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Writer/古怒田望人

僕はカトルマイノリティ

就活のシーズンが始まりました。ネットを見ていると、例えば、「トランスジェンダーの雇用のためのイベント」のような見出しが目に入ります。このように、生まれた時の紙面上のセックスから、学生服の種類、面接でカミングアウトをするか否か等、LGBTsの「問題」は「セックス/ジェンダー/セクシュアリティの問題」として扱われます。確かに、それはLGBTsの抱える問題を理解する上で、とても大切なことです。しかし、LGBTsの「問題」「マイノリティ性」を「セックス/ジェンダー/セクシュアリティ」に「のみ」還元してしまってよいのでしょうか? 今回は、こんな問いを考えてみたいと思います。

セクマイは色々なマイノリティ性を持つ

繰り返しますが、LGBTsを理解する上で大切な「問題」は、「セックス/ジェンダー/セクシュアリティ」の問題です。ですが、LGBTsは、必ずしもそれのみで生きづらさを感じているわけではなさそうです。僕自身の体験から、お話ししたいと思います。

僕はカトルマイノリティです

僕は、大きく分けて四つのマイノリティ性をもっています。まず、ジェンダー・クィアという性的マイノリティであること。二つ目に、ディスレクシアという識字障害で、僕の場合手で文字を書くのに困難があるため、義務教育をほとんど受けられませんでした。三つ目に、うつ病、パニック障害、愛着障害、アルコール依存症等の精神疾患です。そして、最後に圧迫骨折という身体障害を持っています。

マイノリティ性の結びつき

一見すると、マイノリティ性というつながりはありますが、それぞれ異なったもののように見えます。しかし、これらは、完全にではないにしろ、相互に結びついています。

ディスレクシア(それは後から知ったことですが)を持っていたため、僕は登校拒否を続けていました。ですが、それは同時にディスレクシアの特徴の一つである「言葉でうまく思いを伝えられない」ということがあったからです。そして、僕は昔から「『男』として扱われる」ことに違和を覚えていました。例えば、「男なら泣くな」とか。ですので、自然と身体的にその違和が出てきてしまい、周囲から「ジェンダー」の側面で異質な存在としていじめを受けていました。ですが、ディスレクシアのために僕は思いを伝えられず、いつもただただ泣いていました。

義務教育から離れ、大学ではほとんどがパソコンで済むものでした。何より事前に思いをパソコンで書くことで言語化できたので、楽な部分はありました。しかし、自分の性別違和がはっきりしてきた時、今度はうつ病になります。今思えば、付き合ってきたパートナーが僕を「男性」として扱うことへの違和がその理由の一つでした。うつ病はどんどんひどくなり、環境を変えることで改善してきた矢先(うつ病は回復しつつある時が、元気になるので、逆に危険です)、家族と僕のセクシュアリティに関して口論になり自殺未遂をしました。そうして、僕は基本的には一生残る圧迫骨折を背負うことになりました。

こんな風に、性的マイノリティであるというマイノリティ性は様々なマイノリティ性と結びついていたり、影響を与えていると感じるのです。その意味でLGBTsのマイノリティ性は「セックス/ジェンダー/セクシュアリティ」にのみ還元できないと言いえます。

様々なマイノリティ性と居場所の問題

昨今、多様性、インクルージョンなど聞こえのいい言葉が耳に入るようになりました。しかし、トランスジェンダー女性への差別がネット空間でどんどんと過熱しつつあるように、まだまだLGBTsはマイノリティです。だからこそ、LGBTsが「安全基地」と感じられるような居場所は必要不可欠です。ですが、それぞれが性的マイノリティというマイノリティ性以外のマイノリティ性を持っている場合、どうなのでしょうか。

「状況内存在」

まず、私たちの社会でのあり方から考えてみましょう。私たちのありようや行為は、常に何らかの「状況=シチュエーション」の内にあり、その「状況」に応じて受け取られ方が変わってきます。例えば、家やパウダールームでお化粧をしたり、整えたりすることは「普通」とされますが、電車内や食事の席ですると「マナー違反」とみなされることがあります(パウダールームが使えない僕はどうしたらいいの、という問いはあるのですがそれは置いておきます)。このように私たちのありようや行為は、その時々の「状況」において意味を変えます。そのため、哲学などでは、私たちの社会のあり方を「状況内存在」と呼ぶことがあります。

複数のマイノリティ性と居場所の不在

さて、LGBTsには、先にお話ししたように、「安全基地」となるような居場所が不可欠です。ですので、冒頭で述べた「トランスジェンダーのための雇用のイベント」や、「ジェンダーフリー」のカフェ等はとても大切なものです。しかし、セクマイは必ずしも性的マイノリティというマイノリティ性だけを持つ訳ではありません。

また、僕のお話からこの難しさを説明したいと思います。僕は愛着障害という精神疾患も持っています。愛着は過度に人と距離を取る「回避型」と過度に距離感を詰める「密着型」、この二つに大きく言えば分かれます。僕は後者です。ですので、うつ病が酷く孤独感に苛まれた状態で女装のバー等に行くと他者のパーソナルスペースに土足で入ってしまったり、声を掛けてくる男性となりふり構わずスキンシップをしてしまうことがありました(今は断酒をしているのと、愛着をセーブしているので落ち着いていますが)。

