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Writer/酉野たまご

大学の演劇サークルで遭遇した、LGBT当事者としての窮屈さ

たった数年前のことでも、振り返ると、世間一般のLGBTへの認識の違いに改めて驚かされる。今でも差別的な意見を目にするけれど、自分が学生だった頃は、今以上に息苦しい思いをする場面が多かった。ここ数十年はおそらく、LGBTが当たり前のものとして受け入れられていく時代までの、過渡期なのだろうと思う。

同性愛者であることは、個性として受け入れられるのか?

個性が尊重されていた大学時代のサークル

私は大学生の頃、演劇系のサークルに所属していた。

タテのつながりだけでなくヨコのつながりも多いサークルで、学年や大学の垣根を超えてさまざまな人と出会うことができ、創作活動や交流の中でたくさんの刺激を受けた。

今はどうなのかわからないけれど、私が所属していた頃の演劇サークルには「自由」「奔放」「個性万歳」というイメージがあった。

授業を休んで舞台の準備をすることが推奨され、下ネタや暴言と受け取られかねない発言をすることがカッコいいと思われ、他の人とは違う部分を持っていることが重宝された。
こう言ってしまうと身もふたもないけれど、メンバーたちの常軌を逸したはじけっぷり、はみ出しっぷりを見て、大学生だった私は心底勇気づけられたのだ。

幼少期から高校まで、周囲から「変わっている」「付き合いづらい」と言われ、一人で過ごすことの多かった私にとって、油断すると自分が埋もれてしまいそうなほど個性的な人が集まるコミュニティに出会えたことは、大きな転機だった。

自分よりも変な人がたくさんいて、好きなことに没頭するのが素晴らしいことだとみんなが信じている環境。ここでなら、自分自身をさらけ出して、のびのびと過ごすことができそうだと確信した。

実際、大学のサークル活動を通して、私は自分自身の内面を受け入れ、自分の感情に素直になることを学んでいけたと思う。その点に関して、かつてのサークルの仲間には本当に恩を感じているし、感謝してもしきれない。

しかし、そんな大切な仲間であるはずの人たちから受けた差別的な発言を、私は今も忘れることができないのだ。

「同性愛者であるとカミングアウトしたい」という思いをくじかれる出来事

自分が同性愛者であると認識したばかりだった私は、大学に入学した際、自分のセクシュアリティをオープンにするかどうか迷っていた。

当時はまだ「LGBT」という概念が広まりだして間もない頃。できれば仲良くなった人にはカミングアウトしたいけれど、周囲の反応も読めないから、サークルに馴染むまではひとまず黙っていよう。

それくらいの軽い気持ちでいたものの、サークル活動の中で「やっぱり、カミングアウトはしないほうがいいかもしれない」と思ってしまう場面は何度かあった。

振り返れば、十代から二十代の学生たちの集まりだったから、考える内容も伝え方もまだみんな幼い部分があったのだ、と自分を納得させることもできる。

それでも、心を許せる相手には積極的にカミングアウトしたいと考えていた当時の私にとって、それを躊躇しなければならない場面に遭遇したことは少なからずショックだった。

大学のサークルで感じた、LGBT当事者としての窮屈さ

心を許した相手からの、心ない言葉

毎年二月から三月にかけて、サークルでは四回生の卒業公演が実施される。
公演に参加するのは、就職活動を控えた三回生を除く、一、二、四回生の有志メンバー。

大学一回生の私は、交流する機会が少なかった四回生と一緒に公演を創ってみたいと思い、迷うことなく参加を表明した。

当時の四回生は癖の強い人が多かったが、三学年も上の上級生はものすごく大人っぽく感じられて、先輩たちに食らいつきながら必死に稽古や準備を進める日々はとても充実していた。

特に、スタッフ業務で同じ部署だった先輩は明るくて優しく、私は姉のように慕っていた。自分のセクシュアリティについて先輩に話す機会はなかったけれど、「この人にならいつでも話せる」と思えるほど、心を許していた人だった。

