡る
日本一美しい星空
生まれは中国の黒龍江省。父は中国人のハーフだ。
父方の祖母は、第二次世界大戦の終戦間際の状況が生んだ中国残留日本人で、ソ連軍の侵攻と関東軍の撤退の混乱のなか、親と離ればなれになって日本へ帰国できず、現地の人が親代わりとなって育てられたそうだ。
「その祖母と中国人の祖父の間に生まれたのが、僕の父です。父は中国人である母と結婚しましたから、僕の身体の4分の3は中国の血が流れているんです」
生まれて間もなく、中国から日本に渡った。
もっとも古い記憶を辿ると、そこには満天の星があった。
「日本でいちばん初めに住んだのが、長野県の阿智村というところでした。今では日本でいちばん星空が美しい街とも言われる場所です」
「中国・黒龍江省も荒涼とした大地が広がっているので、おそらく無数の星が瞬いていたはずなんですが、まだ生まれたばかりの頃のことで、覚えていなくて。記憶の中にある初めの星空は、この阿智村のものです」
阿智村での生活は1年ほどで終わりを告げ、一家は村の北東に位置する飯田市に引っ越すことになる。
清らかでない生活
しかし一家で日本に渡ってからの生活は、阿智村の星空のように清く美しく、とはいかなかった。
両親は日本語での意思疎通が困難だったため、なかなか実入りのいい定職に就くことができず、家族には常に貧困の影が付きまとった。父親は建設の現場などで働いていたが、収入は不安定だった。
それは3歳のとき、妹が生まれた後も、変わらなかった。
「ずっと母から、誕生日は2年に1回、訪れるものなんだよ、と言われていました。まだ年端も行かない子供だった僕は、本気でその言葉を信じていました」
親から誕生日プレゼントを貰った記憶もなかった。
バースデーケーキも、ちょっと変わったものだった。
「2年に1回は訪れる、僕と妹の誕生日のときに、母がケーキを作ってくれました。ただオーブンではなく炊飯器で、小麦粉ではなく餅米が材料なんです。砂糖を加えて炊き上げて、内釜をそのままお皿の上にひっくり返すんです。で、表面にゆで卵でトッピングする」
「甘いおこわみたいな感じなんですが、それがケーキだと本気で信じていました」
小学校に上がったとき、給食でケーキが出たことがあった。
それまでは本気で、その ”甘いおこわ” がケーキだと思っていたのだ。
自分の家は他とは違うんだ、自らの家庭の貧しさを痛感した瞬間だった。
02母親、そして妹と離ればなれに
招かれざる客
9歳のときに両親が離婚することになった。
理由はよく分からない。
父親も母親もどちらかというと気が強かったので、結局は性格の不一致が、その理由だったのかもしれない。
「僕は父に引き取られることになりました。悲しかったのは、妹とも離ればなれになったこと。母は妹を引き取り、故郷の中国に帰ることになったんです」
父親との生活が始まったが、11歳のとき、その父が20歳の女性と再婚することになった。それを機に、今度は父の姉の家に引き取られる。
「当時、伯母は東京の下町に住んでいました。父が家に連れ込んで来たよく知らない女の人と住むよりは、従兄弟もいるし伯母の家の方がいい、と、幼いながらに思いました」
しかし自分が思っていたほどは歓迎されてはいない、招かれざる客であったことを後で思い知る。
「伯母も育ち盛りの子どもを2人抱えて、さらに僕までというのは、家計的に大変だったんだとは思うんです。でも僕だけおやつを貰えないことがあったりして、子ども心にも傷つきました」
そんな自分を勇気付けてくれたのが、幼いときに一緒に中国から引き上げてきた祖母だ。
当時は東京に住んでいて、たまに外食に連れて行ってくれた。
「東京に出てきて間もない頃にラーメン屋に連れて行ってくれたんですが、ひと口目で美味しさに感動しました。今まで両親と外食なんてしたことがなかったから」
それほどまでに、お金にも愛にも飢えて育ってきた。
あのときの一杯のラーメンの幸福感は、いまでも明確に脳裏に焼き付いている。
学校だけが救い
「中国から両親と引き上げてきたときは、全く日本語が話せなくて。そのまま3歳になって、幼稚園に入学することになりました」
「初めは同級生と意思疎通ができなくて、困ったんですけど。校庭遊びを楽しむのに、言葉なんて必要なかったんです。男の子と泥ダンゴを作って、お互いにぶつけ合って遊んだり、棒で土俵を描いて相撲を取ったり。その頃から、あまり女の子とは連んでいませんでした」
