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Writer/古怒田望人

「トランスフォビア」を探る

トランスフォビアという言葉は聞きなれない言葉かもしれません。直訳すれば「トランスジェンダーを嫌悪すること」という意味です。
直訳してみると簡単な現象のように思えますが、実は複雑な構造をはらんでいます。この記事ではこの複雑な構造を読み解いて行きたいと思います。

トランスフォビアとホモフォビア

トランスフォビアは、トランスジェンダーに対する嫌悪だとボクは書きました。けれど、トランスフォビアは別の差別のあり方、ホモフォビアという同性愛嫌悪とも絡み合っています。そのことをボク自身の経験を踏まえつつ見てみましょう。

「色目づかい」と「死の宣告」

ボクはジェンダー・クィアとして東京で生活をする研究者です。そして、トランスジェンダーの人たちや他のジェンダーの人たちと飲み交わすことが、何よりも楽しみになっています。

新宿歌舞伎町は、戦後からトランジェンダーが集うバーの集まりとして知られてきました。ボク自身、このトランジェンダーのようなクィアな存在への差別のないこの地域の中で、自分がジェンダー・クィアとして生きてゆく仕方を学んでいます。この街には様々なバックグラウンドの人間が集っており、ジェンダー表現やセクシュアリティが「問題」として差別されることがないのです。

ある日、この歌舞伎町の一画にあるゴールデン街のトランスジェンダーバーでお酒を飲んでいた時、泥酔していてなかなかお金を払ってくれないお客さんがいました。ボクはママさん二人と、お店の外でそのお客に支払いをするよう説得をしていました。そうした説得のさなか、ボクの対面上に外国人の観光客の一団が近づいてきました。

ボクは先頭で歩いていた白人男性に対して、挨拶のために、笑顔でアイコンタクトを取りました。すると彼は、ボクに対して少し「色目づかい」をしながらアイコンタクトで応答をしてきました。けれども、ボクとの距離が近づいた瞬間、彼の表情は一変しました。

まるで異物をみるようにボクをみて、すれ違いざまに「地獄に落ちろGo to hell」とささやいたのです。彼がどのタイミングで感じたのかは分からないですが、彼はボクの身体が表現するジェンダーがシス女性の表現ではないこと、クィアネスに気がつき、その存在に対して死を宣告することで、否定をボクに向けたのです。

嫌悪のありよう

ここには、ボクに差別的な言葉を浴びせた男性の、ボクへの嫌悪がみられます。その意味で彼のボクへの態度は、トランスフォビアです。けれども、彼は「誰」を「地獄に落とすGo to hell」と言いたかったのでしょうか。それは男性とも女性ともとれないクィアなボクでしょうか。そうではないようにボクには思えます。

彼が地獄にまで陥れることで消し去りたかったのは、異性愛者でありながら生物学的、形態学的には同性であるボクに、色目を使ってしまった自分自身なのではなのではないでしょうか。一瞬でも自分がホモセクシュアリティを生きてしまったことに、彼は自分を許すことができず「地獄に落ちろ」とボクに発したのです。というのも、自分が色目を使ったボクの存在がなくなれば、彼自身の自己への嫌悪はないものとなるからです。

ホモフォビアとトランスフォビアの絡み合い

この事例から見えてくることは、セクシュアル・オリエンテーションから生まれる「ホモフォビア」と、ジェンダー・アイデンティティを否定する「トランスフォビア」が、必ずしも分離できるものではなく、絡み合ったものだということです。

ボクに「地獄に落ちろ」と発した彼は、確かにジェンダー・クィアであるボクへのフォビア、嫌悪を示しています。けれども、そのような「地獄に落ちろ」と発した彼の真意のなかには、自分をゲイとして認めたくないという、ホモフォビアが含みこまれています。

彼のセクシュアル・オリエンテーションへの嫌悪は、ボクのジェンダー表現への嫌悪と、切り離すことができません。こう考えてみると、誰かを好きになるありかたとしてのセクシュアル・オリエンテーションと、自分の性を引き受けるありかたであるジェンダー・アイデンティティとは、キッパリとは分けることができないことが分かってきます。

このようなホモフォビアとトランスフォビアの関係性について、ガイル・サラモンという哲学者は以下のように記述しています。

「ある面で、次のことは明らかなように見える。多くの識者が指摘してきたように、ゲイへのバッシングやホモフォビアにまつわる暴力は、『ジェンダー』の境界線を区切るためにまさに使われている。セクシュアル・オリエンテーションとジェンダー・アイデンティティが、決定的に関係のないもの同士だと主張してしまうと、たとえたとえこの2つのカテゴリーが相互を形作るのではない時でも、この2つのカテゴリーが相互的に影響を与え合う仕方を、見過ごすことになってしまう」(Salamon, Assuming A Body, Columbia University Press,2010,127)

ボクに差別的な言葉を向けた彼がしていたように、ホモフォビアは、ボクのようなクィアなジェンダー表現を提示する存在を排斥し、「「ジェンダー」の境界線を区切る」のです。セクシュアル・オリエンテーションへのある一定の態度―― 嫌悪 ――は、サラモンが語るように、人々のジェンダー・アイデンティティの表現を規制するものでもあるのです。

