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Writer/チカゼ

バイセクシュアルが異性と結婚することは、妥協じゃない

こんなふうにセクシュアリティを公言しながら文章を書いていると、ちょくちょく非難めいた言葉をぶつけられることがままある。「バイセクシュアルだって言っているけど、結局、あなたは男性と結婚したんですね」というコメントを頂いたことも、一度や二度ではない。

女性と恋に落ちる機会が少なかっただけ

わたしの身体は女性だけど、性自認はそれと一致しない。けれども男性ではないので、ノンバイナリーとかXジェンダーに当たる。そして性的指向は、成人するまでずっと男性に限られると思い込んでいた。

恋愛対象は男の子だけ、と疑わなかった10代のころ

思春期に入ってから、恋をするのも、付き合うのも、男の子だけだった。自分の体と心のズレは物心ついたころには自覚があったけれど、女の子を好きになったことは一度もなかったから、その可能性については疑いもしなかったのだ。

自分は「女の子」じゃない。でも、「男の子」ではない。そのことについては悶々としていたけれど、身体が「女性」だったから、恋愛対象について思い悩むことはほぼなかった。黙っていればわたしは「女の子」に見えたし、シス男性はわたしを「女の子」として扱う。そのため恋人を作るのは容易かったし、出会いにはさほど困ることもなかった。

女の子を初めて好きになったのは、19歳のときだった

長い間自分の恋愛対象は間違いなく男性だと信じ込んでいたので、19歳で初めて女の子を好きになったときは、酷く戸惑った。もっと一緒にいたいとか、2人きりで過ごしたいとか、他の子と仲良くしないで欲しいとか、友達に抱いたことのない気持ちを自覚したときは、すごく動揺して、びっくりして、そして、気付かないふりを決め込んだ。

これは女の子同士の親密な2人組によく起こる、ちょっとしたかわいいヤキモチなのだと思い込もうとした。その子が彼氏と話している場面を見かけて、浪人中の当時、通っていた予備校のトイレでこっそり泣いたりもしたけれど、気のせいだと必死で自分を誤魔化し続けた。

まだLGBTという言葉すらろくに浸透していない時代だったから、身体が女性である自分が女性に恋をするなんてことを、受け入れられなかったのだ。だからわたしは、その感情を認めることすら当時はできなかった。

好みの女性に出会う機会がたまたまなかった

大人になってから振り返ってみると、たぶんわたしは好みのタイプの女性に出会う機会にさほど恵まれなかっただけなんだと思う。結局は恋愛も巡り合わせだし。

それに今よりもっと異性愛が “普通” とされる時代だったから、ヘテロ女性以外の女性よりもシスヘテロ男性との出会いの確率の方が圧倒的に高かった。もしそのころセクシュアリティに自覚的であったとしても、恋愛関係に陥るのに容易なシスヘテロ男性と付き合っていた気がする。

わたしが10代のころはまだセクシュアル・マイノリティ用のマッチングアプリなんて普及してなかったし、だいたい未成年だったから新宿二丁目にも行けないし、過干渉な家庭で育ったためオフ会への参加もまず無理だった。もし女性の恋人が欲しいと思い至ったとして、出会いの機会すらなかっただろう。

バイセクシュアルを自覚したきっかけ

自分のセクシュアリティに無自覚だったわたしが「女性も恋愛対象である」ということに気づいたのには、もちろんきっかけがある。もしかするとちょっと特殊な自覚の仕方だったかもしれない。

カウンセラーさんに言われた一言

20歳から8年間うつ病を患っていたのだが、そのときに通っていたカウンセリングでは自身の男女どっち付かずの性自認についても話していた。セクシュアリティが原因で精神疾患を患ったわけではなかったけれど、少なからず影響を与えているのは事実だったから。あるとき、話の流れで性的指向を臨床心理士さんに訊ねられたことがある。わたしが迷いなく男性に限られると断言すると、先生はボソリと「恋愛対象は男性って明確に限定されているんですね」と呟いた。

そこでふと、「あれ、わたしってなにを根拠に男性にしか恋愛感情を抱けないと思ったんだっけ」と疑問が湧いたのだ。他人の口から改めてそう言われてみると、途端に自信がなくなった。するとそれに気がついた先生も、「そのことについてももう少し掘り下げてみましょうか」と言い出した。

バイセクシュアルは「気持ち悪い」?

そのカウンセリングの中で、わたしは高校時代のある忌々しい記憶を取り戻すことになる。冬の終わり、春休みを目前に控えた2年生の3月、たしか土曜日だったと思う。午前中で授業が終わるから放課後公園にでも行こうかという話になり、同級生数名で駅前のコンビニへジュースやお菓子の買い出しに繰り出した。

陳列棚を物色していると、不意にその近くの雑誌コーナーの猥雑な青年誌が目に入った。水着の女性がポーズを取っている表紙に、目が釘付けになったのをよく覚えている。触れたい、とそのときたしかに、思ってしまった。

それを、運悪く同級生の1人に勘づかれてしまったのだ。「きもちわるーい」とわたしを見下ろす、彼女の汚いものを見る目つきを、今でもありありと思い出すことができる。その瞬間、カッと顔に血が昇った。混乱と恥ずかしさで、どうにかその場を取り繕うのが精一杯だった。ろくな言い訳もできず、自らの性の萌芽に戸惑い、その結果、わたしはその記憶を段ボールに放り込んでガムテープでぐるぐる巻きにして、心の地下室に投げ入れて厳重に鍵をかけた。そしてそれきり10年近く思い出すこともなく、その出来事自体をすっかり忘れてしまっていたのだ。

