突然ですが、性別って何でしょうか。なぜ生き物には性別なんてものがあるのでしょうか。有性生殖のため、なんていう答えも私は当然持っています。ですが、それだけが全てでしょうか。人間の性別は、生殖の意味だけのものなのでしょうか。性別には、それ以外の意味も今の社会のなかでつけられてしまっているように思えます。今回は性別について、考えていきます。
01女性に丸をつけるのに苦はないけれど
お店でのアンケートや契約、その他の書類で私たちは思った以上に性別を問われています。性別って、そんなに大事なのかなと疑問に思うこともあります。何か個人情報を記入するとき、大抵聞かれる性別。
男か女か、の二択から三択へ
その二択に苦もなく答えられる人間ですが、私の場合それは身体の性別を答えているからでしょう。でも最近になって時代が進むにつれ、二択ではなく、三択のものが増えてきました。就活でも三択の性別欄を用意する企業を見かけました。
その三択とは男性、女性、その他です。その他という選択肢を初めて見たとき、私は「性別:その他って何だろう」と思いました。男性でも女性でもない人間とは、どういう状態を指すのか、全く想像がつかなかったからです。多くの場合、性決定は性染色体がしてくれると思っていたからです。
女性と区分されるのに異論はない
小さな頃から、親や先生などから女の子に分けられ、女子トイレを何の違和感もなく使い、女の子として育てられてきたので、「私の身体は女性なのだから」と女性扱いされることに、何も異論はありませんでした。ただ、女性だからと、しとやかなふるまいを求められることには窮屈さを感じていました。
特に学校という場所は思った以上に、人間には男と女の性のみであるという性別二元論に支配されていて、身体の性別に全てをもっていかれていると言っても過言ではありません。制服、整列の際 、トイレ、人間関係など、たくさんのものが性別二元論に基づいて構成されます。そこには「性別:その他」の人間は存在することすらできません。
その状態に、私は疑問をもつことなく、学生時代を終えましたが、今振り返るととても偏った場所だったと感じます。
学校では、「女性」をわかりやすく定義するという国語の課題で、「男でないもの」という正解が与えられたことがあります。染色体がどうのこうの、力の差がどうのこうの、と知恵を絞った私たちは、どんな顔をすればいいのかわかりませんでした。
そもそも、男性とは、女性とは、何なのでしょうか。
違和感というほどのものではないけれど
違和感と言い切るにはふわふわし過ぎたものですが、私は時々、女性でないものになりたかったのです。なぜなら男性は、私より自由そうに見えたからです。
足を広げて座ることも、乱暴な言葉遣いも、スカートを気にすることなく動き回れることも、何かいいな、と思っていたのです。私は女性だから、それが許されない。それが何だか、とても不自由で窮屈に思えたのです。
性別は、服が決めるの?
制服。それはわかりやすく性別で人を分けました。小学生の頃、パンツスタイルを多く好んだ私にも中学校入学と同時に制服は、女子用制服の名のもとにセーラー服を着せてきたのです。その頃に思ったのは、スカートは冬に寒くて嫌だなということでした。スカートであることで生理痛も増しているように思えました。
制服はわかりやすく人を性別で分ける
それでも、女子が制服でスカートを履くのは当たり前のことだ、という価値観に囲まれていたため、違和感というほどのものにはなりませんでした。女子用スラックスがある高校をいいな、と思ったけれど、結局そこを受けはしない。制服でスラックスを履けるかどうか、私には 優先順位の低いことだったのです。
パンツスタイルを選択する女性は異端ですか
やがて就活の時期にさしかかり、スーツを着ることになりました。そのとき、私が思ったのは、「スカートではなく、パンツスタイルで行きたいな」ということでした。私はもともとアルビノゆえに見た目が特徴的なので、その会社に入って働き続けるとして、自分が負担なくやっていける格好で就活したいと考えたのです。
それがミルクティーブラウンの地毛を黒く染めないことであり、スカートを履かないことでした。就職して毎日スーツを着て出勤するのも、かなり疲れるのだろうなと思いましたが、アルバイトの経験からそのスーツがスカートではなくパンツスタイルなら少し楽かなと思ったのです。
女性と扱われることというより、女性の装いを要求されることが苦痛だったのかもしれません。メイクも面倒でした。
男性にも女性にもなりたくない
女性の装いを要求されることが苦痛でも、私は男性になりたいわけではありません・・・・・・。
どちらの性でもない自分になりたい
男性の格好良さにあこがれて、そういう風になりたいと思うことも、あります。けれど、例えば男性器が欲しいと思ったことは一度もありません。
