02 待望の長女として生まれて
03 心の中がずっとザワザワしていた
04 初めての彼女と、家族のこと
05 女性になろうとした短大時代
==================(後編)========================
06 ついに限界が来て、親友にカミングアウト
07 24歳、止まっていた時計が動き出す
08 ロードムービーのようなワーホリ・デイズ
09 そして、男になる
10 LGBTは自分のなかの、ごく一部に過ぎない
01ライフスタイルアドバイザー、小川瑛人
やっぱり戸籍も変えていきたい
現在は、フリーランスのライフスタイルアドバイザー。
個人事業主として、2016年12月に起業したばかりだ。
男性として生きていくことを選んでから、5年が経った。
それまでは、自分がほんとうにしたいことに、向き合えずにいた。
しかし、今は違う。とにかく、真剣だ。
手探りでライフスタイルアドバイザーとしての経験を積みながら、オーストラリアで習得した英会話を活かし、大手外資系ホテルのスポーツクラブでアテンダーもしている。
しかし軸足は、前者に移しつつある。
「やっぱり本当に自分がしたいことに時間を費やしたいんです。それに、戸籍を変えるためでもありますね」
ホルモンバランスの乱れに悩まされて
乳房切除の手術は、2013年10月に済ませた。
「正直、戸籍変更はもう必要ないか、と思っていました」
「でも最近、自分の身体のことだし、やっぱり健康が一番大事と思うようになって。実は僕、ホルモン治療から2年経ったあとでも生理が来たりしてたんですよ」
やはり、性別適合手術(SRS)のことが、頭をよぎる。
「ホルモン注射のタイミングがずれると、ホルモンバランスが崩れてしまう。それがすごい嫌だし、すごいストレスになる」
「SRSをするのかしないのか、正直どっちがいいかまだわからないんですけど、とりあえず今は、お金を貯めてSRSやって、というふうに考え始めているんです」
02待望の長女として生まれて
明るくて活発な小学生時代
4人きょうだいの3番目、長女として生まれた。
「幼稚園のときから僕、目で追ってしまうのが女の子ばかりやったし、可愛いなと思う子も女の子ばかりやった(笑)」
小学校に行くときは、ふだんからずっとTシャツとズボンを着ていた。
しかし上が兄ふたりだったから、両親にとっては「待望の女の子」。
「親も女の子っぽいものをやらせたかったんでしょうね、ピアノを習っていたんです。で、発表会のときだけお母さんに『お願いやから、このスカートはいて』って言われて、白いタイツとスカート渡されて」
「うわーって思ったし、僕『こんなん、嫌やわ』って言って抵抗しました。それが小学校低学年のころ」
「そしたら『仕方ないな』っておかあさんに最後に渡されたのが、青色のキュロット(笑)」
このときは母の願いを受けキュロットをはき、精一杯の譲歩をした。
しかし翌年からはもう、母のお願いを拒絶するようになる。
「学校では、明るくて活発、スポーツが好きで、よく遊ぶ子だと言われていましたね」
「もちろんリカちゃん人形を持っていた覚えはなく、家では兄とテレビゲームやミニ四駆で遊んでました。どうやったら速くなるかとか、考えてましたね」
胸を叩いても、つぶれへんし
でも、屈託なく過ごしていたのは、小学校低学年までだ。
小学校高学年になると、第二次性徴が訪れる。
嫌で嫌で仕方がなかった。
「5年生くらいでしたかね。胸が最初にふくらんできて、すごい嫌だった。自然学校とかあるでしょ、そのときのお風呂の時間も、他の子とずらしたかった」
身体の変化には、違和感しか感じなかった。
「校舎の裏で、ひとり自分の胸を叩いてました。もう、つぶしたくて」
校舎の裏に行けば、誰も見てないだろう。しかもボール除けの緑のネットが張られたところなら隠れられる。
そう考えたのだ。
でも、今になって思えば、その場所は誰からも丸見えだったらしい。
「はたからみたら、あれ、ゴリラやんって(笑)。どこも隠れていないのにネットの後ろで隠れている気持ち」
「胸も引っ込むと思ってた。でも、いくら叩いても胸はつぶれへんし、そのころから姿勢も悪くなってしまった」
屈託のない子ども時代が、終わりを告げようとしていた。
03心の中がずっとザワザワしていた
