02 女性観察に終始した中高生時代
03 母親の理想
04 結婚、そして出産
05 女性が怖い
==================(後編)========================
06 自分は、男だったんだ!
07 後悔する材料は何もない
08 夫がいて実子のいるFTM
09 男として生き始めて思うこと
10 誰もが自分の性を受け入れ、受け容れられる社会に
01”男ったらし” と呼ばれて
どうして男じゃないんだろう?
物心つく頃から小学校低学年くらいまでは、男女の別なくみんなで一緒に遊んでいた。
多くの人が、そうだと思う。
しかし、小学4、5年生くらいになると女の子の体つきが徐々に変化してくる。
男の子も女の子も ”性” を意識し始めるようになった。
「僕も、小学4年生か5年生くらいの時に『何か違うぞ』と気がつきました」
「クリスマスプレゼントに『おちんちんがほしいな』って、思って(笑)」
ずっと女の子として育てられてきたし、何より身体的特徴はまぎれもなく女の子だから、自分が女の子であることは理解していた。
「その上で、『なぜ自分は男じゃないんだ?』『どうして男になれないんだろう』と思いました」
そんな性の違和感を抱きながらも、「性自認」や「性指向」などということは知る由もない。
あまりにも幼かった。
「僕が子どもだった頃は、インターネットも普及していなかったから、今ほど情報はあふれていませんでしたし、とくにセクシュアリティ関連の情報に触れることなどまったくありませんでした」
「だから、『なぜ男じゃないんだ?』という疑問が浮かんだのも一瞬の気の迷いというか、気のせいだ思ったんです」
ただ、他の女の子たちが次第に同性同士でグループを作り、”女の子らしい” 遊びをするようになってからも、自分は男の子たちと遊ぶほうが断然楽しかった。
やがて周りの女の子たちから「男ったらし」と呼ばれるように。
自分たちの輪の中に入らず、男の子とばかり一緒にいたからだ。
100人ほどいた、同じ学年の女子のほぼ全員から口をきいてもらえなくなってしまった。
女子トイレ事件勃発
そこへ追い打ちをかけるような事件が起きる。
性教育が始まると、男の子たちは女の子の生理に興味を持って、女子トイレをのぞきたがった。
「『だったら入ってみる?』と、彼らを体育館の女子トイレにご案内したんです(笑)」
彼らは、一度入ってみたらそれで気が済むようだったし、自分でも大したことではないと思ったのだ。
でも、そのことが女の子たちに知れてしまい大問題に。
「そりゃ、今思えば当然のことですよね(苦笑)」
担任の先生とクラスの女子全員、そして自分の間で話し合いがもたれた。
先生の提案で「今後いっさい男の子と遊ばない。口もきかない」という約束をし、和解した。
悪気がなかったとはいえ、「どうやら大変なことをしてしまった」ということは理解していた。
「口もきいちゃいけないなんて、と納得しない気持ちもありましたけど、すぐ後に修学旅行が控えていて、ここで和解しなければ修学旅行に参加できないと思ったんです」
「また、田舎の小さな町なので、小学校の同級生のほぼ全員が同じ中学校に進むんですね。彼女たちにハブかれたまま、あと3年間も過ごすのはさすがにキツイので、その条件をのみました」
修学旅行には行くことができた。
「部屋割りの関係で、人数の足りない女子グループと一緒に行動していました。会話はややぎこちなかったですけどね(苦笑)」
02女性観察に明け暮れた中高生時代
女子の輪の中に入らなければ
中学校に入ってからは禁が解かれ、男子と口をきけるようになった。
その頃には男子も女子を意識し始めていたから、小学校のように一緒に遊ぶことはなくなった。
「でも、頭の中は『とにかく女子の輪になじまなくちゃ』という考えでいっぱい。遊びも会話も、周りの女の子たちに合わせていました」
当時、女の子の間ではアイドルグループ『光GENJI』が大ブームに。
「ジャニーズの誰が好きかではなく、『光GENJI』の誰が好きかという話ばかりでした」
「僕としては、彼らにまったく興味はなかったけれど、そんなことを言える状況ではなくて」
「誰? 誰?とずっと聞かれるので、しょうがないから一人に決めて、彼のことが好きだと言ってましたね」
「でも、それが誰だったか・・・・・・。忘れてしまいました」
努力のかいあって、仲良くしてくれる友だちもでき、それなりに楽しい毎日を送っていた。
制服のスカートはOKだったけれど
高校に進む頃には、会話も趣味も行動も女子に合わせるのが習慣になっていた。
