02 心の壁の原因となった性別違和と学習障害
03 登校拒否の先に見えたかすかな光
04 新たな知識を得ることの歓び
05 苦しくてもやりがいのあった学部生時代
==================(後編)========================
06 キャンパスライフで知った恋愛と友情
07 環境の変化に追いつけなかった体
08 パンセクシュアルでありクィアである自分
09 東京に戻ることで得られた心の安定
10 環境に恵まれた自分にできること
01人知れず寂しさを抱えていた幼少期
父親代わりも務めていた母
シングルマザーの家庭で育った一人っ子。
幼い頃は、一人で遊ぶことが多かった。
「母は仕事が忙しかったので、昼間は家にいませんでした」
「学校が終わったら祖父母の家で夜まで過ごして、母が仕事帰りに迎えに来るという日々を過ごしていましたね」
リベラルな母はほとんど息子に干渉せず、好きなことをやらせてくれた。
父親役も担っていたため、典型的な “お母さん” とは違ったと思う。
「社会に出て働かないといけなかったからか、当時から母にはジェンダーフリーって印象があります」
自分を妊娠している間に離婚した母は、産後に二度再婚するが、二度とも離婚。
最後の離婚は小学校低学年の時だったため、物心がついた段階で父の存在はいないものと認識していた。
太ったことで始まったいじめ
小学3年生に上がった頃から、急激に体重が増え始めた。
「当時の同級生や幼なじみが今の僕を見ても気づかないくらい、見た目が違います(苦笑)」
「小学生で45kgぐらいあって、コロンとした体型だったんです」
外見を同級生にからかわれた。
「見た目を理由にして、いじめられることがしんどかったですね」
「ただ、僕は人とコミュニケーションをとることが得意だったから、しんどさが周囲に伝わらなかったんです」
太っていることにコンプレックスを抱いても、表向きは体型をネタにして笑いをとっていた。
「同級生は、いじめている感覚がなかったと思います」
小学3年生の頃から、徐々に学校に行かなくなっていった。
「僕が登校拒否になった理由は、きっと先生も同級生もわからなかったんじゃないかな、きっと」
02心の壁の原因となった性別違和と学習障害
自分は該当しない “男” という性
登校拒否になった理由は、いじめだけではなかった。
「今なら明確に理由を話せますが、あの頃は言語化できなかったモヤモヤが心の中にありました」
そのモヤモヤの原因の一つは、性に対する違和感。
一般的に男子といわれる括りの中に、自分は該当しないことが多かった。
「男の子だから泣かない」「男の子だから強くなきゃいけない」「男の子だからスポーツする」。
これらの言葉に違和感を抱いていた。
「義務教育の間は体操着が男女で違うとか、性に関する規範がはっきりしているじゃないですか」
「でも僕は、社会的に作られた男性という規範に帰属していない、ってずっと感じていました」
小学2年生まではサッカークラブに入っていたが、友だちのようにスポーツ刈りにはしたくなかった。
ずっと髪を伸ばしていた。
苛立ちの原因となった学習障害
モヤモヤの理由は、もう一つあった。
「今だからわかることですが、僕には学習障害があったんです」
ADHD(注意欠如多動性障害)を抱えていたため、座って勉強することが苦手だった。
ディスクレシア(識字障害)もあったため、教科書をクラスメイトと同じような速度では読めなかった。
字もうまく書けなかったので、先生が黒板の文字を消すまでに、板書も追いつかなかった。
「その頃は自分に障害があるとは思っていないので、うまくできないことにモヤモヤしていました」
「極端にできることと、極端にできないことがあったんです」
1週間学校を休んだ翌日、まったく予習していない状態で受けたテストで、100点をとることがあった。
一方、作文は苦手で、放課後みんなが帰っても書き始められなかった。
「勉強は得意じゃなくて、絵を描いたり歌を歌ったりすることが好きでした」
