INTERVIEW
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“性別がわからない” から “性別を決めていない” になるまで。【前編】

はにかむように微笑みながら、自分が発する言葉を一つひとつ確認するように、ゆっくりと話す阿保和馬さん。いくつかの言葉を交わすだけで、慎重で真面目な人柄だとわかる。慎重だからこそ、小さな疑問にも足を止め、自分なりの答えが出るまで、じっくりと悩み続ける・・・・・・。そんな風に一歩一歩生きてきたのだろう。21年のストーリーには、そんな阿保さんの生き方が映し出されていた。

2022/01/22/Sat
Photo : Tomoki Suzuki Text : Kei Yoshida
阿保 和馬 / Kazuma Abo

1999年、青森県生まれ。幼い頃に、父が糖尿病の治療のために入院したのち、リハビリ施設に移ってから、母と弟と3人で暮らしている。いつもひとりで遊んでいるような静かな子だったが、中学生のとき、あることをきっかけにいじめにあう。そのトラウマから、再び周囲と距離をとるようになってしまったが、高校生のときに、勇気を出して友だちに自らの性別について話すなど、次第にオープンな姿勢を心がけるようになる。現在、弘前大学理工学部数物科学科4年生。

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INDEX
01 母が育んでくれた自立心
02 ひとりのほうがいい
03 もしも自分が女の子だったら
04 性別がわからない
05 勇気をもって踏み出したら
==================(後編)========================
06 性別なんて気にしない
07 数学の教師になりたい
08 クエスチョニングだからこそ
09 カミングアウトすべきか
10 これからの10年は “挑戦”

01母が育んでくれた自立心

仕事も家事も頑張る母を助けたくて

小学校高学年のときに、父が糖尿病で入院した。

父も母も郵便局員として一緒に働いていたが、父は働くことが難しくなり、母は、父のケアがしやすいように介護士へと仕事を変えた。

のちに父の病気は改善したが、後遺症として半身麻痺がいまも残る。

中学校に入ってから、父はリハビリができる障害者施設へと移り、母と弟と自分、3人での生活が続いている。

「母は地元にある高齢者の介護施設で働いてます」

「働いて、家のこともやって・・・・・・子育ても」

「父が入院するまでは、学校から帰ってきたら家に母がいることが当たり前だったけど、いないことも増えていって、母の大変さを感じてました」

まだ幼かった2つ年下の弟も、母がいないときに駄々をこねることはなく、兄弟で協力して家事を分担するようになっていった。

「できるだけ、母が大変な状況になってしまわないように、料理を手伝ったり、洗濯をしたりしてました」

「母も母で、僕たちをしっかりとサポートしてくれて。僕たちに、やりたいことがあれば、できるように支えてくれるような人です」

「例えば、大学進学の際に、共済の手続きを手伝ってくれたりとか。常に、僕や弟の意志を尊重してくれました」

ひとりで遊んでいるような子

実は、父の入院以外にも、祖父母の入退院や手術、そして母自身が甲状腺癌の治療のために短期入院したこともあり、苦労の絶えない日々だった。

「お見舞いに行ったときには、病気や怪我をしている人のケアやサポートはどうすればいいのかを、日々の生活では、母親がいないときにはどうやって暮らせばいいのかを、母はさりげなく僕たちに教えてくれました」

「母に苦労をかけたくない」という気持ちで過ごしていたせいか、例えば悪戯をして叱られるということは、ほとんどなかった。

「なんていうんですかね、小さい頃はボケッとしていて、不思議な子だったみたいで。母も、僕のことを『周りの子とは、ちょっと違う感じ』と思っていたんだと、大人になってから聞きました(笑)」