トラウマになっていたんでしょうね、とカウンセリングルームでそれを思い出したとき先生は言った。今ならそれはごく自然な感情だったと、わたしも言える。でも、17歳のわたしにとっては、どうしようもなく恥ずかしいことだった。そんな自分が雑誌以上に低俗で下劣な存在に思え、激しい自己嫌悪に陥ってしまったのだ。

「両方好きになれるから」異性を選んだわけじゃない

カウンセリングによって自身の恋愛対象に女性も含むことを自覚したわたしは、今現在は男性と結婚している。そのことに対してときたま、ちょっと嫌なことを言われることもあったりする。

「男の人もいけるんだったら、そっちにしときなよ」

そのカウンセリングがあったしばらくあと、好きな女性ができた。数回デートを重ねて、彼女の方もなんとなく自分に好意を示していてくれたのだけれど。

彼女はレズビアンだったから、自分がバイセクシュアル── もしくはパンセクシュアルかもしれないが、今までシス男性及びシス女性にしか恋をしたことがないため、暫定的にバイセクシュアルとしておく── であることを、なかなか打ち明けられずにいた。なんとなく、後ろめたく感じてしまっていたのだ。

でも黙っていることにだんだんと耐えられなくなって、ある日酒の勢いに任せて「わたし男の人とも付き合ったことあるんだよね」と打ち明けた。すると、それまではしゃいでいた彼女の目から、さっと熱が引いた。しばらく沈黙したのち、彼女は「男の人もいけるんだったら、そっちにしときなよ」と引き攣った笑顔で言った。彼女とは、結局それきりになってしまった。

もしそれを告げなかったら、どうなっていたんだろう。彼女と付き合うことはできていたのかもしれない。けれどもなぜ、「そっちにしときなよ」なんて言われなきゃいけないんだ。

まるで今わたしが彼女を好きだと思う気持ちが、どこの誰とも知らぬ「男性」への恋心よりも浮ついていて軽くていい加減なものみたいじゃないか。そんなんじゃないのに。

バイセクシュアルは「迷っている人」じゃない

彼女が本当のところどう思っていたかなんて、今はもう知る由もないけれど。でもバイセクシュアルは、レズビアンやゲイのコミュニティで排除されやすい風潮をまざまざと肌で感じることがある。異性愛が “スタンダード” とされてしまいがちな社会において、わざわざマイノリティのコミュニティに踏み込んで来るなという、鬱屈した気持ちから来るものだろう。

でもわたしは、「男性だから」「女性だから」だれかに恋をするわけじゃない。異性愛者が “異性” というだけの理由でだれかに恋をするわけではないのと同様に。セクシュアリティに迷っているから、とりあえず「男性・女性とも恋愛対象です」と自認しているわけじゃない。ただ単純に、男性にも女性にも恋をすることがあるという、それだけの話なのだ。

一緒にいたいと思った人が、男性だっただけ

夫と結婚したのは、夫が男性だったからじゃない。出会って、好きになって、今後の人生の伴侶になって欲しいと望んだのがたまたま男性だった、ただそれだけのことだ。法律上 “夫婦” になったのは、偶然わたしの身体が女性で、そのため婚姻関係を結ぶことができたというだけの話に過ぎない。

妻の欄に自分の名前を書くことに、抵抗はもちろんあった。それでも、いろんなことを考えて同じ戸籍に入った方が便利だと考えて、届けを提出した。だけど、現在の法制度に納得しているわけじゃない。都合良く聞こえてしまうかもしれないが、わたしは「逃げた」わけでも「楽な道を選んだ」わけでもないのだ。

無意味な分断よりも、手を繋ぎたい

バイセクシュアルはセクシュアル・マイノリティのコミュニティから排除されやすいが、マジョリティからもまた差別を受ける。そのため居場所を見つけづらく、生きにくさを感じる人が多いように思う。このことはけっして軽んじていい問題ではない。

マイノリティ同士で分断することに、なんの意味があるのか

シスヘテロがマジョリティであるこの社会で、バイセクシュアルは間違いなくマイノリティだ。レズビアンやゲイと比べてバイセクシュアルは「マジョリティ寄り」であるように論じる人がときたまいるが、その主張は限りなく無意味であることに気がついて欲しい。

「マジョリティに近いんだから/マジョリティのふりができるんだから、自分たちよりはまだマシだろう」みたいに、どちらがより生きにくいかを競って、不幸かを測って、それで勝ったとして、いったい何になる?

数の少ない者同士でやらなきゃいけないのは、分断じゃない。手を繋ぐことだ。できる限りマジョリティに声が届くよう、連結は必要不可欠なのだ。

「後ろめたさ」はあるけれど

身体女性であるわたしがシス男性と結婚したことに対する「後ろめたさ」のようなものは、正直ある。同性カップルの方に対してなんとなく申し訳ないような、裏切ってしまったような気持ちは、常に抱えている。その気持ちは正しいものではないけれど。

けれども、繰り返しになるけれど現在の婚姻制度にはちっとも納得していない。婚姻届の「妻」の欄に自分の名前を書いたときのあのやるせなさは、今でも思い出すと苦々しい。

戦いから降りたわけじゃない

シス男性と結婚したからといって、セクシュアル・マイノリティの権利獲得の戦いから降りたつもりは一切ない。わたしだってこの不平等な法制度に腹を立てているし、札幌地裁の違憲判決は涙が出るほど嬉しかった。

これからだって、声を上げ続ける。もう、セクシュアル・マイノリティ内で分裂することはやめにしないか。「結局、あなたは男性と結婚したんですね」なんて言葉をぶつけることはどうかやめにして、ただ一緒に、手を繋いで欲しい。

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