02 懸命に生活を支え、育ててくれた母
03 ピンクのラベルの体操服
04 “女性らしさ” への否定と憧れ
05 限られた人にしか言えなかった本音
==================(後編)========================
06 納得いかないと続けられない性格
07 性同一性障害だから見えた答え
08 娘として受け止めてくれる母
09 胸を張って女性でいられる環境
10 誰よりも自分が自分を認めること
01不得手なコミュニケーション
物事をはっきりと言うタイプ
主義主張を、はっきりと表に出すタイプ。
「不合理なことや間違ったことが起こっていると、受け流せないんです」
「仕事場でも、権力のある人が要領の悪いことをしていると、気になって口を出してしまうんですよね」
「その割に、自分の仕事の段取りはうまくいかなくて(苦笑)」
「だから、私はADHD(注意欠如多動性障害)なんだと思っていました」
1年前、自分自身を知るため、検査を受けた。
「ADHDではなく、アスペルガー症候群です」と診断された。
「アスペルガー症候群にも種類があって、私は物事をはっきりと言う社交的なタイプみたい」
「IQが平均値より高いから、人の不合理なやり方が気になって仕方ないのだと言われました」
「最初は、ちょっとショックでしたね・・・・・・」
しかし、診断してもらったことで、自分の考えは独特なのだということを知れた。
自分と他者を、相対的に見られるようになった。
「自分自身のことがわかると、ある程度気持ちを抑えられるようになりました」
男性としての評価
人と話すことが好きになったのは、30代でホルモン治療を始め、女性ものの服を着るようになってから。
「世間的に女性として見られるようになってから、すごく社交的になったと思います」
「外見が男性だった時は、コミュニケーションを取ることがあまり好きじゃなかったです」
「人って、すべてのことを性別で見るんですよ」
例えば、レストランで、友だちの分のサラダを取り分けたとする。
女性であれば「やさしい」「女子力が高い」と評価されるが、男性だと「頼りがいがある」と言われる。
「まったく同じ行為をしても、男性は “男らしい” って解釈されるんですよ」
「でも、私は女性的な部分を見てほしかった」
「親切にしても、自分にとってマイナス、男性としての評価が返ってくるから、人との接触を避けるようになったんですよね」
外見が女性になると、評価の言葉も、自然と女性に向けてのものに変化していった。
「自分にとってうれしい言葉をかけてもらえると、人にも親切にしようと思うじゃないですか」
「今は柔らかい印象って言ってもらえるけど、もともとの私は尖ったところばかりの嫌なやつでした(苦笑)」
02懸命に生活を支え、育ててくれた母
精神疾患を抱えていた父
三重で生まれ、生後間もなく愛知に引っ越した。
両親と4歳上の姉の4人家族だった。
父親は精神的な疾患を抱え、家族に暴力を振るうことがあった。
「一番古い記憶は2歳くらい。父の暴力を避けるように、机の下に隠れていました」
「たった1日だけ、父の機嫌が良かった日を覚えています」
その日は、近くの行楽地に連れていってくれた。
4歳になり幼稚園に通い始めた頃、父親は自ら命を絶った。
「母の仕事帰りに、姉と3人で買い物に行って、仮面ライダーのレコードを買ってもらったんです」
「家に帰ると父が不機嫌で、『ちょっと出かける』って外に出ていったまま、帰ってきませんでした・・・・・・」
子どものために働きに出た母
母親は、保険の外交員の仕事をしていた。
「まだ2歳だった私をベビーカーに乗せて、仕事に出ていました」
「2、3歳で入れる保育園もなかったから、母の職場で遊んでいた記憶があります」
「大人に絵を描かせるのが好きだったって、母からよく聞かされましたね」
母の稼ぎだけでは、生活するので精一杯だった。
隣人が引っ越す際に捨てていった絵本をもらい、ボロボロになるまで読んだ。
「『かたあしだちょうのエルフ』って絵本が好きで、ずっと読んでいましたね」
母親は40年以上、保険の外交員を続け、姉と自分を育ててくれた。
新たな父親との平穏な生活
「父が自殺したと話すと、暗い感じがするけど、引きずることはなかったんです」
父が命を絶ってから1年半が経った頃、母親が恋人を連れてきた。
「その男の人はすごくやさしくて、お父さんというより、お兄さんみたいな感覚でしたね」