日本語は幼稚園を卒業する頃には、コミュニケーションに全く支障がないくらいにはマスターしていた。
両親の離婚、父親の再婚の影響で、東京の小学校に転校することになったが、伯母の家で肩身が狭いぶん、学校での友達の存在が何よりも大切だった。
「勉強はあまり好きじゃなかったけれど、とにかく放課後や休み時間、友達と戯れ合うのが楽しみで。僕が冗談を言って、友達が爆笑してくれるのが、本当に嬉しかったんです」
後にお笑いを志すようになるが、そのルーツが、この頃から垣間見える。
一方、小学校のとき、初めての恋を体験した。小学3年生のとき、相手は女性だ。
「実はそんなに可愛い子ではなかったんですけど。ちょうど冬で、ふいに寒がる仕草を見たときに、すごくキュートだな、と思ったんです」
「でもそれが恋かどうか、当時は自分を取り巻く環境が目まぐるしく変わり、生きるのに必死で、深く考えることはありませんでした」
03親族の期待を背負って進学校へ
望まない受験
実の両親ではなく、伯母に育てられる毎日の中、唯一の救いだった学校生活。
しかし、それすら奪い取られる事態になる。望まない中高一貫の私立中学の受験を強いられたのだ。
「中国では、勉強して良い成績を収めないと偉くなれない、豊かになれない、という風潮が強いんです。まだ両親と暮らしていたときも、ニュース番組以外、テレビを見させてもらえませんでした」
「それに両親の口癖は『お前は医者になれ』でした。中国人の間では、成績優秀で医者になるのが一番の人生の勝ち組、という考え方があるみたいで。伯母も同じことを言っていました」
私立の進学校受験を見据えて、伯母のスパルタ教育が始まる。しかも授業料のかからない、特待生で合格しろ、と言うのだ。
「おやつはあまり与えてくれないのに、塾のお金は出してくれて。講義だけでなく、自習室に残って、夜遅くまで勉強しました」
「塾のない日は、夕食が終わるとすぐに『勉強しなさい』と凄まれました。おかげで学校での成績は優秀でしたが、どうしても勉強は好きになれませんでした」
抗えない運命
それでも学校の休み時間の楽しみだけは、死守した。男子と連んでドッジボールや相撲をしたり。
有名人の物まねをして相手を笑わせる、という芸当も覚えた。
「足が早かったんで、運動会でも、ずっとリレーの選手でした。男の子の方も、あいつ活発な女の子だな、くらいにしか思っていなかったので、すんなり僕を受け入れてくれて、とても居心地が良かったんです」
公立の小学校に通っていたから、本来なら、この同級生たちと同じ中学校に上がれるはずだった。
しかし私立の進学校を受験したところ、幸か不幸か、合格してしまう。
「特待生として入学することはできなかったけれど、祖母が学費を工面してくれました。本当はみんなと同じ中学校に行きたかったけれど、伯母の家に転がり込んでいる身、自分に決定権はありません」
「電車に30分ほど揺られて、区外の学校に通うことになったんです」
制服はブレザーとスカート。
首元にリボンを付けるのも嫌だった。
「伯母の家から中学校に通うようになって、すぐのこと。父から連絡があって、一緒に暮らすことになったんです。今回は妹も一緒に」
「素直に、父とまた生活できるのが嬉しかったけど、事態は自分が思い描いたように、うまくはいかなかったんです」
04自分を捨てた父親との再会
奇妙な同居生活
再婚して長野で暮らしていた父親は再び離婚を経験して、当時、東京の多摩地域にあるアパートで自分の兄と同居していた。
両親が離婚した際に、母親と一緒に中国に渡った妹も日本に帰国しており、久々に一緒に暮らすことになった。
「父と伯父と僕と妹の、奇妙な同居生活が始まりました。父がなぜ、僕と妹を引き取る気になったのか。今でも分かりません」
「父は伯父と一緒に、在日中国人向けに月刊のフリーペーパーを発行する会社を立ち上げました。が、仕事はそこそこで、どちらかというと夜にSkypeで中国人女性と交流することの方に熱心で。僕と妹にも、まるで関心を払ってくれませんでした」
一方の伯父も寡黙な人で、自分たちに興味を持つことはなく、一日じゅう部屋にこもって本を読んでいるような人だった。
