映画やドラマ、舞台といったメディア作品に登場するLGBTのキャラクターは、その多くを当事者でない(異なるセクシュアリティの)俳優が演じている。舞台俳優として現在も活動している私は、その実情とどう向き合っていくべきか、自分なりに考えてみた。
LGBT当事者の役と、当事者の俳優が出会う確率とは?
私が初めて、LGBT当事者の役を演じた経験
今から数年前、私は舞台上で「女性を好きになる女性」の役を演じた。
舞台俳優として活動を始めてから十年以上の月日が経ったものの、LGBT当事者の役を演じるのはそれが初めてだった。
しかも、自分とかなり近いセクシュアリティの役を、偶然配役されたのだ。運命的な出会いだと感じた私は、配役が確定していないにもかかわらず「絶対にこの役を演じたいです」と演出家に意気込んでアピールしてしまったほどだ。
俳優として、自分のセクシュアリティに合致する人物を演じることの喜びを噛みしめながらも、私は表現の難しさも感じていた。
同性愛者の複雑な思いや、喜び、悲しみといった感情を、誤解なく観客に伝えられているだろうか?
独りよがりな演技になってしまってはいないだろうか?
常にそう自問自答しつつ、本番の幕が開いてもなお、毎日試行錯誤を重ねていたことが記憶に残っている。
「俳優の属性と異なる役を演じる」ことが当たり前の風潮
実際、「LGBT当事者の役を、当事者の俳優が演じる」ことはどれくらいの割合で行われているのだろうか。
そもそも、私が身を置いている小劇場演劇の世界では、作品と俳優との組み合わせにかなりの制限が存在する。
若い俳優が老人の役を演じたり、女性が男役を演じたり(あるいはその逆も)・・・・・・といったキャスティングが多く行われているため、必ずしも俳優本人の属性と同じ役を演じられるとは限らないのだ。
私自身、男性の役を演じたことも、老人や幼い子どもの役を演じたこともある。出産も結婚も経験していないけれど、母親役を演じた回数は数えきれないほどある。
だから、LGBTの役が作品中に存在していたとしても、その役を演じる俳優のセクシュアリティを気に掛ける人は周囲にほとんどなかった。
そして、私がこれまで携わった作品の中で、私以外にLGBT当事者の俳優が当事者の役を演じたというケースは一度もなかったように思う。
映画『トランスジェンダーとハリウッド』を観て、改めて自分に問いかけたこと
映画を機に初めて知った、トランスジェンダー当事者の声
先日、Netflixで配信されているドキュメンタリー映画『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』を視聴した。「LGBT当事者の役と俳優との関係性」についての話題が出ると、真っ先に名前が挙がる作品である。
私自身、LGBT当事者として、また、自分と異なるセクシュアリティの人物を今後も演じる可能性のある俳優として、必ず観なければならない作品だと感じていた。
映画自体は、ハリウッドにおけるトランスジェンダーの描かれ方を振り返りつつ、トランスジェンダーの当事者たちが感じてきたことをインタビュー形式で語るという内容だった。
特に印象に残ったのは、「私たちの身近にもトランスジェンダーはいない。だからメディアにその姿を探す」という旨の台詞である。当事者ですら、ロールモデルとしてのトランスジェンダーの姿を身近で確認することはできないのだ。
メディアの中の演出されたトランスジェンダー像は、視聴者に偏見や誤解を植え付ける可能性がある。
「トランスジェンダーではない俳優がトランスジェンダー役を演じること」の危険性について、私はこの映画をきっかけに改めて考えさせられた。
トランスジェンダーだけじゃない、メディアが作り上げたLGBTのイメージ
映画を観終わってから、ふと、以前友人から言われた言葉を思い出した。
たまたまLGBTの話題が出た際に、「私、ゲイの友達が欲しいんだよね」とその友人は無邪気に言い放った。わかるー! とその他の友人が賛同する一方で、当時の私はリアクションに困ってしまった。
「だってゲイの人って、悩み事とか聞いてくれそうだし、ちょっと毒舌な感じで親身なアドバイスをくれそうじゃない?」と続けた友人の言葉に、私は返す言葉を見つけることができなかった。
当時は上手く言い返せなかったけれど、そして、今となっても本人に直接言う勇気はないけれど、それでも私はこう言いたかった。
「メディアのイメージに囚われ過ぎてない?」
確かに、映画やドラマなどのメディア作品に登場するゲイの男性は、バーや飲食店のマスターとして常連客の人生相談に乗ってくれるようなイメージがある。
でも、もし私が今の性格のままゲイの男性として生まれていたとしたら、そのイメージにはきっと苦しめられると思う。自分のコミュニケーション能力の低さや根暗な性格とは程遠いメディアのイメージに、常にコンプレックスを刺激されるだろう。
それでも、俳優としてはこう考えずにはいられない。
「ちょっと毒舌で親身にアドバイスをくれるゲイ男性」の役をキャスティングされた時、それに異を唱えられる俳優はどのくらい存在するだろうか?
