INTERVIEW
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“Xジェンダー” という言葉と出会い、ようやく本当の自分自身を見つけた。【前編】

屈託のない笑みを浮かべ、場をパッと明るくするような朗らかさを漂わせる大賀一樹さん。笑顔を浮かべながらワクワクするテンポで紡いでいく半生は、決して簡単なものではなかった。人知れず涙を流したこともあったが、今笑っていられる理由はきっと、男でも女でもないありのままの自分を受け入れることができたから。自分自身を見つけていくストーリーを聞かせてもらった。

2017/09/28/Thu
Photo : Tomoki Suzuki Text : Ryosuke Aritake
大賀 一樹 / Kazuki Taiga

1988年、島根県生まれ。幼い頃から自身の性別に違和感を覚え、大学2年時に「Xジェンダー」という言葉を知り、自らのセクシュアリティを認識する。IT系の大学に進んだ後、臨床心理士の資格がとれる大学院に進学。現在は臨床心理士の資格を生かし、スクールカウンセラーとして働くかたわら、早稲田大学スチューデントダイバーシティセンター専門職員やNPO法人の理事も務める。

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INDEX
01 嫌いを好きに変化させるための仕事
02 言動をからかわれ続けた学生時代
03 唯一の支えと膨れ上がる違和感
04 希望にあふれた大阪への旅
05 大らかだった家族と厳しい家庭環境
==================(後編)========================
06 新たな居場所と迷走する自己表現
07 “Xジェンダー” というセクシュアリティ
08 自分自身の核を伝えていく意味
09 “自分は自分、人は人”という感覚
10 楽観的に思い描く明確なビジョン

