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Writer/雁屋優

ホモチョコ、その表現は誰かを傷つけていませんか

バレンタインデーは、一般的には女性が男性にチョコレートを贈る日だとされています。日本では、という話ですが。私はそのバレンタインに関して、とあるツイートを見ました。あるメーカーが売り出しているバレンタインチョコを販売店で「ホモチョコ」にいかがですか、とポップをつけて売っている写真です。そのツイートを見た私の考えたことを書いていきます。

ホモって呼んでいいのは当事者だけじゃないですか

ホモは差別用語と言われていますが、その意味を知らない人はこの国では少ないでしょう。そう、男性同性愛者、もしくはそのカップルを指すのです。かつては私もホモと連呼する無神経な人の一人でした。

バレンタインが苦しかったのは私もです

では、私がバレンタインを純粋に楽しめたのか、と問われればそれは違います。バレンタインデーに、女性が男性にチョコレートをはじめとしたお菓子を贈るというこの国の習慣は、真綿で首を絞められるようなつらさがありました。

節分を過ぎたら、バレンタインに向けて準備を始めるのが当然と思いこんでしまっていたのです。それは周囲の大人たちの刷りこみであったり、スーパーに並ぶ数多のポップからの圧力であったりしたのです。

そうしなければならない、と思うからチョコを作っていました。でも、それは実はとてもひどい行為だったのではないかと、今は考えています。

“普通” にはまるために、そうじゃない人を排除する仲間になってしまっていたのかもしれません。そうやって築く安全地帯はそんなに居心地はよくないけれど、楽といえば楽でした。

なんで女の子が作ってあげなきゃいけないんだろう。その思いが、どこかにありました。

自分をどう定義するか決める権利は当事者だけにある

さて、「ホモチョコ」に話題を戻しましょう。

男性同性愛者やそのカップルを指して、「ホモ」と呼ぶことが差別であることは言うまでもありません。ひどい差別です。

しかし、私は日常でホモという単語が出てくる場面をいくつか知っています。その一つが男性同士で仲良くしている人が、自身やそのコミュニティを総称して言う場合です。

私はこれには何の問題もないと思います。なぜなら、本人が自身を「ホモ」と言うとき、それは差別ではないからです。

差別用語を使っているのに、差別ではないとはどういうことでしょうか。たしかに言葉は差別用語ですが、自称しているときには話が変わってくると思うのです。

自称している、ということに大きな意味があります。例えば「ホモチョコ」という言葉が広告でなく、日常のワンシーンで、男性を好きな男性に贈る人たちから出た言葉であったなら、きっと何の問題もなかったでしょう。

自分を何と定義するかは、自分で決めていいからなのです。男性にチョコを贈る男性の自分を「ホモ」と認識し、笑いにしてもいいのです。ただし、それは自分が自分に対してするときだけですが。

私は現在、性自認がふわふわしていますが、明日から性別の欄に女性と書くのをやめて、その他にしてもいいのです。でも、私がどんな性別を自認するか、またどんな性的指向を自認し、またそれを自称するかは自分で決めるもので、他人に決められるものではありません。

つまり、自分で自分のことを「ホモ」と言うことには何の問題もありません。しかし、あの広告は、店に訪れる不特定多数を対象にしたものであり、確実に他者とその行為を「ホモ」と決めつけてしまっていました。

ゲイの人だけではなく、皆を刺す広告

ホモチョコという広告に、刺されるのは、ゲイの人々だけでしょうか。私はそうは思いません。きっとゲイの人々以外にも刺された人がいるはずです。

ゲイの人々以外も刺す、無神経な広告

この「ホモチョコ」の広告はゲイの人にとって、ひどいものであることは言うまでもありません。真剣な想いを「ホモ」と揶揄される。そんなことは勿論許されないことです。

ですが、この広告が刺して、傷つけていくのはゲイの人だけではありません。自身のセクシュアリティに悩んでいる人にとっても、つらい広告になります。

この広告は、男が男にチョコレートをあげることは揶揄されて当然の行為だ、というメッセージ性を持ってしまっているからです。そんな広告が、街に堂々と出ていることそのものが、セクシュアリティを模索している人々も傷つけるのです。

誰が誰にチョコをあげたっていいはず

バレンタインデーといえば、日本では女性が男性にチョコレートを渡すものという認識が強いです。でも、その認識ももう変わるべきときなのではないでしょうか。

「好きな人にチョコをあげる日」という認識ではいけないのでしょうか。そうやってバレンタインデーを捉え直していく必要があります。

誰が誰にチョコをあげたって、揶揄されない世界になるべきなのです。

腐女子文化に染まりきっていた私

私が今回の「ホモチョコ」広告を語るにあたって、避けて通れない事実があります。その一つは、かつて自分が外でもどこでも「ホモ」と連呼する、結構迷惑な腐女子だったことです。

