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好きな人を想って淹れるコーヒーが好き【前編】

穏やかな物腰、問いかけに対して答えを発するまでの表情。目を伏せると、房のような黒く長い睫毛がまぶたを縁どる。そんな原田さんが時折口にする「逡巡した」という言葉。字面も言葉の響きも美しい。決して遠回りではない。逡巡することもあった人生は、「本当に大切なことは何か」を考えていたから。「自分が自分であることを、あきらめなくてよかった」。原田さんは今、輝きのなかにいる。

2016/05/06/Fri
Photo : Mayumi Suzuki Text : Ray Suzuki
原田 大二郎 / Daijiro Harada

1983年、大阪府生まれ。大阪府立松原高校卒業後、フランスに1年間留学。その後、NGOピースボートで地球一周の船旅へ。愛・地球博のスタッフを経て、2006年から東京・国分寺市にあるオーガニックカフェ「カフェスロー」に勤務。現在はカフェ部門のマネージャー。ゲイとして2015年12月に両親にカミングアウトしたばかり。そこから好循環が始まった。

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INDEX
01 両親へのカミングアウト、晴れやかな気持ちに
02 自由な高校で身に着けた、地球市民・異文化共生の考え方
03 フランスで知った豊かさと、アイデンティティ・クライシス
04 持続可能な、ピースフルな生き方を求めて
05 愛知から東京へ。ひたすら前に進む大ちゃん
==================(後編)========================
06 20代後半におとずれた悩み
07 自分がもっと輝くために
08 これまでにない人生の扉を開ける
09 大晦日のシンクロニシティ
10 好きな人を思って淹れるコーヒーが好き

01両親へのカミングアウト、晴れやかな気持ちに

好きな人を想って淹れるコーヒーが好き【前編】,01両親へのカミングアウト、晴れやかな気持ちに,原田 大二郎,ゲイ

俺、ゲイやねん

東京・国分寺市にある「カフェスロー」。

フェアトレードやスローライフを提唱するコミュニティカフェの草分け的存在だ。

エクアドルのフェアトレードコーヒーに魅せられ、ここで働き始めたのは23歳のとき。もう9年が経つ。

2年前からマネージャーとして、カフェ部門をとりまとめている。

「周りのみんなに『大ちゃん、変ったね』と言われます。『晴れやかになった、スッキリしたよ』って。ひげも生やし始めました。いまだに大学生に見られることがあり、立場的に困るのもあって(笑)」

2015年は、いろいろなことの歯車が動き出したような1年だった。

年頭から「両親には言わなくちゃ」と思っていたが、日々は慌ただしく過ぎてしまった。

ボロボロと思えた時を経て、あらゆる物事が整い始め、気づきが多く、自分の背筋が少し伸びるような感覚をおぼえた。

リラックスして生きられるようになったのだ。

そんな時、「OUT IN JAPAN #004」の被写体として選ばれる。

出ようと決めたのは、自分が輝いていたい、という率直な思いからだった。
自分に自信をもって生きること。

そして「自分にしかできないことがある」という確信が、心の中に生まれてきた。

このことが、両親にカミングアウトするという気持ちをも、大きく後押しした。

“その日” を自分の誕生日の翌日と決め、故郷の大阪に向かった。

仲間たちから「がんばれ大ちゃん」と応援メールも入った。

ちょうど実家に帰っていた兄が隣の部屋にいたことも気になり、なかなか口火を切れなかった。

「話したいことがあんねん」と切り出せたのは、のんびりテレビを見て過ごす家族団欒のあと、両親が寝室に行くときだった。

原田さんは、ストレートに告げた。

「俺、ゲイやねん」

やるな、おかん

「両親には、まず謝ったんです。伝えるのが遅くなってしまい申し訳ないと。本当はもっと早く話したかったけど、自分のなかで整理がつかなかった。『この人がいいな』っていうパートナーもいないので、連れて行くこともできず・・・・・・」