「友だちと一緒に、というよりもひとりで遊んでるような子だったからかな。いつもトミカとプラレールで遊んでました」

「いまも、新幹線は好きですね。東北新幹線の『はやぶさ』が特に好きで、模型も持ってます。弟もトミカが好きで、よく一緒に遊んでたんですが・・・・・・」

「大人になったいまは、ほとんど話さないですね(笑)」

02ひとりのほうがいい

「なんで友だちと関わらないの?」

小学校では、ひとりでいることが多かった。

「体育の授業とかは、ちょっとは活動的に、団体で動いていたかなぁとは思います。休み時間に比べれば(笑)」

「たぶん、その当時は他人に興味がなかった・・・・・・と、言っちゃうとあれですが、あまり関心がなかったんだと思います」

「なんで、みんなで集まるのかなって。単純に疑問だったんです。ひとりのほうがいいのに、って」

クラスメイトとの関わりが少なかったぶん、喧嘩をするなど、友だち関係で悩むこともなかった。

「先生に『なんで友だちと関わらないの?』ってきかれたときは気になったくらいですね」

「グループ分けのときも、最後まで残ってしまうんですが、あいているグループに入ったらいいやって感じで、なんとも思いませんでした(笑)」

仲間に入りたい。一緒に遊びたい。話しかけたい。でも、できない。
そんな気持ちを抱えていたわけではなかった。

「なんで友だちと関わらないの?」という先生の質問も、むしろ自分にとっては「なんで友だちと関わるの?」という疑問と重なった。

「話しかけたいとか、そういう気持ちはそもそもなかったんです(笑)」

初めての友だち付き合い

中学生になると、そんな学校生活にも変化があった。

生徒は全員、必ず部活に入らなければならないというルールがあり、選んだのは英語部。

言語だけでなく、英語圏の文化にも親しむという活動内容が、自分にはとても興味深く感じられ、楽しかった。

「自分の知らないこと、まったく新しいものに触れるのが好きなんです」
「英語は、文法も発音も日本語と全然違うのが面白くて」

部員は年によって変動はあれども全部で10〜20人くらい。
一緒に学び、一緒に活動する仲間だ。

「初めて、友だちと交流したという感じです」

「これが “友だち付き合い” か。こういうものがあるんだなって(笑)」

「部活のメンバーとの仲は良かったと思います。自分にとっては、中学時代に人間関係が確実に広がったんじゃないかなと感じてます」

03もしも自分が女の子だったら

“エロいヤツ” といじめられ

少しずつ、周囲との人間関係が築かれてきた中学時代。
心も体も変化しつつある思春期のなかで、心が囚われることがあった。

それは、“女性” という性別。

自分は “男性” だが、もしも女性だったとしたら、どんな感じだろう。

女子生徒になって、学校で過ごしてみたら・・・・・・?

そんな考えを、ふとしたことから同級生に知られてしまったのだ。

「そこからいじめになってしまって・・・・・・」

周囲の反応としては、女性への興味が強すぎる ”単なるエロいヤツ”  だったのだろう。

しかし、実は自分の性別に違和感があり、女性としての自分を強く意識していた・・・・・・。そんなことを説明するのは難しかった。

 

「その頃はLGBTという言葉も認知されていなくて、自分も説明できなかったし、理解されないだろうと思って、黙っちゃいました」

「そしたら、いじめも広まってしまって」

自分の性別を説明できない

それ以前から、女性の服を着てみたい気持ちもあった。

「でも、もしも女装したことがバレたら、青森の田舎では噂がすぐに広まってしまう、と思うと怖くてできませんでした」

「母の服を着ることもできたとは思いますが、母の部屋は僕たち兄弟とは離れていたので、入りづらかったということもありましたね」

とはいえ、性自認が完全に女性だったというわけではなかった。

当時、好きになる相手は、女性だった。
小学校のときには、友だち付き合いは希薄ながら、少しの間、まるで恋愛のような関係になった女の子もいた。

男の子として女の子とお付き合いすることもあったのだ。

でも、女性の服を着てみたい。
女性として生活してみたい。

そんな気持ちが募っていった。
自分の性別を自分でも説明できなかった。

04性別がわからない

声変わりが嫌だった

 