「ホモ」を楽しんでいた過去

腐女子という単語をご存じでしょうか。

男性同士の恋愛を描いた作品を好きな女性が、自称したり他称されたりするその言葉。腐っている、なんてひどい表現ですが、かつての自分がしていたことを考えると、それも仕方ないのかもしれないと思ってしまいます。

かつての自分がしていたことというのは、男性同士の恋愛ものを「ホモ」と呼んで、それらを読むことを楽しむことでした。「良質なホモを見た」なんて感想を平気でネットの海に垂れ流していたのですから、今思い出しても、頭痛ものです。

読んでいた小説や漫画にも、男性が男性にチョコを贈ることを「ホモチョコ」と揶揄するシーンがありました。バレンタインデーに、ネットに溢れるBLの絵や漫画、小説には「ホモチョコ」という言葉が出てくるものもありました。

差別的な言葉であることをどこかの時点で確実に知っていたのに、私は男性同士のカップルを「ホモ」と呼ぶことに躊躇いがなくなっていました。

公共の場でも「ホモ」と連呼するのに躊躇いがなかった

それだけではありません。

電車やバスのなか、カフェでも「ホモ」と連呼する、かなり迷惑な腐女子でした。「ホモ」は差別用語だなんてこと、知っていたはずなのに、それでも、私自身が楽しいことが何よりも優先されてしまっていたのです。

「ホモ」と連呼する私の横を、何人の当事者が通り過ぎただろうと思うと、胸が痛みます。ただでさえ、日常で差別を受けているところに、また一つ、傷を増やしてしまった、通りすがりの私の言葉。いいえ、私の日常にも当事者がいたかもしれません。

そんなこと、思いつきもしませんでした。当事者は漫画や本のなかにしかいないと本気で思っていたのです。

男性同士の恋愛ものが好きなこと自体は、悪いことではありません。しかし、差別用語を使い、平然とそれを楽しむのはよくないことです。

自分がマイノリティと気づいて

自分がセクシュアルマイノリティだと気づいてからも、「ホモ」と呼ぶのをなかなかやめられませんでした。その言葉が、身にしみついてしまっていたのです。

BLなど、もっとやわらかな言葉はあったはずなのに、「ホモ」と連呼するのをやめるまでに数年を要しました。恥ずかしい話です。

他人のセクシュアリティをネタにすることで、普通を装い、自分を守っていた部分もありました。ひどいことをしてきたなと反省しています。

負の連鎖はもうやめにしよう

先に述べたように、私は腐女子文化に染まりきっていただけではなく、他人のセクシュアリティをネタにすることで身を守ってさえいたのです。決して許されることではなく、悲しいことでもありました。

あの広告は “そういう空気” を作ってしまう

あの広告は、マイノリティかもしれない自分の身を守るためには、他人のセクシュアリティをネタにし、揶揄することが“必要”かのように思わせます。「ホモ」であることを明らかにしてはいけないというだけではりません。普通を装い身を守るためには、「ホモ」を馬鹿にし、揶揄していくことが“必要”かのように思わせるのです。

「ホモチョコ」の笑いにのって、他人を馬鹿にしておくことで、自分はマイノリティじゃないと証明し続ける。そんな悲しいことをする人が出てきてしまうことを、私は知っています。

そして、それはその人だけでなく、その人の近くにいる当事者を傷つけるのです。

あの広告に、NOと言おう

私たちには何ができるでしょうか。あの広告は既に世に出てしまっています。

あの広告を書いた人がいて、それにOKを出した上の人がいて、それを出し続ける販売店があります。既に当事者やセクシュアリティを模索している人を傷つけていることでしょう。そういった意味では、あの広告が世に出た時点で、誰かが傷つくことは確定しており、今から何か言ってもその事実は取り消せません。

でも、これから私たちが「あの広告はおかしいよね」と言い続けることはできます。あの広告を当たり前ではなく、時代にそぐわない、遅れたものとして扱うこともできるのです。

広告そのものを出した会社に抗議のメールを送ることも一つの手ですが、それだけではなく、こうして、「おかしい」と言い続けることや、あの広告のついた商品を買わないことも、抗議の一つです。私たちはあの広告にNOと言うべきなのです。

あの広告を受け入れるか否かは、「ホモチョコ」とゲイのカップルの真剣な思いを揶揄することを許すかどうかの問いになります。今ここであの広告を許してしまったら、広告だけでなく、それを許す空気を見てしまった人々がさらにマイノリティの人々を傷つけるという負の連鎖が止まらなくなってしまいます。

だからこそ、あの広告は時代にそぐわない、間違った広告として処理される必要があるのです。

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