「障害と知った今だからわかることですが、集団学習が自分に適していなかったんですね」
「義務教育のシステム自体が、自分の中でしっくり来ていなかったんだと思います」
学年が上がるごとに、学校を休む日数が増えていった。
中学に上がって増えたモヤモヤ
中学に上がると、モヤモヤはさらに強くなっていった。
「中学生ってもっともジェンダーバイアス(社会的文化的な性に対する一面的視点)が強いと思うんです」
制服は男子が学ランで、女子がセーラー服。
通っている学校では、髪の長さも男子は耳にかからない長さ、女子はあごまでと決まっていた。
「セーラー服を着たいって気持ちはなかったけど、髪の毛は切りたくなかったです」
中学で入った吹奏楽部は、ほぼ9割が女子部員で、男子部員はたった3人だった。
女子部員から「男なのにすぐ泣くね」「男なのにすぐ疲れちゃうんだ」と言われた。
「そう言われることがしんどくて、部活は辞めてしまいました」
「今でも人から『男なんだから』と言われるのは、違和感があります」
「割り当てられた性別と自分がしたい表現は関係ないじゃん、って思うので」
中学では、学習障害が顕著に顔を出し、ますます学校に行きたくなくなった。
ディスクレシアは識字能力が低い分、極端に耳がいいという特徴がある。
そのため、英語のリスニングやスピーキングはずば抜けて得意だった。
「ネイティブのように発音できることが、かえっていじめにつながったんです」
少し人と違うだけで的にされやすい、思春期ならではのいじめ。
環境の変化によって情緒不安定になる適応障害の傾向も見られるようになった。
中学2年には、ほとんど学校に行かなくなった。
03登校拒否の先に見えたかすかな光
登校拒否の自分を否定しなかった家族
家にこもるようになった時、学校側から「出てこないか?」という働きかけがあった。
応えるように午後だけ登校するなどの方法をとったが、学校の居心地の悪さは解消されなかった。
「勉強にはついていけないし、同級生は好奇の目で見てくるし、余計にいづらかったです」
「中学3年生の時は、一切学校に行かない状態でしたね」
母には「学校に行きたくない」と伝えた。
いじめられていることも話した。
母の返事は「行きたくないなら、行かなくていいんじゃない?」だった。
「母は、僕の状況を理解した上でそう言ったわけではなくて、何も考えていなかったと思います」
「いじめの原因も少し話したけど、それ以上は休みたい理由を追及してこなかったです」
祖父母も不登校になった自分を、決して責めなかった。
「良く言えば放任、悪く言えば放置されていたわけですけど、今思うとありがたかったなって思います」
「学校を休んでいた時期は、充電期間になりました」
自堕落な生活からメリハリのある生活に
不登校の間は、昼夜逆転した生活を送っていた。
深夜アニメを見てから寝て、昼頃起床し、祖母が作った昼ご飯を食べる。
昼間は延々テレビゲームをし、夜ご飯を食べて、深夜アニメを見る。
「そういう生活を1年くらい続けた頃、祖母が体調を崩して家事ができなくなってしまったんです」
「そこで心を入れ替えて、生活を規則正しくして、僕が炊事洗濯をするようになりました」
「高校は通信制だったので、進学してからも僕が主婦代わりでしたね」
個を尊重してくれた高校
屋久島に本拠地があり、各地にサポート校を置いている屋久島おおぞら高等学校に進んだ。
母が「こういう学校があるよ」と、薦めてくれた学校だった。
通信制の高校だったため、出席日数は関係なく、好きなタイミングで学校に行けた。
「いつ行っても、先生も同級生も普通に『久しぶり』って言ってくれる学校でした」
「僕みたいな不登校の子もいれば、頭が良すぎて学校制度に合わない子もいたし、元ヤンキーの子もいました」
「クラス内での階級とかはまったくなくて、みんな好き勝手にしていて、面白い空間でしたよ」
「僕には、この高校のように自由にやらせてもらえる環境が、合っていました」
04新たな知識を得ることの歓び
好きなアニメキャラクターは男性