破綻する親子関係
新たに事業を立ち上げたのに、父も伯父も、いまひとつ仕事に身が入らない状況だったので、その成否は、初めから決していたようなものだった。
「一緒に住み始めた頃から、生活は苦しかったんです。父と叔父と妹と4人で住むようになってから、家事は洗濯も料理も掃除も、僕が担っていました。買い物のために父から渡される金額がだんだん減っていって、食卓が貧相になっていきました」
ついにはアパートの家賃も払えなくなった。
滞納は数ヶ月に及び、大家が何度も催促にやってくる。大きな音で扉を叩かれようと、父も叔父も声を潜め、ただ嵐が去るのを待っているだけ。
やがて大家が諦めて帰って行くと、父はまたSkypeでチャットを始め、叔父は書物に目を落とし始める。
「そのうち、父と叔父は家からいなくなりました。『大家が来ても、お父さんいないんです、って言え。そうしたら諦めて帰るだろ?』と言い残して。妹と僕、2人だけの生活が始まったんです」
この頃、授業料の滞納もあり、学校の先生から支払いのお願いなる手紙を渡されることもあった。
05再び実の父から見放されて
カレーしか食べない
父との同居生活が始まっても、引き続き1時間以上をかけて区内にある私立中学校に通っていた。学費は祖母が支払ってくれていた。
「父に置き去りにされても、なんとか妹と2人で生きていけたのは、当時父の兄弟の家に身を寄せていた祖母が、1週間に1000円という決まりで昼食代を振り込んでくれたからです。給食が出る学校ではなかったので」
「そのお金を切り詰めて生活費に回せればと考えました。だから毎回、一番安いカレーを頼んでいました。もっと食べたいけど、仕方がなかったんです」
あるときカレーを頼んだら、頼んでもいない唐揚げや春巻きが付いてきた。
食堂のおばさんが気を利かしてくれたのだ。
「どうしてこんなに親切にしてくれるんだろう、と不思議でした。いつも食器を返却するときに『ごちそうさまです』『美味しかったです』って、ニコニコお礼を言っていたから、僕のことを気にして、おまけを付けてくれたのかな、と思ったんですけど」
毎日毎日、一番安いメニューであるカレーしか注文しない自分のことを不憫に思って、親切にしてくれたのかもしれない。
以後もその施しは続き、おかげでお昼代に困ることはなかった。
お風呂にも入れない
苦しい日々を乗り切れた理由は、もうひとつ。
中国に帰っていた母が、日本に戻ってきたことも大きい。
事情があって一緒に生活することはできなかったが、実の父に置いていかれた自分たちをなんとかしたい、と毎月1万円を振り込んできてくれたのだ。
「実はその前、まだ父と一緒に生活していた頃にも、僕たち兄弟のために母が10万円を送金してくれたことがありました。しかし父に見つかって、そのお金は飲み代に消えてしまいました」
「あのとき母が毎月入れてくれた1万円がなかったら、僕と妹は、どうにかなっていたかもしれません」
相変わらず家賃が振り込めないので、引っ切りなしに大家が催促に来る。
お父さんがいないんです、と言うしかない状況に、心の底から申し訳ない気持ちになる。
もちろん大家は文句を浴びせて帰っていく。
「公共料金を滞納すると、電気、ガスは止められるけど、水道は意外となかなか止められない、ということを知りました」
「お金がないから優先順位を付けて、なるべくそれぞれが長持ちするように支払っていくしかありません。寒い冬の水シャワーは本当に辛かったです。妹は冷たいから、とお風呂に入るのを拒んでいました」
食事はもやしや豆腐ばかり。
嵩増しして、空腹を満たすしかない。
洗濯も毎日できないので、学校にいても自分の体が臭いのは、なんとなく分かった。
「生理用品を買うお金もありません。トイレットペーパーも貴重なので、最小限の長さで拭うしかありませんでした」
そして。
もう原資がなく、どうにもこうにもならないと思った頃だった。
父が迎えにきてくれた。家賃の滞納は重みにかさみ、すでに100万円以上になっていた。
<<<後編 2016/09/13/Tue>>>
INDEX
06 一家夜逃げの果てに
07 ようやく迎えた思春期
08 性同一性障害と認められない
09 カミングアウトが開いた扉
10 人生の新たな一歩を踏み出して