「一緒に暮らすようになっても、母はその人と籍を入れず、内縁関係でした」
「新しいお父さんがいることは、幼いながらに人に言っちゃいけないと思っていましたね」
当時、母親が「会社に知られるといけないから」と言っていたのを、聞いたような気がする。
それでも、家族4人での生活は平穏であたたかいものだった。
「姉が結婚する時に、ようやく母も再婚したんです」
「本当にやさしい人だったから、母の二度目の結婚はすごく幸せだったと思います」
「今は、2人目の父も亡くなってしまったんですけど、母は『お墓参りに行くのが楽しみ』って言っています」
現在、母親は「1人がいいわ」と自分で老人ホームを見つけ、入居してしまったが、楽しく暮らしているようだ。
「母は昔から自由奔放な人で、尊敬しています」
03ピンクのラベルの体操服
輪に入れない優等生
小学校に上がった自分は、学業においては優等生だった。
しかし、スポーツはてんでダメで、いじめられることもあった。
「『女っぽい』みたいに言われることも少しあったけど、それより運動ができないことでいじられることが多かったです」
「ひどいいじめがあったわけではなくて、嫌われていた印象ですね」
「私も群れることがあまり好きじゃなかったから、常に人と一緒にいることができなかったんです」
友だちがいないわけではなかったが、深い仲になることはほとんどなかった。
「女だったら良かったのにな」
小学2年生のある日、母親が体操服を洗濯してしまった。
「その日は体操服を持っていく日だったんだけど、まだ乾いていなかったんです」
「だから、姉の体操服を持っていくことになりました」
体操服のデザインは男女ともに同じだったが、唯一名前のラベルの色だけが違った。
男子はブルーで、女子はピンク。
「ラベルの色が違うってだけで、すごくうれしかったんです」
「学校が終わっても、姉の体操服を着ていて、そのまま遊びに行きましたね」
高学年になると、プールの時間が嫌だった。
「裸を見られることが、恥ずかしかったですね」
「でも、プラスの出来事も結構あったんです」
同級生の男子に「お前は、女だったら良かったのにな」と言われた。
きっと「なよなよしていて女々しい」という否定的な意味で、投げられた言葉だったのだと思う。
「だけど、私はその言葉がうれしかったんです」
女の子っぽくあることを、認められたような気がした。
プライドがない人がやること
家族でテレビを見ていた時、番組内でこんなクイズが出題された。
“夜のクラブで踊るニューハーフには、どの血液型が多いか?”
「理由はわからなかったけど、当時の私はニューハーフに興味津々だったんです」
「だから、そのクイズもすごく気になりました」
母親が「O型じゃないわよ」と言い始めた。
「O型はプライドが高いから、こんなバカみたいなことはしない」という理由だった。
「我が家は母と実父がO型だから、姉と私もO型なんです」
「母の言葉を聞いて、ニューハーフってプライドがない人がやる恥ずかしいことなんだ、って思ったんですよ」
母親の何気ないひと言が、ネガティブな情報として自分の中に蓄積された。
04 “女性らしさ” への否定と憧れ
納得のいかないルール
中学生になり、制服や髪形で男女が分けられることに、納得がいかなかった。
男子は地肌2cm以下の坊主であることが、校則で決まっていた。
「ツッパリが流行した後の世代なので、厳しく抑えつける時代だったんですよね」
「授業には間に合っているのに、登校時間に少し遅れただけで、殴られたこともありました」
「朝礼で並ぶ時も、斜めから見てまっすぐじゃないと怒られるんですよ(苦笑)」
今振り返ると、性別に関係なく、不条理なルールに窮屈さを感じていたのだと思う。
「なんで先生や学校の言いなりにならなければいけないのか、疑問でしたね」
「高校受験の時に、滑り止めを受けるように進められた時も、納得できなかったです」
自分のレベルよりランクの低い公立高校を、受験するつもりだった。
わざわざ滑り止めを受ける必要はないと判断したが、教師には強く勧められた。
「『受ける必要がないと思うから受けない』って、言った気がします」
「先生は、ひねくれたやつだなって、手を焼いていたと思いますね(苦笑)」
隠してきた本当の気持ち
思春期に、強く性別に違和感を抱くことはなかった。
無意識下で意識していたのだと思う。