あるとき、公演メンバーで集まって作業をしていたところ、別の先輩から「昨日夢に酉野が出てきたよ」と声をかけられた。

普段あまり話したことがなかった先輩に話を振られたことが嬉しくて、「えー、どんな夢ですか?」と聞き返すと、「私と酉野がなぜかレズビアンで、付き合うことになる夢!」と言われた。

聞いた瞬間は、そこまで親しくない先輩の夢に濃い関係性で登場してしまったことのおかしさと、「レズビアン」という単語にドキリとする気持ちが混ざりあい、「えー?」とあいまいに笑って返すことしかできなかった。

すると、隣でその話を聞いていた、私にとって姉のような存在だった先輩が「酉野ちゃんがレズビアンなんてやだー!!」と悲鳴を上げた。

びっくりして、一瞬表情が無になりそうだった。

咄嗟に気の利いた返しや面白いリアクションが思いつかず、「やだーって言われても・・・・・・」と微妙に反発するようなことをもごもごとつぶやく。

この人にならいつでもカミングアウトできる、とこちらが勝手に思っていても、想定外のアクシデントによって「言わなくてよかった」と思い直してしまうことだってあるのだ。

姉のように慕っていたはずの先輩とは、卒業公演が終わるまでずっと仲良くさせてもらったものの、私は結局その人にカミングアウトすることなく、お別れの日を迎えた。

身近にLGBT当事者がいても、偏見は存在する

当時、演劇サークルには、LGBT当事者であることを隠さない人も数名存在した。

「地元の女子高で付き合っていた彼女がいたけど、別れてきちゃった」と初対面で言い放った同期もいたし、「あの人ゲイだから」とみんなが認識している先輩もいた。

ただ、身近に当事者がいたからといって、サークルのメンバー全員がLGBTへの偏見を持っていなかったわけではないことは、前述のエピソードからもおわかりいただけるだろう。

ある夜、サークルの仲間数人で飲み会をしていて、ふいにとある先輩が「私、オカマの友達が欲しいんだよね!」と言った。

「なんで?」という声に対し、先輩は「だってなんでも話を聞いてくれそうだし、いいアドバイスくれそうじゃん!」と答えた。

周りの人たちは「あー、わかる」などと楽しそうに相槌を打っていたけれど、私は少々複雑な気持ちだった。

「オカマ」という言葉選びも引っ掛かるけれど、「聞き上手でいいアドバイスをくれそう」というゲイのイメージを一方的に押しつけるようなコメントに、素直にうなずくことができなかったのだ。

そして、その場にもう一人、複雑そうな表情をしている人がいた。
彼は私の同期で、普段から男性の先輩への憧れをよく口にしていた。
その彼が、ためらいがちに口を開く。

「実は俺、最近××先輩の顔を見ると、かっこよすぎて緊張してきちゃうんですよね・・・・・・」

ぽろりと漏らした彼の言葉に、「オカマの友達」話で盛り上がっていた先輩たちは激しく反応した。

「マジで!?」「それってゴリゴリのホモじゃん!!」と口々に叫ぶ先輩たち。

彼は「ホモじゃないですよー!」と反論しつつ、「いや、でも、これが好きっていう感情なんですかね?」と戸惑うような反応を見せた。

「じゃあさ、××先輩を抱きたいって思う?」というあけすけな質問や、「先輩が卒業しちゃう前に告白しようよ!」といった身勝手な助言が飛び交い、飲み会の場はカオスと化した。

その一部始終を見ていた私は、「この人たちの前で、うかつにカミングアウトしてはいけないのかもしれない」という思いを密かに抱いた。

サークル内で起こった、カミングアウトとアウティング

LGBT当事者であることを明かした

やがて学年が上がり、自分が上級生としてサークルを率いる立場になった。

後輩に指導をほどこすというよりは、一緒に力を合わせて課題に立ち向かうような気持ちで活動に取り組み、学年差も忘れてプライベートな話を打ち明け合うような関係性になっていった。