「女の子らしくしていること」に、さして苦痛を感じることもなかった。
不思議なことに、服装についても「スカートOK」だった。
「もともと服装に無頓着だったから、何を着ていてもよかったんです」
「中学高校ともに制服はスカートでしたけど、まあ、こういうものなのかなと」
ただ、胸がふくらみ月に1回生理がやってくるという、体に対する嫌悪感は日に日に大きくなっていく。
「スーパー銭湯とかに行くと、女性の体を直視できませんでした。ふくらんだ胸、丸みを帯びた体つきを見ると、『ああ、自分もあの人と同じ体なんだ』と現実をつきつけられて落ち込んでしまうから」
姿見で自分の姿を見るのも、嫌。
でも、なぜ自分がそう感じるのか、その理由はわからなかった。
「その頃には、テレビドラマの影響で性同一性障害についても知ってはいたのですが、自分とはまったく違う世界の話だと思っていたんです」
03母親の理想
女の子は女の子らしく
幼い頃から、やんちゃだった。
そんな、女の子らしくない娘をいかに女の子らしくさせるか、母親は気をもんでいたようだ。
小学校1年生だったある日、近所の男の子が通っているという剣道教室について行った。
道着姿で竹刀を振っているみんなの姿に惹かれ、母親にせがんで剣道の稽古に通い始めた。
ただ、引っ越しやら塾に通い始めるやらで同年代の子たちが次々にやめ、生徒が上級生1人と自分のたった2人になってしまったので面白くなくなり、やめてしまった。
すると母親が、「あなたの言うことを聞いて剣道に通わせてあげたんだから、今度はお母さんの言うことを聞きなさい」と言った。
ピアノを習わされることに。
「母親は、娘というものに理想を抱いていたみたいで。当時は、女の子の習い事といえばピアノという風潮でした」
母親は娘である自分に、どうしても習わせたかったのかもしれない。
母の ”憧れ” の女子短大生になる
高校卒業後の進路についても、母親には娘に対する夢があった。
女子短大生になることだ。
「僕は警察官になりたくて試験を受けたのです」
「最終選考で落ちてしまった。すると母が、『私は就職に反対だったのに警察官の試験を受けさせてあげたんだから、今度は私の言うことを聞いて。短大に行きなさい』と」
「母親は娘を大学に行かせたいというより、『女子短大生』という響きに憧れていたようです」
「『うちの娘は女子短大に通っている』と、近所の人たちに言いたかったんでしょうね」
自分では、警察官になれないなら、漠然と大学に通うより専門学校に進んで専門的な知識や技術を身に着けたいと考えていた。
しかし、高校の先生も「専門学校より短大へ」と母親の味方について、結局、女子短大に通うように。
当然ながら、そこは教師や職員を除いては全員女子。
今の自分ならいたたまれない気持ちになるかもしれないが、通っていた高校では男子より女性のほうが数が多かった。
3年では女子クラスになったので、女子だけの環境には慣れていた。
「長年、女子になじむ訓練もしていましたしね」
しかし実際には、女性だけの環境に慣れていたわけではない。
そのことに気づいたのは、ずっと後のことだ。
04結婚、そして出産
男性を好きになった
短大は県外にあり独り暮らしをしていたので、せめて生活費は自分でと、アルバイトを始めた。
そこで男性を好きになった。
相手は、18歳年上の上司。
彼も好意を寄せてくれていた。
とはいえ年齢が離れていたので、二人とも結婚する気はなかった。
彼いわく「ほかに好きな人ができたら、いつもでもそっちにいっていいよ。それまで、楽しくつきあえればいい」。
自分もそのつもりだった。
ところが、短大卒業後の進路を考え始めた頃、バブル経済が弾けて就職氷河期に突入した。
自分も、いっこうに就職先が決まらない。
「かといって実家に戻るつもりはなかったので、彼に『籍を入れていいですか?』って(笑)」
思えば、彼と一緒にいると気楽だ。
年齢的にも彼が大人だから、単に頼れる存在だと思っていたが、それだけではないような感じがする。
どうやら彼も同じように感じていたようで、話はすんなりまとまった。
しかし、故郷の両親、とくに母親は結婚に大反対。
ついに許しは得られず、式は挙げないまま籍を入れた。
21歳の時のことだ。
子どもがほしい、育てたい
結婚当初から、子どもがほしいと思っていた。
「母性本能からというより、単純に、子どもを育てる経験がしたかったんです」
「でも、なかなか妊娠しなくて、結婚10年目くらいの時に一度、子どもをあきらめようと」
そんなある日、何かの拍子で夫婦げんかが始まった。
理由は、他愛ないことだったような気がする。
