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Writer/古怒田望人

セクマイが被写体となる時 ―被写体としての写真への小論―

「歴史」という言葉は、フランス語で「物語」も意味します。回顧的に作られる歴史はどれだけ物理的な証拠のようなものがあっても、完全に客観的なものではなく、一つの「ストーリー」です。でも、だからこそ、歴史を絶えず繰り返し語ることは、その意味を変化させ、時には社会への批判に、時には人生の肯定に繋がります。

これからお話しする僕の歴史=人生も一つの「ストーリー」です。しかし全ての歴史が物語であるならば、僕のちっぽけな歴史=人生もあなたに何かを伝えるものなのです。
今回は僕の「見た目」の歴史=人生と写真との関係をお話ししたいと思います。

醜形恐怖

皆さんは、「醜形恐怖」という言葉をご存知でしょうか。理由はそれぞれですが、自分の姿形を「醜い」と感じ、写真を撮られることを極度に嫌がったり、鏡で自分の顔を直視できなくなったりすることです。

この醜形恐怖は、トランスジェンダーの医学名である性別違和のサブカテゴリーに含まれています。トランスに限らず、セクマイは「見た目」への何らかのコンプレックスを抱えていると、しばしば感じることがあります。以下では、僕の「醜形恐怖」についてお話ししたいと思います。

「ブタ」「ばい菌」

小学校に入りたての頃、僕はよく女の子に間違われました。確かに、サッカーをしていた僕は髪を長く伸ばし小柄で華奢だったので、元気で小さな女の子のようでした。僕はあまり記憶がありませんが、いつもクラスの中心にいたようです。

それから月日が流れ、小学校3年生くらいの運動会の時、祖母がふと母に「あれ、望人、なんだかとってもぽっちゃりしたみたい」と言葉に漏らしたそうです。結局、学習障害や集団生活が苦手ということからくるストレスが理由でしたが、僕は見る間に太っていきました。

そんな僕の「見た目」は、格好の「いじめ」の的です。僕は小食なのですが「ブタなんだからもっと食えよ」と言われたり、異性からは「ばい菌が移るから触らないで!」と言われたりしました。

よく覚えているのは掃除の時間。僕はなぜか何度もトイレ掃除の担当でした。だいたい小学生は掃除の時間が嫌いです。ある時、トイレ掃除ではなく、階段の雑巾がけを僕は一人でしていました。すると、頭が急にひんやりと。濡れた雑巾でした。見上げると、掃除をさぼっている同級生たちが、やってやったとばかりに笑っていました。

偽りの「笑顔」

学習障害がある僕の通信簿はいつも悪かったですが、たいてい「望人さんは笑顔が絶えません」と教師からのコメントが。クラスの人気者ランキングでも「あちゃちゃ(僕の当時のあだ名)はいつもみんなを笑わせてくれる!」と、書かれていました。小学生の頃の僕の写真は、いつも笑顔でいっぱいでした。

正直、そうしないとやっていられませんでした。頭も良くない、運動もできない、周りからはいじめられる。孤高になれるほど僕には勇気もありませんでした。だから、何かと冗談を言ったり、自分の体形を笑いものにしたりしてやり過ごしていたのです。その時は演じてクラスの中心にいました。

でも、そんな「コメディー」は長くは続きません。僕は日曜日が終わりに差し掛かると、泣いて学校に行きたくない行きたくないとわめき、どんどんと登校数は減っていきました。

醜形恐怖と感情

中学に入ると殆ど不登校になりました。夜までテレビを観て、ゲームをし、漫画を読む・・・。そんな孤独な生活を送っていたら、自分が「醜い」ということがどんどんと迫ってくるようになりました。通信制の高校に入り、時たまキャンパス校に出向く時には、いつもマスクをしていました。もうすっかり僕は痩せていたのにです。

アウトローの嬉しさと悲しさ

トランスジェンダー女性で研究者、活動家のケイト・ボーンスタインは『ジェンダー・アウトロー』(邦題『隠されたジェンダー』))のなかで、彼女が少年だった時、サーカスの幕間で巨大な「オラフ」が指輪を売っており、オラフはボーンスタインに近づき、互いに微笑みながら、指輪をくれたという話をしています(Bornstein, 1994)。そして、「カイブツたち(freaks)はいつもお互いを好むことを知っている」(同)と。