不意にたくさんの思い出が去来したのか、原田さんは途切れ途切れに振り返る。

お父さんの反応は「結婚の報告があるのかと思った」という想定外の驚き。

その後「そうか、それだったら否定することもないし、身体だけは気をつけて生きてくれればそれでいい」。

一方、お母さんの最初の言葉は「あんたほんまかいな」。

そして、「ま、あんたは彼女のカの字も出てけえへんから、そうかと思ったわぁ。一緒に住んでる人おんの?」。

兄と姉がいる原田さん。兄には子どももいる。

お母さんは、原田さんに「家庭を持って孫の顔を見せてほしいとは思っていない」と語った。

「兄弟が3人もいれば、いろんな子がいる。好きなように生きてくれればいい、別にゲイでもいいじゃない」と、息子をまるごと受容したのだ。

年が明けて2016年1月、NHKの朝の情報番組でLGBTの特集が放映された。
友人が登場することもあり、さっそくお母さんに「見てみて」とメールを入れた。

お母さんからはすぐ「オッケー、お父さんにも見せとくわ」と明るい返事が来た。

「それもすごいと思ったし、あの番組を見たこともすごいと思ったけど、もっとすごいのが放映後。親戚のおばさんや地元に住む僕の幼なじみにも番組を見るよう言ってくれていたんです」

「ついこの間カミングアウトしたばかりなのに、もう、さらっと言えるなんてすごい。やるな、おかん。・・・・・・偉大だと思いました」

02自由な高校で身に着けた、地球市民・異文化共生の考え方

フランス語が学べるから選んだ高校

「両親からは可愛がられたかな。放任主義で、わがままに育ったと思います。僕、変わってるので(笑)。中学のときには『高校には行かない』って宣言して、両親は困ったみたいですね」

子どもの頃から、料理の道に進みたかった。

そんなときに目にしたのが、大阪府立松原高校の入学案内だ。

選択科目にフランス語があることに魅きつけられ、試験勉強を開始。

料理を志す者にとってフランス語は、長い道のりの第一歩。そんな直観だったに違いない。

「入学した瞬間からこの学校、変わってるなって思いました」

そう、進学したのは、自由でユニークな校風の高校だった。

大阪府立として初めての総合学科高校で、普通教科に加え、農業、工芸、外国語など160以上に及ぶ多彩な選択科目を選べる。人権教育にも力を入れ、障がいのある生徒が学ぶコースもある。

多様な個性を認め合い、共に生き、社会に参画できる力や感性を育むことが、学校のモットーだ。

それまで経験したことのない、合意形成実習やノンバーバルコミュニケーション実習は新鮮だった。

特に興味を持ったのは、地球環境や異文化理解、NGO、表現やコミュニケーションについて学ぶヒューマン・ネットワーク系列の選択科目。

世界が一気に広がり、広い視野と柔軟な感性を養った。

卒業時に提出した課題研究の論文は賞もとっている。

「松原高校は、僕の礎です」

ゲイであることに、まだ苦悩はなかった

自分がゲイだと自認したのは、高校2年生のとき。

数ヶ月、女の子と付き合ってみたものの何か違う。

「周りからは『やったのか?やらないのか?』みたいな話ばかり。僕はそういう気持ちにならなかった。だから『本当に好きじゃないのかな?』と思って」

申し訳ない気持ちから、すぐ別れを告げた。

さらに数ヶ月後、ふと気付く。

テレビやメンズファッション誌で、自分の目が追いかける先には、男性の姿があることに。

「あ、男か……って。でもショックだったり、絶望したりはなかった。自分が異常だとも思わなかったし」

学校にもバイト先にも、好きな男性はいなかった。

そんなことより、フランスに行きたい。

3年生になった頃、卒業後の進路を真剣に考え始めていた。

2年、3年生のときの担任で、今もムッシューと親しみを込めて呼んでいる恩師がいる。

現代文の先生で、選択するフランス語の授業を、一緒に受けてくれた。

「フランスに行きたいって、親に言いにくいんやけど」と相談したら、自宅を訪れ、両親にフランス留学を説得してくれたのも、この恩師だった。

「僕のために伴走してくれていたんですね。生徒と同じ目線に立ってくれる先生は、100%生徒を受け止めてくれる」

「学校のコンセプトは生きていくうえで大切な『信頼』を育むことでしたが、信頼することは受け入れること。Faith はAcceptだと、教えてくれました」

高校卒業後、原田さんは希望通りフランスへと旅立った。

18歳だった。

03フランスで知った豊かさと、アイデンティティ・クライシス

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初めてのアイデンティティ・クライシス

パリから電車で約1時間、ルーアンにある語学学校で留学生活が始まった。

自分を知る人のいない環境で、開放的な気持ちになったものの、やがてコミュニケーションの壁が立ちはだかる。

単なる言葉の問題ではない。コミュニケーションを通じて、自分が自分であること、アイデンティティの根幹を揺るがす問いかけが、周りから、そして自分自身からも突きつけられるのだ。

