02 「女の子として」という母のこだわり
03 息抜きは「テレビ局の裏方めぐり」
04 完全に女性として振る舞った高校時代
05 セクシュアリティの揺れと性同一性障害の診断
==================(後編)========================
06 封印していたモノマネパワーが炸裂!
07 即行動の、超ポジティブ&アクティブさ
08 ひとり旅、そしてパートナーとのふたり旅
09 家族へのカミングアウトと母からの抗議
10 異なる土台に立つ人たちをつなぐ役割として
01家族みんなろうのデフファミリー
手話、口話を交えての家族間コミュニケーション
高野さんは、家族全員がろう者の、いわゆるデフファミリーだ。
両親と妹の4人家族。子どもの頃は難聴で、「あいうえお」とはっきり聞こえるわけではないが、目覚まし時計の音や、誰が喋っているかの「音の感じ」はわかる程であった。
しかし、20歳のある朝、目が覚めると、まったく聞こえなくなっていることに気付く。「さすがに最初はショックでしたね」以来、音のない世界に生きる。
今は少しずつろう学校でも手話の使用が認められつつあるが、一昔前までは、聴者とコミュニケーションを取るために口話法(唇を読み取り、声を出して発話させる教育法)が重視され、教育現場で手話が禁止されていた時代がある。
母はその時代の教育を受けてきた口話主義者だったが、ろうの孫もできて、今ではすっかり手話での会話もスムーズになっている。
「お嫁さんになれませんよ!」母からくだされたモノマネ禁止令
この母が、大のモノマネ好きで、表情の豊かな人なのだ。
「母が毎日休みなくモノマネをやるんです。美空ひばりとか、チャップリンとか……歌手のモノマネはよくやりましたね。それと、テレビドラマ! テレビが大好きで、部屋に3台テレビがつけっぱなしになっているんですけど、うまく順番に見てるんですよ。それで、昼ドラのストーリーを、ひとりで全役演じて再現するんです。警察官が来たと思ったら、あっちからおじいさんが出てきて、次にこっちからおばあさんが出てきて、最後にパトカーが来てね……って、家中のドアというドアを使ってやるんです。母親の再現で十分話が分かっちゃうので、もうテレビは見なくていいぐらい(笑)」
音の共有はないが、とても賑やかで楽しい家庭だった。
そんな母に影響を受け、ついつい自分もモノマネをやりたくなり、アントニオ猪木や志村けん、サルのモノマネを練習した。するとなんと、母親から怒られてしまう。
「そんなんじゃお嫁に行けませんよ! 絶対に人に見せちゃダメ!」
自分はやっているのに人にはダメだなんて、なんだかずるいな。そんな風に思いながらも、人前でのモノマネは長らく封印された。
大人になり、抑えられていたモノマネパワーが一気に爆発するのであるが、この時はまだ知る由もなかった。
02「女の子として」という母のこだわり
なんで自分にはおちんちんがないんだ!?
子ども時代はズボンばかりはいていて、好きな遊びは仮面ライダーやウルトラマンごっこで、男の子とばかり遊んでいた。
幼稚部から高等部までろう学校に通っていたが、スイミングプールは聴者の子どもたちと一緒に通っていたので、時々、耳が聞こえないことで幼なじみが馬鹿にされ、男子とケンカになった。
「やっぱり、女の子をかばいたくなっちゃうんですよね。でも殴り合った後に仲良くなったりするんです」
自宅に風呂がなく父親と銭湯に行くが、男風呂でどうしたってみんなの下半身が気になってしまう。
「みんなはあるのに、どうして自分にはないんだろう。おちんちんが、ほしいな!」
物心ついた時から、自分は男の子だと思っていたので、父に何度も聞いた。返ってきた答えは、「大丈夫、お前も大きくなったら生えてくるから待ってろ」だった。
「えー!本当?って、毎日、いつ生えてくるんだろうって心待ちにして確認してました。でたらめなお父さんでしょう(笑)。その場が解決できればいいっていう人で」
スカートは絶対はきたくない!