01嫌いを好きに変化させるための仕事章名

自分を深く知るための進学

現在、臨床心理士として働いている。

もともと心理学に興味があり、大学受験のタイミングで「心理系に進みたい」と思った。

「高校の先生に『心理系に進んでも、就職先がほとんどないよ』って言われたんです」

「それだったらお金が稼げる仕事を目指そうと思って、IT系の学部に進みました」

大学2年生の頃、リーマンショックによって社会全体が大きな打撃を受けた。

“内定取り消し” のニュースは、これから就職活動を始める自分の耳にも届いた。

自分自身のセクシュアリティについて、深く悩んでいる時期でもあった。

「いろいろ重なって、抑うつっぽくなってしまったんです」

「その後、LGBT当事者が集まるサークルでXジェンダーという言葉を知って、自分のセクシュアリティを認識しました」

自分のこと、そして人のことを、さらに理解していきたいと思った。

適当に就活をして職に就ける時代ではないなら、自分がしたいことをやろうと思った。

「就職はせずに、臨床心理士の資格がとれる大学院を受験しました」

最短期間で受験資格を取得

臨床心理士の資格試験を受けるには、大学2年間、大学院4年間分の130単位取得と350時間の実習をこなし、さらに修士論文を書く必要がある。

「院に入ってから1年間に60単位くらい取って、2年生で350時間の実習を行いました」

「当時IT系のゲーム会社でインターンとして働いてもいたので、ひたすらにやり切る日々でした」

たった2年間で受験資格を得ることができた。

しかし、院を卒業することに精いっぱいで、一度目の資格試験には落ちてしまう。

「パートナーがいたんですけど、同時期に同棲を解消することになって、精神的にもダメダメで・・・・・・」

「2015年に再び受けた時は、しっかり受験対策用の教材で勉強して受かりました」

“嫌い” が原動力

臨床心理士を目指したきっかけの根本にあるものは、自分自身の経験。

現在スクールカウンセラーとして小学校や高校に携わっているが、実は学校が嫌い。

「嫌いな学校というものを、どうにか変えたいみたいな気持ちが原動力です」

「いじめとかも、本当に嫌だと思うんです」

嫌いな場所だからこそ、もっと好きになれる場所に変化させていきたい。

今はそう考えている。

02言動をからかわれ続けた学生時代

嫌だった「オカマ」というフレーズ

学校という場所では、誰も助けてくれないと思っていた。

小学生に上がった頃の自分は、言動に女子っぽい部分があった。

「ちょっと女の子っぽいことをすると、すぐマネされたり『オカマ』って言われたり」

「女の子っぽいことって、しちゃいけないんだなって思いました」

「家では『男らしくしなさい』って言われたことがなかったから、『オカマ』って言われる学校が嫌いだったんです」

茶化してくる相手はほとんどが男子だった。

殴る蹴るといった暴力的な行為には発展しなかったが、ノートを盗まれて落書きされるようなことはあった。

母親に相談したが、「あんたは女の子と仲良くしてるから、嫉妬されてるのよ」と言われた。

「お母さんはそう言うしかなかったんだと思うけど、少しショックでしたね」

深い傷跡を残した文集

中学校に上がっても、いじめが収まることはなかった。

同級生の男子から「お前、男が好きなんだろ」「ホモだろ」「服を脱いでみろ」と言われた。

「自分がナヨナヨして女々しいところがあったからかもしれないです」

「当時から私は男の子に恋愛感情が向いていたので、同級生も敏感に察知していたんだと思いますが、とても辛かったです・・・・・・」

高校生になってからも男子からは茶化され、心に深い傷跡を残す出来事が起こった。

1年生が終わる時、文集を作ることになった。

同じクラスの男子は、クラスメート1人ひとりに向けたメッセージを綴っていた。

「『○○君は明るいやつだった。また遊ぼうぜ』みたいに書いていく作文だったんです」

「その中で私のところには『オカマ。気持ち悪い』って書かれていたんです」

「ずっと残っていくものだし、その文集を燃やそうかと思うくらい嫌でした」

キャラとして扱われることの違和感

ありのままの自分でいると「オカマ」と言われた。

“オカマ”“オネエキャラ” として扱われることに違和感があった。

「自分の中では作ったキャラではなくて、自分そのものなんですよね」

「特に中高生の頃は性別について悩んでいたから、触れないでほしいって思いが強かったです」

「自分でも受容しきれていなかったし、いわゆる “オカマ” だと思いたくなかったし・・・・・・。葛藤がありました」

ただ普通に生きたかった。

周囲から女子っぽく見えることを、売りにしたくなかった。

注目される性的な部分以外で、自分には才能があると思っていた。

03唯一の支えと膨れ上がる違和感

支えとなった社会的な評価

小学校から高校までいじめは続いたが、学校を休んで引きこもることはなかった。

同級生の男子からは否定的に見られていたが、別の評価を得られていたからだ。

「自分で言うのも変ですけど、成績はよかったし、感想文や書道、版画のコンクールで入賞することが多かったんです」

「社会的に一定の評価を得られていたんですよね」

「だからこそ、自分らしく振る舞うといじめられる状況が納得できませんでした」

環境を変えられないのなら、自分自身を変えていくしかなかった。

そこで行きついたものが学業だった。

「もともと好奇心旺盛で、親に『なんで空は青いの?』『なんで人は死ぬの?』って聞いちゃう子だったんです」

「知識を得ることが好きだったから、勉強も楽しいなって思っていました」

「休み時間は居場所がなかったけど、授業は先生にちゃんと当ててもらえるから、自分の唯一の居場所だと感じられました」

その頃、心のどこかに「みんなと同じ次元にいたらダメだ」という思いも芽生えた。

クラスの中で評価されないならば、もっと上の人に評価される自分にならなければいけない、なりたいと。

「知的好奇心は自分に与えられた能力だから、大切にしたいって今でも思っています」