そのため、バーの界隈であまり良いイメージを持たれない、といったことがありました。他方で、アルコール依存や愛着の支援施設、団体においてはLGBTsはあまり考慮に入れられていません(私が通っているクリニックはLGBTsのためのものもあるそうですが、ゲイの方が大半でトランスやクィアはあまり居場所がないそうです)。なので、「精神疾患者」として居場所を探すと、今度は、「セクマイ」であるがゆえに居場所を探すのが困難になります。そして、そうした孤独から自殺未遂をしたり、アルコールに走ったりすることを繰り返しました(今は、幸いにも、断酒を続けられていますが)。このように、居場所を必要とするLGBTsが複数のマイノリティ性を持つ場合、「状況内存在」である以上、どこにも居場所を求めることができなくなる可能性があるのです。

複数のマイノリティ性がもたらすもの

最後に、僕がつい最近体験した事例から、複数のマイノリティ性を持つLGBTsの居場所の可能性についてお話ししたいと思います。

「匿名性」という日常と隠されるもの

「もう金曜日か、一週間が早いなぁ」、なんて気持ちは、だれしも一度は持ったことがあると思います。ことそれほどまでに、日常は「あたかも」淡々と過ぎて行きます。なぜこんなにも日常が淡々と過ぎて行くのでしょうか。

その理由の一つには、「匿名性」があります。公共スペース、特に電車の中ではほぼ全ての人がスマホの画面に首ったけです。言い換えれば、周りにいる「他者」の存在はないもの、あるいはただ存在するだけの「匿名」の存在なのです。それゆえ、例えば、僕はパニック障害のためにヘルプマーク(都内の路線会社が発行している、目には見えない障害をもつ人に優先席を譲るためのマーク)を付けていて、確かにお仕事でお疲れなのでしょうが、屈強なサラリーマンが優先席に座っていても、その方はスマホ以外には目を向けません(以前、チョーカーにヘルプマークをぶら下げて相手の顔の近くまでもっていきましたがそれでもダメでした(笑))。

このように、「あたかも」淡々と過ぎて行く日常の中には「匿名性」という「他者」のマイノリティ性のある種の隠蔽があってこそ、一部には、成り立っているのです。

「匿名性」が壊れるとき

さて、そんな日常が淡々とならなくなることがあります。今月12日に日本列島を襲った台風がその一つでした。僕は強風対策や外出困難を考えて食料などの備蓄はすでにしてありました。しかし、ちょうど僕の住んでいるアパートに若干近い多摩川が氾濫する恐れがあるとの情報が当日ネット上で飛び交ったのは皆さんもご存知ではないでしょうか(僕の地域は大丈夫でしたが、他の多摩川付近の地域は大変なことになっています)。

僕は即座に市の救急センターに連絡をし、避難場所の誘致(市がここまでとは想定していなかったので)にどのくらい時間がかかるか聞いたうえで、警報レベル4になった時点で災害時に必要なものをすべて持ち、避難所の中学校へ向かいました。避難場所となっていた体育館は、不思議な光景でした。マットレスとモーフが一枚、お隣の方との距離はそこまで遠くありません、何もかもが、ある意味で見えていて、「匿名性」が壊れていたのです。

「匿名性」が壊れることで見えてくるもの

僕は早々に避難所に来たわけですが、同じように早々に来られる方にはある一定の特徴がありました。それはそれぞれが複数のマイノリティ性を抱えているということです。例えば身寄りのない高齢者、家族のいない精神身体障害者、シングルマザー等です。

ちょうど僕の隣にいらっしゃった方は、身体と精神に障害を持たれている方でした。そして同じようにヘルプマークを携帯されていました。僕は、どこででも研究や読書はできるので、自分のことをしていたのですが、トイレに行こうとした時、その方がうまく歩行ができない高齢者の方をトイレまで介助されているのをみました。その後、お隣の方は、「あたしって、何だか頼られんのよね」と語り、微笑まれていました。そして、また少し時が過ぎ、少し視線を感じたので見返すと脳性まひ(僕はお知り合いに何人かいるので振舞いで分かりました)で車いすの方のヘルパーさんが車いすからおろし、介助するのに手助けが必要なようでした。

そうして、僕、そして先のお隣の方二人の「ヘルプマーカー」がヘルパーさんと一緒に介助をしました。そうすると、周りの高齢者の方が暖房シートを渡したりと介助の輪が広まりました。「匿名性」が壊れることで、普段はあまり起こりえないような複数のマイノリティ性を持つ人々の相互扶助が生まれていました。

ただ、僕は、もちろん緊急避難だったので、すっぴんで髭は剃らずに来ていたため、性的マイノリティとしての側面は出ていませんでした。そこで、ご紹介がてらお隣の方に僕のモデルのインスタを見せてセクマイであることを伝えたら、「あら、いい女じゃない」、と一言。またヘルパーの学生さんには、図々しくも、僕のジェンダー・クィアとしての活動をお話ししたところとても共感してくださいました。

何よりうれしかったのは、僕が複数のマイノリティ性の問題、そしてそこから連帯していくことの話に脳性麻痺の方が喜んでくださったこと、そしてご自分も知的障害等も持つ複数のマイノリティ性のある存在だとお話しくださったことです。正確な言葉ではないかもしれませんが、「僕も、知的障害を持っていても、脳性麻痺として表現したい!」とおっしゃっていました。

「匿名性」という「日常」、ある意味では誰かの存在を隠す暴力である「日常」が壊れた空間では、複数のマイノリティ性は相互扶助という倫理になりうるのです。では、LGBTsの複数のマイノリティ性のために、居場所が不在であるという問題をここからどう考えればよいのでしょうか。

それは、この拙い記事を読まれた皆さんがまさに淡々とマイノリティ性が「匿名」になっている「日常」でどう実践していくかという問いなのです。

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