「歴史にしても政治にしても美術にしても、自分がどう思うか、感じるかを問いかけられる。授業で『Daiの国はどう?』って聞かれても、フランス語のレベル以前に、答えられない。まして思考の訓練もしていない僕は、だんまりしてしまう」

「自分のアイデンティティがないことにショックを受けました。自分って何だろう、フランス料理を勉強したいとか言ってるけど、生まれ育った日本のことを何も知らなくて、それが情けなくて惨めで」

自分を表現できない。自分がわからない。

悲しくて泣く日もあったという。そして1年が経ち、原田さんが出した答えは「今、料理を学ぶタイミングではない」。

まずは「自分であること」を見つけたい。

自分に自信を持って生きたい。

自分が誇らしくあるべきだと思った。

そうなってから料理を始めても遅くはないし、そんな人生もいいんじゃないか。

「でも、今思えばだけど、セクシュアリティが影響していたのかもしれない。あのときは、自分であることに自信がなかった。自分が他人に意見を表明すると、何か言われるんじゃないかという恐怖感のようなもの」

「僕は長いこと、そんなものを抱えていたのではと、最近になって気付いたんです」

質素だけど、本当に豊かなフランス人の暮らし

フランスで過ごした時間。
それはアイデンティティを揺さぶるだけではなかった。

ホームステイ先の暮らし、フランスで出会った友人たちや先生たちの暮らしのあり方は、美しく輝いて見えた。

その香り立つような生き方、人生の楽しみ方を、18歳の原田さんは早くも感じ取っていた。

「一般的なフランス人は週末、家族と過ごす時間を大事にして本当にスローなんですよね。田舎に買った家を何年もかけて修理して、ペンキを塗ってドアノブ作って、鏡をつけて……、そういう暮らしが本当に素敵だった。彼らは『業者に頼むと高いからだよ』って言うけど、僕は豊かさの本質に出会ったんです」

原田さんはフランスで、これから生きていく道の大きなヒントも得ていたのだ。

「高校時代の僕は、バイトして洋服を買って、カラオケに行ったり、消費することでしか楽しむことを知らなくって。例えばインドなど発展途上国に行って価値観が変る人もいますが、僕の場合はそうじゃない」

「日本と同じ先進国のフランスで質素につつましく、でも豊かに生きている人たちと出会った。これは、すごく大きなことだったんです」

わかったら、あとはたやすい。

次が見えたら、再びまっすぐに行動することができた。

04持続可能な、ピースフルな生き方を求めて

欠けているピースを埋めていく日々

大きな気づきを得てフランスから戻った自分とは裏腹に、周囲からは「夢破れて帰国した青年」のような視線も感じた。

「人生の豊かさの本質を18歳で知ることができてよかったと思っていたんです。でも、その頃はまだ、自分の気持ちや考えを、うまく言葉にできていなかったんです」

日本に帰って始めたことは、自分に欠けているピースを集めること。

ホテルで働きながら人権問題のファシリテーター養成講座や非暴力コミュニケーションのセミナーなどに次々と参加。

「思うままに飛び込んでいく感じでした」

中でも次のステップへの大きな原動力となったのが、国際交流NGO「ピースボート」への乗船だ。

ボランティアスタッフとして訪れた事務所で目の当たりにした、年齢や職業にとらわれないフラットな人間関係も魅力的だった。

原田さんが参加した船旅は南半球を一周するもので、アルゼンチンからチリに向かう2週間には、気候変動枠組条約締約国会議第10回会合(COP10)に合わせて水をめぐる問題を考えるプログラムが行われ、環境NGOに関わる若い学生たちがチリ、アルゼンチン、ウルグアイから乗船。

