『テラスハウス』に出演していた木村花さんが、インターネット上での誹謗中傷を苦にして自死したことは記憶に新しいと思います。しかし、まだ数ヶ月しか経っていないというのに、日本中が『バチェロレッテ』に注目しました。恋愛や結婚をショーとして見世物にする恋愛リアリティーショーや婚活番組の問題点は、既にいくつか指摘されています。今回は、その問題点についてセクシュアルマイノリティの立場から考えてみました。
テレビから発せられるメッセージは画一化されている
出演者同士の恋愛模様を楽しむ番組、恋愛リアリティーショーや婚活番組。『テラスハウス』や『あいのり』『バチェロレッテ』などは聞いたことある、という人も多いでしょう。これらの番組が人気になる一方で、番組出演に際して誹謗中傷が原因で自死してしまった方もいます。
恋愛リアリティーショーと私
私は恋愛や婚活といった単語を意図的に避けて暮らしています。特にテレビから発せられるそれらの単語は、メッセージが強烈で画一的。嫌悪感さえあります。例えば、「適齢期になったら結婚するもので、していない人はおかしい」というようなメッセージです。
恋愛リアリティを知ったのは、小学生の頃だったと記憶しています。よく知らないクラスメイトが、恋愛リアリティについて語っているのを聞いて、「他人の恋愛の何がそんなにおもしろいのだろう」と不思議に思ったのです。かっこよかったり可愛かったりする芸能人の恋愛でも、私にとっては同じことでした。
まだアセクシュアルやノンセクシュアルという言葉も知らず、自分が恋愛をしないのだと自覚もしていなかった頃の話です。私にとっては、おもしろくないコンテンツなのだなとふんわりと避けていました。
しかし、今は明確な意思をもって、恋愛リアリティを避けています。
テレビから発せられる画一化されたメッセージ
子どもの頃の私にとって、テレビはアニメかドラマかニュースを観るためのもの。恋愛リアリティに限らずバラエティー番組は基本的におもしろいと思えませんでした。これには、芸能人の私生活や価値観といった、「他人」に興味を持てなかったことも関係していると推察しています。
好きな芸能人がいないわけではないですが、それはドラマや映画のなかのその人が好きなのであって、生身のその人が何を考え、何を大事にしているかには興味がないのです。わかりやすく言うと、好きな小説の中身は大切だけれど、小説の作者の人となりには興味がないのと同じ感覚だと思います。
私と近い感覚の人は多いか少ないかで言えば、少ないのでしょう。だからこそ、芸能人の不倫問題にあんなに多くの人が怒り、非難し、「炎上」するのです。
テレビは常に、「こうあらねばならない」とメッセージを発信しています。「健康であらねばならない」「恋愛をしなくてはならない」「結婚しなくてはならない」――ー。繰り返されるそれらのメッセージがつらく感じたので、私はテレビのない生活を選択しました。
ネット配信でも存在した恋愛リアリティ
そうしてテレビのない生活を選択し、恋愛リアリティーショーをはじめとするバラエティー番組とは無縁の生活、と思っていたのもつかの間。ネット配信でも恋愛リアリティーショーなどは放送されており、それらの番組の宣伝が合間に流されてきたのです。
宣伝をざっと聞いた限りでは、男女の恋愛模様を描いていく番組ではあるものの、そのなかには一人恋愛をしないのにしているふりをしている者がいる、という設定があるようでした。恋愛リアリティーショーというだけではなく、何か別のゲームが混じっているような気もしましたが、私はこの設定に嫌悪感しかありませんでした。
この番組の設定では、恋愛しないことが悪いことのように扱われている空気を感じたからです。番組の宣伝からそう感じました。恋愛をすることが正しくて善良で、恋愛をしないことは正しくなくて善良でない、というメッセージ性もあるように思えました。
他人の恋愛を見世物にする番組
恋愛や結婚は本来、個人的なものです。秘めて大切にすべき思いを、不特定多数で覗き見する番組が存在する世界は極めて歪んでいるといえます。
見世物にすることの暴力性
バラエティー番組は芸能人の人格や私生活、価値観を見せることで成り立っている番組といえます。その一つである恋愛リアリティーショーや婚活番組は、出演者の恋愛や結婚を魅せることで成り立っています。台本はなくても、より大きな感情の動きを見せることを視聴者から期待されますし、より人を惹きつけるように編集もされていきます。
結果、放送されるものは実際に起きたことよりも過激に感じられるようになっています。
気軽に意見が言えることの弊害