トランスフォビアが見えなくなる

前章では、トランスフォビアが現れることで見えてくるトランスフォビアの構造についてみてゆきましたが、今度はトランスフォビアが見えなくなることで現れてくる構造についてお話ししたいと思います。

ジェンダー・アイデンティティとセクシュアル・オリエンテーションのすみ分け

ジェンダー・アイデンティティとセクシュアル・オリエンテーションとは、一般的には区別されます。なぜかと言うと、例えば、ゲイ(セクシュアル・オリエンテーション)の方だからといって、必ずしも女性という性を引き受けるわけではない(ジェンダー・アイデンティティ)からです。

ゲイとは、多くの場面において、「男性として男性を好きになる」方を指します。このように、ジェンダー・アイデンティティとセクシュアル・オリエンテーションはLGBTsを適切に理解する一つの指針となるのです。

トランスフォビアが隠蔽されるとき

けれどもこのようなすみ分けがなされない場合があります。先ほど参照した哲学者のサラモンは『ラティーシャ・キングの生と死』(New York University Press,2018)において「ラティーシャ」と自らを呼んでいたトランスジェンダーの少女の殺害事件を取り上げています。

2008年にオックスフォードのハイスクールで起きたこの事件は、ラティーシャが告白をしたブランドン・マキナニーという少年が学校に拳銃を持ち込み、授業中にラティーシャを射殺したというものです。

当初から裁判に至るまで、この事件はブランドンが「ラリー・キング」という「少年」へのホモフォビアに端を発した事件として扱われました。

けれどサラモンは上記の著作の中で、ラリーが自らを「ラティーシャ」と呼んでいたことや少女の姿で登校していたことなどに触れつつ、この事件が実際にはトランスフォビアに関わる事件であると論じています。

このような議論を通してサラモンは、トランスフォビアが現場でも法廷でも見えなくなり、トランスフォビアとホモフォビアという区別が曖昧になってしまうことの危険性を議論しています。

このように、時としてトランスフォビアは見えなくされ、トランスジェンダーが存在していたという事実が否定されてしまうのです。

より見えなくなるジェンダーとしての人種

サラモンはさらに、ラティーシャが「黒人の」トランスジェンダーであり、ブランドンが白人至上主義者であったという事実、またこの事実に対して裁判においてほとんど言及がなされなかったことに注目しています。

有色人種のトランスジェンダー、通称「トランス・オブ・カラー」が受ける差別はとても強いものです。暴行を受けたり殺害されたりするトランスジェンダーの多くがトランス・オブ・カラーだと言われています。

有名な事件では1995年にタイラー・ハンターという黒人トランスジェンダー女性が自動車事故にあったにもかかわらず、「トランス・オブ・カラー」という理由で救命措置が施されず亡くなったというものがあります。

ラティーシャの事件においては「ラティーシャ・キング」というトランスジェンダーの少女の存在が否定されただけではなく、「ラティーシャ」という黒人名に込められた「トランス・オブ・カラー」としてのアイデンティティも否定されたのです。

このように、トランスフォビアをめぐる事例においては、二重三重のジェンダーが見えなくなる現象が起こりうるのです。

トランスフォビアから見えてくること

さて、このようにトランスフォビアを概観してゆくことで、どのようなことが見えてくるでしょうか。

ジェンダー・アイデンティティとセクシュアル・オリエンテーションの絡み合い

まず、第一章のボクの事例から見えてきたように、ジェンダー・アイデンティティとセクシュアル・オリエンテーションは、トランスフォビアにおいて必ずしも切り離せるものではなく相互に影響を与えていることが分かります。

一般的な言葉に言い換えれば、人は自分の性を引き受ける時に誰かとの性愛関係において引き受けるのだし、逆に、誰かとの性愛関係には自分がどのように性を引き受けているかが問題となっていると言うことができるでしょう。たとえばいくら生物学的には男性でも引き受けている性が女性であるならば、その方の女性との恋愛は同性愛なのです。

ジェンダーやセクシュアリティという現象を注視すること

ですが、ラティーシャ・キングの事件から見えたように、ジェンダー・アイデンティティとセクシュアル・オリエンテーションを結びつけることは、誤解を招く恐れもあります。

それだけではなく、人種、「トランス・オブ・カラー」のようなジェンダーの側面も見えなくさせてしまう恐れがあります。

では、ボクたちはどのように考えればよいのでしょうか。一つには、その人の「個体性」に注目するということがあります。

ここでの「個体性」とは「どれだけ定義をしていってもしきれない」ということを意味します。どういうことかというと、例えば自己紹介をするときに「ボクはジェンダー・クィアで、パンセクシュアルで、研究者で。。。。。」と説明していっても、どこまでもボクのオリジナリティー、言い換えれば誰もボク以外には持たないようなあり方は存在しません。だからといって個体性がないという訳ではなく、この「説明しきれなさ」にこそ個々人の個体性、エマニュエル・レヴィナスという哲学者の言葉を使えば「特異性」が垣間見られるのです。

そのためトランスフォビアと一口に言っても、それぞれのケースの置かれた状況に応じて、ジェンダーやセクシュアリティのありようは変わってきます。トランスジェンダー問題と一括りにすることなどできないのです。

だからこそボクたちは、それぞれのトランスフォビアのうちにあるジェンダーやセクシュアリティの構造を注視する必要があります。そうして初めて、トランスフォビアへの対応が可能になるのではないでしょうか。

 

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