父はそんな調子だったが、母は「かわいい顔をしてるんだから」と、女の子らしさにこだわった。
「そりゃあもう、スカートは絶対に嫌でした。小学校の入学式に無理やりスカートをはかされて、嫌がって学校に行かないのをタクシーに乗せられて連れて行かれたことを覚えています」
こんなにも自分は男の子だと思っているのに、母がどうしてことあるごとにスカートをはかせたがるのか、まったく理解ができなかった。
自分にはなぜ男性と同じ性器がないのか親に尋ねると、返ってくる答えは「女の子だから」。それでも納得できず、認めたくない気持ちは強かったが、だんだん男の子と自分の違いに対する悔しさと、仕方がないという諦めが半々に混じるようになる。
そして、男女の名前が少し違うことに気がつき始めてから、自分の幸子という名前に、「あれ?やっぱり女なのかな?」とさらに気持ちが大きく揺らいでいった。
03息抜きは「テレビ局の裏方めぐり」
仕方ない、というがまんと諦めの気持ち
人を笑わせることが大好きで、思ったことはなんでもすぐにやってみてしまう行動派。
さぞかし明るく積極的な子どもだったのだろうと思いきや、実は対人関係においてはどちらかというと受け身で、自分の言いたいことが言えない、おとなしい性格の子どもだった。
「言っても仕方がないと、がまんしてしまう感じでした」
この傾向は20歳ぐらいまでずっと続く。「仕方ない」という感情はいつしか当たり前のように頭の中を占拠した。
それでも子どもの頃から、ひとりで好奇心のおもむくままに行動してしまう一面もあった。いつもすぐにいなくなってしまうので、母から大きな迷子札を貼られたこともある。
エッチなことに興味が出てくると、コンビニで大人の本を立ち読みして大柄な男の人に追いかけられた。見た目には女の子にも見えただろうから、今から思うと恐ろしい経験だ。
「明るい家族計画」と書かれたコンドームの中に水を入れて思いっきり投げてぶつけて割ろうとしてみたり、やることはその年頃の男子のやんちゃないたずらと変わらなかったが、身体だけは――どんなに待っても男性器は生えてこなかった。
テレビ局に潜入して裏方の仕事を眺める子ども
ろう学校の小学部はひとクラス10人ほど。幼稚部からの持ち上がりなので、メンバーは変わりばえせず、ずっと一緒にいたら飽きてしまう。
結局、学校が終わるとひとりで遊ぶことが多くなった。そして小学部5年生の時、最高の遊びと出会う。テレビ局への潜入だ。
「キラキラしたテレビの表側ではなく、裏側をのぞいてみたかったんですよ」
ひとりでテレビ局やラジオ局をまわり、楽屋やスタジオに忍び込む。警備員には「トイレを借りたい」などと上手く伝えて入り、スタジオでADやカメラマン、照明や音響など裏方のスタッフが働く姿を見て楽しんだ。
いろんな芸能人にも会い、素の顔が見られるのが嬉しかった。サインをほしがるわけでもなく、たたぼーっと見ているので、時折何してるの?と声をかけられることもあったが、たいして怪しまれることもなく、学校をサボってテレビ局通いという趣味に没頭した。
テレビ局は、いつもどこかでがまんしている自分のストレスを発散させてくれるものだった。
04完全に女性として振る舞った高校時代
嫌われたくないから、親友としてそばにいる
母にずっと「女の子なんだから」と言われ続けた結果、だんだんと諦めの気持ちが支配し、高校生になる頃には無理やり女性らしく振る舞うようになった。
「一生懸命、松田聖子ちゃんヘアーにしたり、80年代アイドルの真似をしてました。でもそれが、なぜかできてしまったんですよ。母親に言われすぎていたんでしょうね」
高校ではバレーに打ち込む。クールでかっこいいお姉さん的な、男の子にももてる先輩を好きになり、部活動が終わった後はみんなで街に繰り出しご飯を食べ、お喋りをする、爽やかな青春時代。
いつも好きになるのは女性だったが、自分から気持ちを伝えることは一度もなかった。思いを伝えて嫌われるぐらいなら、好意は隠し通して親友に徹した方がいい。そばにいれば相手は何でも話してくれるし、その素顔が見られるだけで嬉しかった。
男子から告白され付き合うも、ふられる
好きなのは相変わらず女の子だったけれど、好奇心から、告白してきてくれた同級生の男の子と付き合ったことがある。