また、今はSNSの時代と言われています。気軽に番組の感想などを呟くことができます。視聴者の反応をダイレクトに見られることはいいことでもありますが、悪く言えば、視聴者の希望が可視化されるということです。「こんなシーンが見たい」「このシーンがよかった」といった感想は、やがて出演者の行動を縛っていくのです。
好まれるものを見せようとするのは当然の流れですが、その一方で、見世物である恋愛は現実から遠くかけ離れていくのです。そんな過激な恋愛が恋愛リアリティとして放送され、リアルと銘打って世に出されていくのは恐ろしいことです。
間違った価値観が形成されていく
本来、恋愛も結婚も、当人達だけのものであるはずです。他の誰かが、「ああしなさい」「ここでこうしておくべきなんだ」と口出しするのは、基本的に許されることではありません。事件性のあるものは第三者の介入が必要ですが、そうでない限りは他人の恋愛には口出しするべきではありません。
しかし、当人達だけのものであるはずの恋愛を、覗き見する番組が大量に作られ放映される世界では、感想の名で、大量の「口出し」ができます。それも楽しみ方の一つと言えばそうですが、それが当たり前になったら、現実でも他人の恋愛やセクシュアリティに口を出してもよいと勘違いする人が、増える可能性は十分にあります。そんなことになったら、そのしわ寄せが来るのはいつだって、マイノリティの側なのです。
恋愛リアリティーショーには答えが一つしかない
人間の恋愛は多様です。しかし、恋愛リアリティや婚活には、カップル成立や結婚といった「ゴール」が用意されています。
ゴールを目指す以外の選択肢はない
恋愛リアリティや婚活番組には、明確なゴールが示されています。カップル成立や結婚といったゴールです。当然のように、番組の出演者もゴールを目指せる人々のみです。つまり、日本では結婚できない同性愛者や、男女の枠に収まれないトランスジェンダーの人々は、このような番組には存在できないのです。
こうして、テレビは画一化されたメッセージに回帰していっています。同性愛を取り扱った作品が放映されることもありますが、依然として、シスジェンダー、ヘテロセクシュアルを当然とする流れは変わりません。
多様な家族の形を認めない番組
あくまでも恋愛や結婚を1対1の男女がするものと定義する番組においては、家族の形も一つになっていきます。例えば、ポリアモリーなどの関係性はそこでは作ることができません。出演者が複数の出演者と付き合うことは望まれていないからです。
もちろん、現在の日本の制度では、同性同士の結婚も番組で設定されることはありません。恋愛リアリティでも、ゴールは一つ。こうして、世の中の恋愛や結婚の「ふつう」も強化されるのです。
LGBTのいない世界を見せられている
今回この記事を書くにあたって、『バチェラー』『バチェロレッテ』の募集要項を読んでみました。この番組が作っていくのは、LGBTやセクシュアルマイノリティと呼ばれる人々のいない世界なのではないかと私は危惧しました。
LGBTの存在しようがない番組
結婚は、現在の日本では男女にのみ認められた契約です。その時点で、婚活番組には存在することのできない人達がいます。また、番組の出演者の募集要項は、明確に男女で分けられており、男性でも女性でもない人は想定されていないようでした。LGBTはいない世界。それをリアルとして放映すること、現実として人々に浸透していくことに不安を感じずにいられません。
テレビはどこへ向かうべきか
とはいえ、テレビもスポンサーの商品を売らなければなりませんから、より好まれる番組を作り、見てもらおうとします。視聴者に恋愛リアリティや婚活番組が好まれるならそれを作るのも道理ではあります。男女が共同生活を送ったりする恋愛リアリティーショーや婚活番組は、商品の宣伝という点でも、好都合なのでしょう。ですが、売れるから、好まれるからと言って有害なコンテンツを作り続けることには問題があります。
恋愛リアリティや婚活番組は、セクシュアルマイノリティの人々を排除した世界であるにも関わらず、平然とリアルの顔をします。それをリアルだと信じてしまった人達、とりわけ子ども達は、どうなるのでしょうか。また、それを観たセクシュアルマイノリティの人々は、疎外感を覚えるのではないでしょうか。
では、どんな作品を作ればいいのかと言われそうなので、そのことも考えてみました。恋愛を画一化させず、ジェンダーや恋愛を押しつけないもの、案外難しいです。しかし、難しいからと言ってやらないわけにいきませんし、制作側が変わるように放送倫理なども見直していく必要があります。
セクシュアルマイノリティの人々を扱った作品のドラマをやるのもいいでしょうし、そうでないドラマをやるのもいいでしょう。ドラマは虚構です。虚構であればこそ描ける優しい世界も厳しい世界もあるのではないでしょうか。リアルと言いながら作ったものを見せるよりは、ずっといいと思います。