一人の後輩が失恋して落ち込んでいたときは、彼女を元気づけるためにみんなで飲みに行こうという話が出るほど、メンバー同士の中は深まっていた。

そして当日、サークル活動が終わって飲み会の会場へ移動する際、たまたまその後輩と私が二人きりになった。みんなの前で失恋話を披露して話し疲れたのか、「先輩は何か恋愛の話とかないんですか?」とその後輩が聞いてきた。

ちょっと迷ったものの、それまでの時間で後輩をうまく元気づけられるような言葉をかけられていなかったこともあり、笑いのネタにでもなってくれればいいなという思いで「実は私女の子が好きで、私も最近失恋したばかりなんだよね」と言ってみた。

まさかのアウティング

私の発言に、後輩は「あ、そうなんですか!」と驚いた後、「じゃあ私の同期の◯◯と付き合うのはどうですか? あの子、以前私に告白してきたから同性愛者だと思います!」と続けた。

私は束の間、言葉を失った。
「アウティングだ」という思いが、頭の中を駆け巡る。

その後輩に同期の◯◯という子が告白したという噂はサークル内でも聞いたことがなかったし、◯◯が同性愛者だという話も耳にしたことはない。

「あ、告白は断りましたけど、たぶん向こうも私のことそんなに好きじゃなかったんでいけると思います!」と謎の後押しをしてくる後輩に、何と返事をしたのかはもう覚えていない。

告白を断られた上に、信頼し合える仲間であるはずの同期からあっさりアウティングをされた後輩の◯◯氏が気の毒でならず、この話は聞かなかったことにしよう、と決意したことだけは記憶に残っている。

大学時代から現在へ―LGBTに対する認識の変化

悪い出来事ばかりじゃない、サークルのメンバーに受け入れてもらえた記憶

ここまで、大学のサークル内でLGBT当事者(特に同性愛者)への差別発言やアウティングがあったという事実について述べたけれど、一方で、やはりこのサークルを居場所と思っていいのだと思える出来事もあった。

私自身、女友達に告白して失恋し、好きな人と友達を一度に失って落ち込んでいた頃、親身になって話を聞き、相談に乗ってくれた先輩もいた。

同期のメンバーの何人かは、私が思いきってカミングアウトをした際、「言ってくれて嬉しい、ありがとう」と優しく声をかけてくれた。

LGBTに対する認識がきちんと根付いていなかったり、デリカシーのない発言をされたりというトラブルはあっても、やはり私にとって自分らしさを発揮できるコミュニティであることに変わりはなかったのだ。

メンバーの披露宴で感じた、くすぐったさと希望

サークルを卒業して数年が経ち、先輩も同期も後輩も、ほとんどの人が地元を離れて就職していった。
そして、SNSでつながっているメンバーからは、ぼちぼち結婚の報告を受けることも増えてきた。

昨年、久しぶりにメンバーの結婚式で集まった際には、参列者の大半が既婚者となっていて、時の流れを実感した。

その披露宴の最中、隣に座っていたメンバーから「指輪してるんだね」とふいに声をかけられた。
右手の薬指にはめた、パートナーとのペアリング。
その瞬間、同じテーブルについていた全員の視線が集まるのを感じた。

背中に少し緊張が走る。
「大丈夫、大学生の頃と比べてきっとみんなの認識も変わっているはず」と自分に言い聞かせながら、思いきって正直に答えてみた。

「実は、同性のパートナーとお付き合いしていて、今一緒に住んでるんです」

その場にいたメンバーは、みんな口々に「そうだったんだ、おめでとう!」と言ってくれた。
サークル時代にはカミングアウトしていなかった人が大半だったけれど、LGBTに対する偏見が薄れている気配を感じ、心の底からほっとした。

みんなからの祝福の言葉に、気恥ずかしさと嬉しさが入り混じる中、ほんの一瞬だけ大学生の頃を振り返った。

心ない言葉に落ち込んだとしても、後からこんなふうに報われることもあるのだと、大学生の頃の自分に言ってあげたいと思う。

 

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