制服のスカートが嫌だった
地元の中学校に進学する。
そこには、制服のスカートが待ち構えていた。もちろん嫌だった。
「仕方ない、って感じでしたね」
諦めの胸中で、スカートをはくしか選択肢はなかった。
「ずっとボーイッシュだったから、友だちからは『小川さんのスカート姿見られるのは楽しみやわ』と言われたりして、そのことがすごい嫌やな〜、とも思ったけどみんな一緒やから逆に大丈夫か、と思って」
「まあスカートをはいたりもしてたんですけど。でも心の中は、ずっとザワザワしていましたね」
それでも、自分のことを「性同一性障害だ」と明確に意識するのは、まだ何年も先、短大を卒業してからのことになる。
バスケのボーイッシュなところが好き
子どもの頃からスポーツが得意だ。小学生のときは陸上部で活躍、マラソンでは市内外のいろいろな大会にも出場した。
だから中学校でも、部活は迷わずスポーツを選んだ。
バスケ部だった。
「中学生になってバスケを始めて。バスケの格好ってボーイッシュじゃないですか。それがすごく自分にあっているというか、それが一番心地いいと思って」
自分が一番、自分らしくいられたのが、バスケ部だったのだ。
「制服も嫌だったんですけど、授業も嫌だった。だから、部活の時間は解放というか、発散されてましたね」
自分は「それじゃない」と言い聞かせて
「性同一性障害については、自分でもよくわからなかったので、そういうのは深く考えませんでした」
「ただ、やっぱり性指向というか、自分が見てしまうのは、女の子が多かったですね。保育園のころから(笑)」
自分は人と何か違うのではないか。
自分の性のことについて、なんとなく感じ始めていた。
しかし当時は、それを直視することが怖かった。
「パソコンが家に1台あったんですけど、検索したくても履歴に残るのがものすごく怖くて。自分のなかでも、性同一性障害だなんて思い違いだ、って言い聞かせていたような感じでした」
心のなかのザワザワは止むどころか、次第に大きな音になってゆく。
04初めての彼女と、家族のこと
愛情表現はストイックに
高校時代も、ルックスは颯爽とボーイッシュ。
バスケ部に入部してほどなく、初めての “彼女” ができた。
お互いに気があると、すぐに察知し合えた。セクシュアリティのモヤモヤを告げることはなく、ただ、その子のことが好きだった。
「お付き合いすることになったんですけど、周りからすると、すごく仲良くしてるなって見えたと思います」
しかし彼女のことを思うと、心の中に激しい葛藤が渦巻いた。
「この先も自分がこのままだったら、この子のことを傷つけてしまう。この先はないんや、と自分で思い込んでいました」
「どうせいつかは別れるんやな、って思うとそれだけで苦しくて辛くて、でも誰にも言えなくて・・・・・・」
まだ、性同一性障害のことを詳しく知らなかった。
自分らしく生きていける方策を、なんら知らなかったのだ。
思いをひたむきに突き詰めると、答えは自ずとストイックになってしまう。
「あのころの僕はかなり浮き沈みがあった。考え始めたらそれが態度に出てしまい、彼女を傷つけてしまったんです」
彼女とは、少しずつうまくいかなくなった。
「辛かったですね、周りに話せないし。でも、明らかに気づいてしまった。自分がなにか、ほかの人とは違うってことに」
そのあとも数人の女の子とつき合ってみたが、同じことの繰り返しだった。
「でも、自分のことをレズビアンだとは思っていませんでした。なぜなら自分は男だという認識があったから」
心の奥底では「自分は男なんだ」と自覚し始めていた。
お母さんと、2人のお父さん
父親は2人いる。ひとりは血のつながったお父さん。
もうひとりは、お母さんの再婚相手であるお父さんだ。
「一番目のお父さんも二番目のお父さんも大好き。血のつながりとか、そんなん関係なくどっちも大好き。2人とも本当に優しいんです」
現在は、一番目のお父さんと一緒に暮らしている。
2番目のお父さんは、昨年の秋に急逝してしまった。
「急なことだったので、残念でしょうがない。だから余計に、今のお父さんに恩返しがしたい、という気持ちがあふれるようになったんです」
母親は、『女子』だと思う。