恒常的に男性になりたいか、と問われれ ば違います。男性でいたいときも女性でいたいときも、そのどちらでもなくありたいときもあるのです。
私の性は揺れ動いているのです。
でも女性だからと配慮されることを手放したくない
しかしわがままな話ですが、女性だからと配慮されることも手放したくありません。例えば、重いものをもつときに、「女性だから」と免除してもらえること、体力のいる仕事を免除されること。
それらを手放したくはありません。なぜなら、私が男性と見られたくても、女性と見られたくてもどちらとも見られたくなくても、私の身体は小さく、男性にはかなわない弱いものなのを認めているからです。
身体的なハンディに対する配慮は、心の性別にかかわらず 必要だと思います。
トランスジェンダーという言葉に安堵した
トランスジェンダーとは、「自分自身にとって心地よい性別を手に入れたいと望んでいる人、あるいは実際に何らかのやり方でそれを手に入れた人の総称」(『はじめてのジェンダー論』、加藤秀一著、有斐閣ストゥディア)です。
身体の性は女性であるが、男性になりたい人をFTM、身体の性は男性であるが、女性になりたい人をMTF、身体の性はそれぞれにあるが、男性にも女性にもなりたくないという人をFTX、MTXと呼びます。
トランスジェンダーについて知る
私の「男性にも女性にもなりたくないというもやもやした何か」には、名前がついていたんだ、と心から安堵しました。私一人がおかしなことを考えていたわけではなかったのです。おかしくなんてなかったのです。
私だけじゃなかった。私が一人変なわけでは、全然なかった。
私はおかしなことを考えて、変なことを気にしていたわけでは、なかった。
性別についてどうしてそういう風に感じるのかはわからないままでしたが、性別というものに納得しきれない人が他にもいることを知り、私は安堵しました。
それは、私に確実に安心を与えたのです。
心に性別はあるのか
トランスジェンダーという言葉を知って安堵した私ですが、一つ考えていることがあります。それは、そもそも心に性別はあるのか、ということです。男だからこうすべき、女だからこうすべき、という社会からの要請があるから、社会的な意味での性別は規定されているのかもしれないと思うようになったのです。
社会からの要請がなかったら、性別は背が高いか低いか、とそう変わらない身体の一つの特徴になるのではないでしょうか。社会が女はしとやかであるべきだとか、男は凛々しくあるべきだとか、規範を押しつけるから性別に社会的な意味が生じてしまっているのではないでしょうか。
心は、本当に性別をもっているのでしょうか。
トランスジェンダーのなかでもFTXに分類される私は、心に性別がないように思います。それはFTXだからなのか、そもそも人の心に性別なんて色はついていないのか、私にはまだわかりません。
理想は揺れ動く
私は男性になりたいと思ったことはありません。男性を自由でいいなと思うことも、女性としていることを得だなと思うこともあります。女性であることをよかった、と思うことも嫌だなと思うこともあります。ただ、 手術や注射をすることで、身体の性別を変えたいとは思いません。
いいえ、今の技術では私の望むものは手に入らないのです。私がなりたいのは、男性でも女性でもなく、中性でもなく、無性です。
男性器も女性器もなく、生殖機能をもたず、男性ほど力強くもなく、女性ほどは力が弱くない。そんな風に男女の間にふわふわと漂うものになりたいのです。
今の技術ではできませんが 、いずれ無性になれるときが来たら治療を受けるのか。それは今の私には答えられません。そのときのお金の持ち合わせにもよるでしょうし、女子用スラックスのある高校を選ばなかったときのように、他に優先したいものがあるかもしれません。
私は今まで通り、性別欄では女性に丸をつけるでしょう。しかし、トランスジェンダーとはあまり名乗らないかもしれません。
名乗りたいと思ったらそう名乗るかもしれません。でも、今の私は女性として扱われることに納得しきれてはいないけれど、女子トイレを使用することが苦痛などといった差し迫っ た問題があるわけではありません。仕事でもプライベートでも、女子トイレを利用することや レディースデーの割引を受けることは つらくはありません。
ただ、100%女性、と扱われることに何だかもやっとしてしまうのです。
男装して街を歩いてみたい
今、このNOISE記事を 書いていて、女性として他人に見られることばかりではなく、男性として、他人に見られることも経験してみたいと感じました。そう、男装です。
一般的に見て、私は、男装には向かない、小さな女性の身体だと思います。ですが、男性を装うことによって、浴びる視線は確実に変わります。そのいつもとは違う視線を浴びたら、何かが変わるのではないかと考えています。