いじめが広まるにつれ、学校に行きづらくなってしまい、たびたび休んだり、登校しても保健室にいたり、と再びクラスメイトと距離をとることになった。

と同時に、“女性だったら” という思いは強くなっていく。

「ネットで、そういう本も買いました」
「女装とか、そういう知識が載っているような本です」

そんな自分を不思議に思ったり、嫌悪感を感じたりすることはなかった。

「やっぱり、自分の知らないことや新しいことに対して、怖さを感じることはなくて、むしろ、興味をもったら突き進んでいく感じで」

「女装も、やってみたい気持ちはあったんですが、本を読んだだけでは知識が足りなくて。機会もなかったし。できませんでした」

「ただ、自分の体に対する違和感はずっとありました。特に、声変わりは嫌でした。声が低くなるのが嫌で」

「あと、外見ががっちりしているので、周りから男らしさを求められているような気がして、それも嫌でした」

「いじめにあっていた頃は、ひとりでいる時間が増えたので、自分の体について考えることも多くなりました」

「でも、当時は性別適合手術とかも知らなかったので、考えても仕方ない、と諦めてた感じだったんだと思います」

母には性別の話をしないように

周囲と距離をとり、学校も休みがちなことに対して、母は心配していた。

「心配していたけれど、深くは追及してこなかったのが、逆にありがたかったですね。性別について、母に話したくなかったんで・・・・・・」

実は小学生の頃、「自分の性別がわからない」と母に話したことがあった。

母の反応は「気のせいだよ」という軽いものだった。

もっとちゃんと話を聞いて、一緒に考えてほしかった気持ちがあったのかもしれない。それからは、性別については母に話さないようにした。

「学校を休む理由を話したら、いじめのことを話すことになるし、そうなると性別の話になってしまうので、言いたくなかったんです」

“他人は自分を映す鏡” という言葉がある。
周囲と関わりをもつようになって初めて、自分はどういう人間なのかが見えてくることもあるのだ。

例えば、友だちと女性アイドルの話をしているとき、例えば、自分は男性だけど女性になってみたいと伝えたとき。相手の反応によって、「もしかして自分は周囲とは少し異なるのかもしれないと気づくことがある。

そこから、自分に対する違和感が生じることも。

自分は男性なのか、女性なのか。
自分の性別がわからない。

05勇気をもって踏み出したら

親友に自分の性別の話を

居づらさを感じていた中学校を卒業したあと、高校は進学校へ。
新しい出会いもあって人間関係が広がり、視野も広がっていった。

「中学時代よりも、深く友だちと付き合えるようにもなりました」

「例えば文化祭で、クラスのみんなと人形ねぶたを作ったりとか」

「親友と呼べる友だちもできました」

その友だちには、「性別がわからない」「女性の服を着てみたい」「女性として生活してみたい」とも伝えることができた。

なぜ中学校までは、そのことを親にも友だちにも話すことができなかったか、その理由についても伝えた。

「友だちは、僕の話すことを否定しないで、最後まで真剣に聞いてくれました。僕が話し終わったあとも、思ったことを素直に話してくれて」

「理解を示してくれて、うれしかったです」

“クエスチョニング” との出合い

高校生になって人間関係が広がったことも、いままで隠してきた “性別に対するモヤモヤ” をカミングアウトするきっかけとなった。

そして、もうひとつ。
奨学生のサマーキャンプに参加したことが、大きな転機だったと言える。

「そのキャンプで、ほかの奨学生と話すうちに、勇気を出して、自分も何かに取り組みたいって前向きな気持ちになったんです」

「何に取り組もうかなって考えたときに、いままで周りに話せなかったことを話してみようって思いついて」

「友だちに性別のことを話すことができたんです」

友だちは「何かサポートできることない?」ときいてくれた。

伝えることができた安心感もあって、モヤモヤが一気に晴れて、気持ちが穏やかに落ち着いていく感覚があった。

さらに、高校生になってスマホを手にしたことも、変化をあと押しする。

「ネットで『性別がわからない』って検索したら、いろんな性的マイノリティを説明しているサイトが出てきて、そのなかで自分に一番近いと思ったのが「クエスチョニング」だったんです」

クエスチョニングには、性別がわからない、性別を決められない、または決めたくないなど、さまざまな解釈がある。

「そのときは、『わからない』という状態が近いのかなって」

「そのサイトで『クエスチョニング』という言葉に出会えて、それが自分のいまの状態だと知ることができて、よかったです」

 

<<<後編 2022/01/29/Sat>>>

INDEX
06 性別なんて気にしない
07 数学の教師になりたい
08 クエスチョニングだからこそ
09 カミングアウトすべきか
10 これからの10年は “挑戦”

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