中学生の頃、1歳下の後輩に、言葉遣いや仕草が女子っぽい男子がいた。
「その子はオネエであることをオープンにして、周りからかわいがられていて、羨ましかったです」
「自分も彼みたいに振る舞いたい、って気持ちがありました」
「中学時代は、姉の服に憧れていて、隠れてこっそり着ていました」
この頃は、男であることが嫌という感情より、女子っぽい格好がしたいという気持ちの方が大きかった。
「でも、ニューハーフや女装は恥ずかしいものだと思っていたから、隠していました」
「文化部に入ると女子っぽいと思われるかもしれないから、卓球部に入りました」
母親の何気ないひと言が、ずっと心に引っかかっていた。
「心の奥底にある女子っぽくしたい、という気持ちの理由は、ずっとわからなかったです」
ジェンダーの意味
高校生になると、校則が緩くなった。
髪を伸ばして、かわいくアレンジすると、周囲の友達は “かわいいキャラ” として扱ってくれた。
中学の時ほど、女子っぽさを意識しなくなっていた。
その一方で、ジェンダーに関して調べるようになる。
「勉強すればするだけ、男らしさや女らしさを否定するようになりました」
「性別は関係ないから、女装したい、って思う必要もないんじゃないかって」
「それなのに、女らしくありたいと願う自分もいる」
「その気持ちが理解できなくて、自己否定の感情や罪悪感を抱くようになりましたね」
05限られた人にしか言えなかった本音
実らなかった初恋
幼い頃から、恋愛対象は女性だった。
「初めて本気で人を好きになったのは、小学5年生の時かな」
「同級生の女の子が気になって、6年生のバレンタインデーにチョコをもらったんです」
「そのまま、『つき合いましょう』みたいな感じになったんですよ」
初デートの日。
待ち合わせ場所まで向かったが、恥ずかしさのあまり、彼女の前に出ていけなかった。
「2年間ずっと好きだったんだけど、いざとなると、一歩が踏み出せなかったです」
「初めてちゃんと交際したのは、大学生になってからですね」
初めての彼女
大学生活も半ばを過ぎた頃、学生運動に関わるようになった。
「学生運動といっても、大学を良くするための自治会活動みたいなものでした」
その活動を通じて知り合った1歳上の女性の先輩と、交際がスタート。
互いに1人暮らしだったため、すぐに同居し始めた。
「1人暮らしの間、女性ものの服や下着を買って、こっそり着ていたんです」
「でも、彼女と同棲する家には持っていけないから、すべて捨てました」
女装していたら堕落する、と考える自分もいたため、踏ん切りをつけたつもりだった。
しかし、いざ女性ものの服を捨てると、着たい気持ちが芽を出す。
「我慢し続けるのも辛いから、彼女に言うしかない、と思ったんです」
2人きりの時こっそりとズボンを脱ぎ、女性ものの下着を身につけていることを打ち明けた。
当時は性同一性障害という言葉がなく、女装とも言いたくなかったため、直接見せる手段しか思いつかなかった。
「彼女はひとしきり笑った後、『そういうのが好きなんだ』って受け止めてくれたんです」
彼女の前では、女性ものを着られるようになった。
女性らしくなれない理由
「当時から、話し方や仕草は今とほとんど変わらないです」
「だから、彼女に打ち明けた後も、私の振る舞いや2人の関係は、変わらなかったです」
「結局、その彼女とは、性別と関係ない理由で別れることになってしまったんですけど」
大学を卒業する頃には、世の中にニューハーフという存在が浸透し始めていた。
しかし、元カノの前以外で、女性っぽく振る舞うことはできなかった。
「理由が2つあって、1つはそんな風に振る舞ったら、恋人ができないと思ったから」
自分が女性になってしまったら、女性とは交際できないと思った。
「もう1つの理由は、職業が限定される気がしたからです」
芸能人になるか、夜のクラブなどで働くか、選択肢はそれしかないと思っていた。
「テレビでMTFの予備校教師の特集を見た記憶があるけど、例外中の例外だと思いました・・・・・・」
「女性になったら接客業しかないけど、やりたいことではなかったから、男性のまま生きていくんだろう、と考えていましたね」
<<<後編 2018/05/31/Thu>>>
INDEX
06 納得いかないと続けられない性格
07 性同一性障害だから見えた答え
08 娘として受け止めてくれる母
09 胸を張って女性でいられる環境
10 誰よりも自分が自分を認めること