「お互い、興奮して何がなんだかわからなくなって(笑)、『ホントは子どもがほしいのに』とポロッと言ったんです」
売り言葉に買い言葉で、夫は「じゃあ、病院に行けばいいじゃん」と言い、「だったら協力してよ」という話になり・・・・・・。
それまでは、子どもは授かりものだと思っていて自然妊娠を待っていたが、お互いの年齢を考えるとそれはむずかしい。
医学の力を借りることにした。
体外受精は成功。
結婚13年目にして、男の子を授かった。
「うれしかったですよぉ。子どもはかわいいです」
「日に日に成長していくから、つねに新しい発見の連続。それが楽しくて」
夫も息子がたまらなくかわいいようで、家族の時間を第一に考えてくれた。
幸せだった。
05女性が怖い
突然のフラッシュバック
しかし、41歳の時に状況が一変した。
ある日突然、子どもの頃の記憶がよみがえった。
それによって重度のうつ病にかかってしまったのだ。
発病のきっかけの一つに、息子のことがあった。
「息子が直接の原因というわけではありません」
「6歳になった息子を見た時、自分がちょうど息子ぐらいの頃に母親が弟だけを連れて家を出ていったことを思い出してしまったんです」
幼い頃から、母親と父親は不仲だった。
父親は酒乱気味で、同居していた父方の祖母、つまり母にとっては姑との間もうまくいくはずがなかった。
そんな状況に置かれたら出て行きたくもなるだろうと、今でこそ母親の気持ちも理解できるが、当時はわかるはずもない。
「しかも、自分だけが取り残された・・・・・・」
「『あんたは小学校に行っていたから、一緒に連れて行けなかった』というのが母の言い分でしたけど、子どもにしてみれば、母親に捨てられたとしか思えませんでした」
その時の情景が、画像としてフラッシュバックした。
一晩中、震えが止まらなかった
母親に捨てられたと思った時のショックがよみがえっただけではない。
「母親に抱き締められて、体の震えが止まらなかったことを思い出してしまったんです」
父親は酒癖が悪いだけでなく、自営業だったため収入が安定しない。
しかも弟は病弱で、病院通いが続いていた。
母親はつねに大きなストレスを抱えていて、そのはけ口が自分だった。
「毎日、学校から帰ると母親の暴言が待っていて、ときに暴力を振るわれることもありました」
「怖かった・・・・・・」
弟を連れての母親の家出は何度か繰り返された。
ある時、いよいよ離婚するとなって、その話し合いのために母親が家に戻ってきた。
「そして母親が言うわけですよ。あんたは私についてくるのか、お父さんについてくるのか、って」
いつもつらく当たられて、「お母さんについていく」とは口が裂けても言えない。
でも、父親を選んだら「なぜ私を選ばないのか」と、また激しく責められるのは目に見えている。
すごく悩んで悩んで出した答えが、「お父さんは家事ができないし、おばあちゃんも病気で何もできないから、自分がここに残ります」。
「自分としては苦肉の策というか、母親について行きたくない一心だったのですが、母親はそれを聞いて『つらい思いをさせてごめん』と言って、抱きしめてきたんです」
その瞬間、体が震え出した。
うれしかったからではない。
「ああ、お母さんが戻ってきてしまう。また地獄の日々が始まる・・・・・・。そう思ったら、ものすごい恐怖に襲われてしまって」
その時の恐怖がよみがえり、一晩中、体の震えが止まらなかった。
女性恐怖症再発。そして・・・・・・
強烈なフラッシュバックに対応できず、脳のブレーカーが落ちてしまった。
体が重く、なかなか起き上がれない。
「これはまずい」と精神科の門をくぐると、重度のうつ病と診断された。
母親に抱きしめられた時の体の震えを思い出したことで、母親=女性に対する恐怖感、拒絶感がわいてきた。
実はそうした女性恐怖は以前からあったが、結婚後は治まっていた。
両親を早くに失くしてつらい思いをした夫は、自分のつらい思い出話にもきちんと耳を傾けてくれたので、母との間にあったことを忘れることができていたのだ。
しかし、フラッシュバックによって女性恐怖症が再発。
すでにセラピストとして10年のキャリアを積んでいたが、女性客に対応できなくなってしまった。
うつ病の症状もさらに悪化し、いつしか、死ぬことばかり考えるようになっていた。
<<<後編 2017/12/19/Tue>>>
INDEX
06 自分は、男だったんだ!
07 後悔する材料は何もない
08 夫がいて実子のいるFTM
09 男として生き始めて思うこと
10 誰もが自分の性を受け入れ、受け容れられる社会に