大学教授や専門家とは異なる身近な目線で議論が行われた。

「その議論のなかで、彼らを悲しませている洪水や大雨、氷河が溶けていくことは、地球の真裏に暮らす僕らの消費のあり方のせいだと痛感しました」

「大量生産、大量消費、大量廃棄をなんとかしたい。環境に関わることをライフワークにしようと、そのとき決めたんです」

その決意は、フランスで感じた本当の豊かさ、翻って日本人のライフスタイルを考えることにもつながった。

大きなビジョンが見えてきたのだ。

スペックでジャッジされることへの違和感

自分の欠けたピースを探していた頃も、恋愛をしたい気持ちや性的な欲求もゼロではなかった。

でも、今じゃないと思っていた。

「自分のアイデンティティと呼べるものがなかったから、恋愛という新たな世界に飛び込む気になれなかった。自分の中で順番を決めていたのかもしれません」

出会い系のサイトも一応見るけど、会うとなると、ひるむ。

変な目に遭わないか、相手がどういう人なのか、わからないのが怖かった。

「今もそうですが、スペックと写真だけで人をジャッジしていくことに違和感があるんです。もちろん自分もそれで判断されたくない。人の本質は違うし、深いし、多様です」

「一瞬を切り取っただけの顔では、お互いにわからない。どんな仕事をしているか、どんな暮らしをしているか、本当に大事なことはそこには書いてない。でもそんな躊躇をしても仕方がない、これしかないんだから、ジャッジしなきゃいけない・・・・・・。そんなことに悶々としていたと思います」

05愛知から東京へ。ひたすら前に進む大ちゃん

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自分にゴーサインを出せた愛知万博

「料理をしたい」という思いはやがて、食を取り巻く意識や環境への興味に変っていった。

食べ物はどこから来ているのか。食を届けることはどうあるべきなのか。

ピースボートから帰国後の2005年は、愛知万博(愛・地球博)が開催された年。愛知万博には、国内外で活躍するNPOやNGOが一堂に集う地球市民村があった。

いても立ってもいられず、とにかく愛知県に向かった。

幸い、パビリオン内にあるパーマカルチャーとマクロビオティックのお店で働くことができた。

万博内に作られたオーガニック・ガーデンを案内したり、店で調理をしたりとさまざまな仕事をこなした。

原田さんはすでにピースボートで、オーストラリアの有名なエコビレッジ、クリスタルウォーターズを訪れていた。ずっと行きたかった場所だった。

「パーマカルチャーに基づく循環型な暮らしをしているエコビレッジです。近くのマレーニという小さな町にはコープや市民バンク、オーガニックマーケットがある。そんなライフスタイルに魅せられ、愛知万博にも出会えました」

パーマカルチャーとは、パーマネント(永続性)と農業(アグリカルチャー)、文化(カルチャー)を組み合わせた造語で、人や自然に負担の少ない農業をベースに持続可能な社会を実現するライフスタイルを指す。

1990年代後半からブームになった「ロハス」の “次に来る” カルチャーと目されていた。

閉幕までの約6ヶ月、充実した日々を送った。

そして、初めて恋人と呼べる人もできた。恋愛へのゴーサインを、ついに自分自身に出せたのだ。

「愛知はいわば新天地。ネットで知り合った人と付き合いました。彼は大学4年生で就職も決まっていたから時間はたっぷりある。でも僕はまだ、夢に一生懸命(笑)。愛知万博は出会うものすべてが新鮮でした」

「こんな人がいる、こんな生き方や価値観がある。初めて出会えたパートナーをそっちのけで仕事に一生懸命でした」

「行くしかない!」と着火され、東京へ

心に火がつくと、いても立ってもいられない。

そんな状態を「着火される」と原田さんは表現する。

愛知万博でパーマカルチャーを学び、ユニークな活動をするNGOやNPOがたくさんある東京が、輝いて見えた。

「これはもう東京に行くしかない」。突然の別れを宣言し泣かせたのは、高校の時の彼女に次いで、愛知で出会った彼が2人目だ。

そして、縁あってカフェスローに就職。23歳の時だった。

<<<後編 2016/05/09/Mon>>>
INDEX

06 20代後半におとずれた悩み
07 自分がもっと輝くために
08 これまでにない人生の扉を開ける
09 大晦日のシンクロニシティ
10 好きな人を思って淹れるコーヒーが好き

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