徐々にはっきりしてくる性別の壁

男子からのいじめは続いたが、決して1人きりだったわけではない。

小学生のうちは、女子と一緒に遊んでいた。

しかし、中学生になる頃、いつも一緒だった女子たちと距離が生まれた。

「中学生って恋愛に興味が湧く時期だし、私も声変わりしちゃって男っぽくなったからかな」

「女の子たちは男の子と一緒にいて、付き合っているように見られることが嫌だったんだと思います」

「でも、私は男女が徐々に分かれていく理由が理解できなかったです」

声変わりして男と見なされることが嫌だった。

しかし、女子っぽく見られることにも違和感があった。

心に秘めた恋愛対象

小学4年生の頃、恋愛感情を向ける相手が男子だと気づき始めた。

クラスの中で、唯一悪口を言ってこない男子がいた。

頭が良くてスポーツ万能。漫画に出てくるようなイケメンだった。

「女子からも一目置かれるような存在で、いいなって思ったんです」

「でも、『好きだ』って言ったらいじめがエスカレートすることはわかっていたから、口にはしなかったです」

恋愛の話もできず、中学に上がれば仲の良かった女子も離れていき、学校に居場所がないと感じた。

別の居場所を見つけるしかなかった。

04希望にあふれた大阪への旅

別世界の人たちとの出会い

中学2年の時、父親に「勉強のために使うから」とせがみ、携帯電話を買ってもらった。

「ケータイを持って田舎っぽさを排除して、みんなとは違うことを示していかなきゃ、って気持ちでした」

「インターネットで性別に関する情報を収集することもありました」

10代の集うチャットを通じて、19歳くらいの男子大学生たちと知り合った。

当時はよくわかっていなかったが、彼らはゲイかバイセクシュアルだったのだと思う。

中学2年から3年にかけての春休み、大阪まで会いに行くことを決めた。

「唐突にお母さんに『大阪行くね』って言ったら、『は?』って言われました(笑)」

「でも、お母さんの実家が兵庫にあって、『そこに泊まるならいいよ』って許してくれたんです」

母は一緒に高速バスに乗り、大阪まで付いてきてくれた。

「会う人の顔を見させて」と、男子大学生たちとの待ち合わせ場所まで来て、挨拶をしてから母は帰っていった。

「お兄さんたちには『丁寧なお母さんだね』って言われました」

「私が意味不明な子どもだったから、お母さんも心配だったんだと思います」

否定的に見られない環境

いままでネット上で触れ合っていた人と、直接会うという経験にワクワクした。

カラオケに行き、ゲームセンターでプリクラを撮り、他愛もない話で盛り上がった。

「お兄さんたちは音楽を趣味にしている人たちで、私も当時詞や曲を書いていたから、息が合ったんですよね」

「まだ14歳だったから、すごくやさしく接してもらいました」

「チャットで悩みを聞いてくれていた人たちだからこそ、その時は純粋に遊んだり話したりして、とても居心地が良かったんです」

「ちなみに、お兄さんたちに会うからちゃんとしなきゃと思って、金髪にしました(笑)」

「大人びたいと思ったんでしょうね。自分では大学生くらいに見えると思い込んでいました(笑)」

学校とは別の居場所ができたようで、気持ちが軽くなった。

05大らかだった家族と厳しい家庭環境

何事も強要しない家族

中学3年で金髪にした時、母は苦笑いしていた。

「『春休みだからいいけど、それで学校に行くのはよしなさいよ』って感じでした」

「お父さんは、髪の色には特に触れなかったかな」

昔の父は、短気で酒癖が悪くギャンブルもしていて、正直、苦手な面が多かった。

さらに、根っからの野球少年だった父は、息子に自分の夢を託そうとしていた。

「覚えてないんですけど、2歳くらいの私に野球ボールを持たせても、キャッチボールをさせても、何の興味も示さなかったらしいです」

「だから私が5歳くらいになった頃に、お父さんは野球選手にする夢を諦めたみたいです」

5歳上の姉もいる。

姉も野球をすることはなかったが、どちらかといえば男勝りなタイプ。

「小さい頃の私はすごく女の子っぽかったので、よく『お姉ちゃんと逆だね』って言われていました」

たった一度だけの苦い思い出

家族から「男っぽくしろ」「女っぽくするな」と言われたことはなかった。

ただ、一度だけ、母に「オカマっぽい」と言われたことがあった。

「5歳くらいかな。確か私が女の子っぽいものを欲しがった時に『オカマっぽいからやめな』って言われたんです」

「その言葉に傷ついて、いつもはお母さんと寝るのに、その日はお父さんと寝ました」

「オカマっぽい」と言われたことが嫌だったと、母に伝えた。

母は「ごめんね」と謝ってくれた。

「それ以来、家族から『オカマっぽい』とか言われたことはありません」

生きていくために探した術

決して裕福な家庭ではなかった。

洋服もリコーダーも、大体のものが姉のお下がり。

お金のかかるお願いは「ダメ」「お金がないから」と言われることが多く、「うちは厳しいな」と感じていた。

「だからかわからないけど、お金以外の面で頑張らなきゃ、って意識がありました」

「なんとかして自分自身で生きていかなきゃいけないみたいな」

家族は包み込んでくれたが家庭環境は厳しく、学校に行けばいじめられた。

生きづらさを感じたが、それでも生きるしかないと思っていた。

「生きる術として、勉強で評価されることが重要だと感じていたんでしょうね」

「中学生の時に出会った大学生たちのように、外界とのつながりも支えになっていました」

「小中学生の頃は綱渡りの部分も多かったけど、なんとかやり過ごしている感じでしたね」

 

<<<後編 2017/09/30/Sat>>>
INDEX

06 新たな居場所と迷走する自己表現
07 “Xジェンダー” というセクシュアリティ
08 自分自身の核を伝えていく意味
09 “自分は自分、人は人”という感覚
10 楽観的に思い描く明確なビジョン

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