松田聖子を参考に、かっこうや動き方を真似して、いわゆる「ぶりっこ」を一生懸命演じたのだが、「ちょっとやりすぎちゃった」と笑うように、付き合いだして急にぶりっこをするようになった言動に彼は戸惑った。
実は彼は、どこか男の子っぽい高野さんのことを好きだったのだ。
「どうしちゃったの? なんだか変だよ。元の高野さんの方がいいよ」
「無理やり女性になろうとしたら変な女になっちゃったから、彼も嫌になったみたい(笑)」
結局、1年ほど付き合って別れたのだが、実は今でも彼との付き合いは続いている。8年ほど前に彼の地域の講演会に呼ばれたことで、再会を果たしたのだ。
「今のほうが昔より、断然いいじゃん!」そう、彼は言ってくれた。たぶん当時から彼はなんとなく気付いていたのかもしれないと、今は思う。それ以来、時々、友だちとして遊ぶ仲である。
05セクシュアリティの揺れと性同一性障害の診断
女性としての幸せを考えてみたものの・・・・・・ やっぱり無理だった
ろう学校の高等部を修了後、ワープロや印刷の技術などを身に着けるための専攻科での2年間の学びを経て、大手企業に事務職として就職する。
ちょうちん袖のかわいいブラウスの制服に、髪にはソバージュをかけ、メイクをし、ここでも完全に女性として振る舞った。
「ろう者ってメイクする人、少ないんですけど、会社ではしなくちゃいけないから先輩に怒られて。メイク道具なんて持っていなかったから、先輩に一緒に買いに行ってもらって、メイクの仕方も教えてもらい、頑張ってました。でもろう者の友だちに会うと、どうしてメイクなんてしているのかと言われるので、もういいや!とメイクせずに会社に行くと、今度は会社で、どうしてメイクしないのと言われるんです。結構、葛藤がありました」
しかし当時は、女性として働くことにそこまで苦痛は感じなかったと言う。
「まあ、しょうがないかなあとも思っていました。子どもも好きだし、結婚して、出産すればいいのかな・・・・・・ って。でも、やっぱり難しかったですね」
25歳ごろ、虎井まさ衛さん(FTMの先駆けとして、日本における性同一性障害の戸籍変更を求める運動の中心人物の一人として活躍)のことを本やテレビで見かけて、日本でも「女性から男性になれる」ということを知る。それまではトランスジェンダーという言葉も知らず、自分のことをレズビアン、同性愛者だと思っていた。
同じ時期、ろう学校の後輩だったMTFの友人と再会。彼女も自分がまだゲイなのかトランスジェンダーなのかわからず揺れていた。お互い「自分らしく生きたいね」と話し合うようになり、だんだんと本当の自分、男性として生きていきたいという思いが強くなる。
心が男だということを誰かがわかってくれていれば十分
そして、虎井まさ衛さんがモデルとなった『3年B組金八先生』の上戸彩さんの役柄で、性同一性障害という言葉について理解する。
31歳で埼玉医大にかかり、性同一性障害の診断がくだされた。
「ああ、やっぱりそうだったんだ」
病名がくだされ、どこかほっとしている自分がいた。
医師からは、手術をして身体を変えるかどうか確認された。女性らしい名前には違和感があるので変えたいが、身体を変える手術やホルモン治療は心身への負担が大きすぎると考え、やらないことに決めた。
名前の変更も考えたが、その頃はすでに芸名の「モンキー高野」を使っており、特に不利益はないと、何も変えずに今日まで来ている。
「もともとペチャパイだから気にならないけど、胸が大きかったら手術していたかも。だけどホルモン治療もやっぱり身体に負担がかかるし、周囲を見ているとみんな気分の落ち込みが激しかったりして、とても大変なんだと改めて思います。それに、自分はそんなにオトコ、オトコしてないというか、男性としてもちょっと女性的な方だと思っているので、このままでいい。何の不満もないんです」
戸籍上の性別にもこだわらない。
心が男だということを、誰かがわかってくれればそれで十分なのだ。
後編INDEX
06 封印していたモノマネパワーが炸裂!
07 即行動の、超ポジティブ&アクティブさ
08 ひとり旅、そしてパートナーとのふたり旅
09 家族へのカミングアウトと母からの抗議
10 異なる土台に立つ人たちをつなぐ役割として