「今思えば、お母さんは『ザ・女子』です(笑)。けっこう強い母なんですけど、いつまでも美を求めているような。着物が好きで、着付け教室を開きたいって言っていたし」
「しつけも厳しくて『女の子らしく』っていうのはけっこう言われました。でも、自分のなかでストレスになるほどではなかったです」
多感な時期に両親が離婚したが、それが原因で心が塞ぐようなことは決してなかった。
親がそれぞれ幸せならそれでいい。
そういう思いで、お父さんとお母さんを見つめてきた。
05女性になろうとした短大時代
本当の自分を隠すためにする女装
高校卒業後は、自宅から近い短大に進学する。
「バスケに打ち込んでいたので指定校推薦。10月には決まっていました」
バスケのトレーナーになりたい、体育系の大学に進学したいという思いもあったが、積極的にはなれなかった。家から近いこともあり推薦で短大に決めた。
専攻は人間健康学の食コースだ。高校時代から続けていた、たこ焼き屋さんでのアルバイト経験も、背中を押した。
「何も固まってなくて、将来どうしたいかもぜんぜん見えてなくて」
それでも短大の2年間は、ある種のチャレンジそのもの。
なぜなら、女子として生きてみよう、と思い、それを実践したからだ。
小学生時代からの大親友2人とも、進路が別々になることがひとつのきっかけだった。
それなら、一度リセットしてみよう。
ちゃんと女の子として生きよう。本当の自分は隠そう。
そう決めたのだ。
「この2年間が、自分史上一番、女の子でした(笑)。髪の毛も伸ばしましたし、化粧もしましたし、まつげエクステもしましたし、スカートもはきました」
女子大生ファッションを選んでくれたのは、女の子らしい服装が好きな大親友の2人だった。
「なにを選んでいいか僕はわからないから、一緒に買い物行って選んでもらったんです。ブリブリな下着を選んでくれましたよ(笑)」
「今となってはただのネタですけど、それで隠せるんならと必死。あれは洋服って言うより、衣装でしたね」
本当の自分を隠そう、隠そう、とばかり考えていた。
「ボーイッシュな格好をしていたらバレてしまう、と思っていたから、隠すことしかフォーカスしていなかったんです」
「バレるって言葉をつかうくらいだから、カミングアウトするつもりも全然なくて、隠して生きようと決めていました」
あの頃は、あえて女子っぽく振る舞う選択肢しかなかった。
「・・・・・・でもそれでは、精神的にはズタズタですよね」
不本意な自分として生きることは、とても辛かった。
大好きなおばあちゃんに会いにいくと「女の子らしくなったなあ」とうれしそうに迎えてくれた。
「だけど心の中ではグサグサきました。だから余計に誰にも言えない・・・・・・」
女の子のフリをして生活するあいだ、男性との交際にも挑戦した。
相手の性格もよかったし、好きになれるかな、とも思った。
「でもやっぱ無理なんですよ。告白されるまではふつうに友だちだったのに、 “彼女”として接してこられることがすごい嫌で、早々に別れました」
恋人として男性と親しくなることは、違和感でしかなかった。
それからは授業が終わると、すぐ帰宅。
短大の2年間は、そんな日々を送っていた。
「大学用の “衣装” を脱ぎ捨てて、すぐバスケの格好に着替えたら、あとはコタツでぐうたら(笑)」
もちろん女性を好きになることは、封印していた。
それでも好きになってしまうのだから、辛かった。
そんな自分を、思わず重ね合わせて見ていたのが、2008年に放映されたテレビドラマ『ラスト・フレンズ』だ。
「僕らの時代は、『金八先生』も観てたんですけど、『ラスト・フレンズ』の瑠可(ルカ)がドンピシャなんです。あれはかぶりましたね」
上野樹里さんが演じた岸本瑠可は、外見や性別で判断されることを嫌うモトクロス選手。
性同一性障害を誰にも相談できずに抱えており、同級生の女の子に恋心を抱くという設定だ。
自分を投影し、共感できる対象があることは、心の支えになった。
ドラマのモチーフになるほど、性同一性障害は広く認知されつつあった。
<<<後編 2017/05/10/Wed>>>
INDEX
06 ついに限界が来て、親友にカミングアウト
07 24歳、止まっていた時計が動き出す
08 ロードムービーのようなワーホリ・デイズ
09 そして、男になる
10 LGBTは自分のなかの、ごく一部に過ぎない