ボーンスタインのように醜形恐怖を持ち続けながらも、僕はアウトローな存在と出会うことで少し自己肯定感を取り戻すと同時に、真っ逆さまに落ちていく経験をします。

アウトローのやさしさ

僕の通信制高校は年に一回、スクーリングで屋久島の本校まで行くのが決まり。そこで一週間ほど、全国各地のキャンパスから集まった人たちと共同生活を送ります。僕の高校は大半が僕のような何かを抱えて不登校になった子たちか、いわゆるヤンキーたちでした。醜形恐怖を抱えていた僕はただでさえ集団が苦手なのに、一週間もそこで生活をするなんて、と最初は不安しかありませんでした。

色々と面白い話はあるのですが、アウティングにならないよう二つだけ。ずっとマスクをしている僕に、ヤンキーの子が「なんでいつもマスクなんだよ。とれよ」と言ってきて、おっかなびっくり取ったら、「マスクないほうがいいぜ」と言ってくれました。それから僕はマスクを顎下に着けて顔は見せるようにしていました。

もう一つは、本当に当時はガリガリで、また別のヤンキーの子が体育の時間が終わった後に、「なぁ、そんな身体じゃ疲れるだろ」と言って、僕をお姫様抱っこして次の教室まで連れて行ってくれました。そうしたら、力自慢なのか何なのか知りませんが、こぞって皆が僕をお姫様抱っこして連れて行ってくれました。

皆、僕と同じで色々ある子でした。でも、アウトローたちは僕が醜いと思っていたこの顔や身体を何の差しさわりもなく、受け入れてくれたのです。

コンプレックスに踊らされる

しかし、僕にはどうも恋愛をすることへの抵抗感というか、「僕が異性に近づいたら、また『ばい菌』のように扱われるのではないか」という恐怖心があったようです。ですので、大学に進学してからも異性には近寄れず、ずっと男友達といるか、勉強にのめり込むようにしていました。僕はゲイ寄りのバイという感覚はあったので、男友達に恋心を抱いたこともありましたが、何も告げず、学部を卒業して彼と毎日は会えないと分かると一日おいおい泣いていました。

院に進み、ネットで知り合った女性と恋に落ちました。でも、僕は「男性として扱われることに性別違和を感じる」と分かり、別れ、女装を始めました。時々言いますが、「女装」は「動詞」です。僕のいた、女装界隈では「女装子(じょそこ)」と呼んでいました。女装子になったのはいいけれど、自分への自信は持てませんでした。今になってそれは「シングルマザーで父親が殆どいなかったから、その代わりを求める」幻想だと分かりましたが、僕を求める男性を受け入れることで、何とか自己肯定感を上げようとしていました。でも、やっぱりそんなのもあの「笑顔」と同じで、心がすり減らされるだけでした。挙句の果てに僕は、自殺未遂をしました。やっぱり、その時期の写真は殆どありません。

自分に迷う

それでも僕の活動を支え、結婚までしてくれたパートナーがいました。確かに、その時は僕の写真が、少しはにかんだ写真もあります。あるLGBTのイベントでパートナーと演説をすることとなり、有名なトランス女性と記念撮影をさせて頂きました。ですが、記念撮影をした時の自分をみて、「僕は何のために写真を撮ってもらったのだろう」と悩みました。被写体になることって、しかもセクマイでまだまだコンプレックスの塊の僕が被写体になることって、いったい何なのか、と。ジェンダー・アウトローの悲しさが急にこみ上げてきました。一日泣いた日、自殺未遂をした日と同じように。

いりやの時間――ファインダーが描くもの

マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」という有名な言葉を残しています。彼の言いたいことは、言葉や何かを伝えるメディア=媒体が変わることで、その伝えられるものの意味も変化するということです。例えば、コピーという技術が生まれたことで書籍や絵画は、一部の特権階級だけにしか享受できないものではなくなり、生活の一部に変化しました。では、写真はどうなのでしょう。最後に、セクマイの被写体としての僕なりのささやかな写真論をお話ししたいと思います。