「当事者が演じるべき役だと思うので、セクシュアリティが異なる私は演じません」
「ゲイ男性のイメージとしてステレオタイプすぎると思うので、このイメージでは演じたくありません」
と、俳優から制作者側に意思表示することは、かなり勇気の要る行為だと思うのだ。
特に、LGBTについての理解が十分広まっているとは言い難い日本において、そういった主張をするにはあまりにも心理的ハードルが高い。
一舞台俳優として、私自身が思うこと
「自分とは異なる属性の役どころ」を演じたい、俳優としての憧れ
映画『トランスジェンダーとハリウッド』の視聴を経て、「俳優はどのようにLGBTの役と向き合うべきか?」という問題について、私は自分なりに考えてみた。
前述したように、LGBTの配役や作品での扱いについて、俳優一個人が声を上げるには勇気が要る。今後の仕事や、俳優としての活動にも影響が出てしまいかねないからだ。
また、勇気以前の問題として、「LGBTの役は慎重に取り扱うべき」という考え方自体、日本の俳優にとっては馴染みが薄いのではないか? とも思う。
俳優は普段、職業も年齢も性格も、時には性別や国籍も超えて演じているから、役柄と自分のセクシュアリティが違うことも特別なことだとは思わない。むしろ、自分とはかけ離れた、演じがいのある役だと感じることのほうが多い。
私はこれまで、当事者ではない俳優がトランスジェンダーの役を演じた作品を数多く目にしてきた。それこそハリウッド映画から、自分自身も出演する小劇場の舞台まで幅広く。
そして、トランスジェンダー役の俳優を観て、私は彼らの演技力に素直に感嘆していた。
私もあんな演技ができる俳優になりたい、と思ったことも一度や二度ではなく、今でもその思いは消えずに残っている。
LGBT当事者として、同性愛者の役をどう表現したかったか
私自身が「女性に恋をする女性」を演じた時には、「当事者である自分が演じることの意味」を重視した。
そのキャラクターはレズビアンなのかバイセクシュアルなのか、はたまた別のセクシュアリティなのか、詳細は台本に記されていなかった。それでも、同性を好きになった経験のある人とない人、どちらに対しても誠実に演じたいと思い、自分の中でいくつか決めたことがあった。
「同性を好きになる」ということについて、観客にネガティブな印象を与えないこと。
「暴露」や「衝撃の展開」といったニュアンスを持たせないこと。
キャラクターの人物像が、ごく身近に存在する人だと感じさせること。
メディアでよく見る同性愛者の女性像は、海外ドラマ『Lの世界』のように性的な描写を多く含んだものや、いわゆる「萌え」を主軸に据えたものが多い印象があった。
作品のテーマによって描き方が異なるのは当然ではあるけれど、私はできるだけ普段の自分自身に近い、等身大の女性像を表現したかったのだ。
自分としてはベストを尽くしたし、納得のいく演技ができたと思っている。でも、自分には当てはまらないセクシュアリティを、同じような解像度で演じられるかと問われたら、私は「できない」と答える。「できる」と答えられる俳優でありたいとは、やはり思ってしまうのだけれど。
LGBTのキャラクターと俳優はどう向き合うべきか? 私なりの結論
「身近にいない」と思っても、「必ずどこかで出会っている」
俳優がLGBTのキャラクターを演じることについて、なぜ慎重になるべきか、私なりに改めて考えてみた。
映画『トランスジェンダーとハリウッド』にて語られた「トランスジェンダーは身近にいない」という旨の台詞は、言い換えると、「身近にいても気付かないことが多い」という事実を指摘している。
LGBTQ+のどのセクシュアリティにおいても、出会ってすぐにその実情を把握することは難しい。たとえ家族や長年の知人であったとしても、本人がLGBT当事者であることを知らないケースも多い。
でも、誰の身近にも存在するのだ。「私の知り合いにLGBTはいない」と思っている人も、気づいていないだけで、必ずどこかで出会っているはずだ。
だからこそ、当事者性のないメディアの表現によって、誤ったイメージを定着させるわけにはいかない。
ハリウッド業界のような大きな規模でない場合は特に、LGBTの役を必ず当事者が演じるという条件は、叶えることが難しいと思う。
それでも、「可能な限り当事者が演じるべきだ」と、当事者である私自身は主張していきたい。今回改めて考えを巡らせたことで、ようやくその結論に辿り着くことができた。
自分が他のLGBT当事者を演じることになったら?
もし私が今後、自分とは異なる性的指向のLGBTの役をキャスティングされたら、どう行動すべきだろうか。
当事者の俳優が見つけられない、あるいは配役が難しい場合は、せめて、実際に当事者の方の声を聞いて演技に反映できるよう努力したい。
私は、トランスジェンダーという言葉から、学生時代に出会った二人の人物を連想する。
柔らかな笑顔でメイクの仕方を教えてくれた先輩と、明るいキャラクターでクラスの仲間を笑わせてくれた同級生。
彼らのような人物像は、メディア作品の中ではなかなか見つけられない。そして、彼らが日常生活の中でなにげなく見せる表情や仕草、その端々ににじむ言葉にならない思いこそ、作品の中で描かれるべきものだと思うのだ。
万が一、私がトランスジェンダーの役を演じることがあれば、そのことを忘れずにいたい。
LGBTの当事者は、メディアの中ではなく、現実の世界で生きているのだから。