モデルはセッション

僕が結局離婚して、少し経った後、ジュエリーモデルのお仕事を頂きました(今思えばとてもすごいカメラマンさんとヘアメイクさんにやっていただいてとても恐縮なのですが)。午前中からスタジオ入りしてヘアメイク、それから室内外での撮影でほぼ丸一日かかりました。とっても疲れました。ですが、偽りの笑顔の時とも、記念撮影とも全く違った経験をすることができました。

今は、ヘアメイクは自分でしていますが、カメラマンさんのそれぞれ異なったポージングや表情への指示があります。その指示の意味を僕は「即座」に答えなければなりません。というのも、カメラマンさんの欲望は、被写体がどんなものであれその魅力が一番現れる「瞬間」を狙う極めて繊細なものだからです。僕があたふたしたり、うまくいかないとシャッターが押されなかったり、よい写真にはなりません。これは、ある意味でJazzのような即興で行う音楽のセッションに似ています。その場の雰囲気、自分のリズム、ベースやピアニストのテンポの上げ方、それらが渾然一体となって初めてJazzのセッションは良いものになります。写真の場合も、その時のファッション、メイクや気持ち、天候、そしてカメラマンさんの欲望等がうまくセッションされることで魅力的な写真が出来上がります。

作品としての自己

僕が初めてしたモデルの完成した写真を見た時、僕はこれまでとは違って自分の写真を直視することができました。それはなぜなのでしょうか。一つには、そこに映し出されているのは、コンプレックスの塊であるセクマイではなく、「一つの作品」だからなのだと思います。それはある意味で「自己という他者」と呼べるまでに客観化された僕で、「ブタ」、「ばい菌」という文脈からも、性のコンプレックスという文脈からも解き放たれた僕であり、それは「まだ汚れていないカイブツ」(トルーマン・カポーティ)と呼べるようなものでした。
「いりやちゃん(僕のもう一つの名前)の写真にはあんまり笑顔がないね」、と言われたことがあります。でも、それこそが僕、あの偽りの笑顔などない、僕なのです。

いりやの時間

最近、自分でカフェをやることになった時、「いりやの時間」と名前を付けました。それは一つには『イブの時間』(2010)という映画が、ロボットを人間扱いしてはいけない社会で、イブの時間というカフェでは自由にロボットと触れ合う世界を描いているからです。そこで、僕もどんな性も差別されないカフェができればと。
でもそれ以上に「時間」という言葉にこだわったのはフランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナスが『時間と他者』(1948)の中で「私は未来から他者を定義するのではなく、他者から未来を定義する」と述べていたからです。

ファインダーを通して創られる「僕という作品」、それは他者とのセッションを通して作られ、僕の体形や性のコンプレックスに抑圧された時間を、僕が引き受けることのできる時間に変えてくれました。セクマイが被写体となる時、そして素敵なセッションがそこで生まれた時、何かしら抑圧された過去を持つセクマイは自らの時間を取り戻すのだと感じます(『イブの時間』を思い出さてくれたイブさんに感謝を。イブさんもセッションの一部です)。
ところで、僕の写真を見た方が「バケモノ」と形容されたことがありました。でも、その時、僕は心から笑えました。なぜなら、人は自分の「普通=規範」が壊されると感じた時、他者を差別するからです。僕は、雑巾を頭に置かれる存在から、写真を通して、人の性の「普通=規範」を揺さぶることのできる存在になったのです。

僕は被写体となったことで時間を取り戻しました。こんな赤裸々な文章=物語を書くことができるのもまた、ファインダーが創り出した「いりやの時間」のおかげです。ただ、時間=物語はまだまだ続きます。「バケモノ=カイブツ」としての僕はひとまず「怪獣のバラード」をバックミュージックに被写体を続けます。この時間=物語がまた落ちていくのか、はたまた全く違った時間=物語になるのか、それもまたファインダーとのセッション次第なのでしょう。そして、僕の写真を見たあなたとのセッション次第なのでしょう。

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