性別に関するモヤモヤを抱える中で、恋愛感情を抱く対象に関する気づきがあった。
「10代の頃、自分はゲイ寄りのバイセクシュアルだって意識がありました」
「アニメを見た時に、男性のキャラクターに恋をすることが多かったんです」
しかし、その気持ちは誰にも打ち明けなかった。
むしろ、隠していることを忘れるほど、当然のように自分の内側に秘めていた。
恋愛アニメを見ていて、感情移入するのは女性のキャラクター。
「当時『D.C. ~ダ・カーポ~』ってアニメを見ていて、芳野さくらというキャラクターと心がシンクロしたんです」
「そのキャラクターの一人称が『僕』だったので、その頃から僕の一人称も『僕』なんです」
自分がバイセクシュアルであろうことを、母に打ち明けるべきか悩んだ。
どうしたらいいかわからないモヤモヤが、また心に生まれた。
「ただ、当時はアニメにしか興味がなかったです」
「実在する人を好きになることは、大学生になるまでなかったですね」
悔しくて決めた大学進学
高校時代、何かしたいと思い立ち、小説を読み始めた。
しかし、それまでほとんど勉強をしてこなかったため、書かれていることが理解できなかった。
「かなりの悔しがり屋なので、興味関心があるのにわからないことが悔しかったんです」
「好きなことを突き詰めて学べる場に行こうと思って、大学進学を決めました」
AO入試で、無事に現役合格することができた。
「大学に進むことを決めてから、勉強を始めました」
中学時代の経験から、自分には英語学習が合っていると感じていた。
英語のテキストを暗記するほど、徹底的に読み込んでいった。
「長文問題を読解した後に、声に出して読んだり音声を聞いたりして、多次元的に学んでいきました」
大学に入ってからはパソコンを使い始めたため、苦手だった文章を書くことも楽しくなった。
そして、常に上には上がいると思っていた。
「僕は自分に対してストイックなタイプなので、自分をすごいと思いたくないんです」
「この頃から、もっとできるようになりたい、って絶えず思っていますね」
「そのためには、人よりもっともっとやらなきゃ、って気持ちがあります」
05苦しくてもやりがいのあった学部生時代
頑張りが引き起こした新たな障害
地元の足柄から大学のある品川まで、約2時間半かけて通っていた。
大学1年時には、必修科目が1限に入っている日が週4日あり、朝6時に起きていた。
「高校までは自由気ままな生活を送っていたから、いきなり6時起きは応えました」
「東海道線は始発だと乗車率120%なので、目の前に人の顔があったりして辛かったです」
「それでも、勉強しなきゃって気持ちだけで通っていました」
高校生の頃はアルファベットもわからなかったが、大学入学を機に英語を猛勉強した。
その結果、たった半年でTOEICで800点をとるという結果を出した。
しかし、急激な頑張りによって、体は悲鳴を上げてしまった。
「自分自身がパンクしてしまったみたいで、通学途中の電車の中でパニック状態に陥ってしまったんです」
「頭痛と吐き気を催して、途中の駅のトイレに駆け込みました」
そのまま3時間、トイレから出られなかった。
同じ状態が1カ月続き、精神科を訪ねると、パニック障害だと診断された。
「過敏性症候群用の下痢止めをいただいて、何とか対応する感じでしたね」
自分なりの対処法
パニック障害を発症したものの、小中学生の頃と比べると随分ラクに過ごせていた。
「小中学校って、授業中にトイレに行きづらいじゃないですか」
「僕は、ここからすぐに出られないって負荷をかけちゃうと、余計に緊張してしまうんです」
「だから、義務教育の間はしんどかったですね」
大学では、授業中にトイレのために席を立っても、とがめられなかった。
通学の電車にはトイレが完備されていたため、常にトイレのドアの前に立つようにした。
パニック状態になっても、すぐにその場から逃れられるように、できることをしていた。
「自分なりの対処法を身につけていたので、大学にはちゃんと通っていました」
努力が成績につながるという経験
大学時代は、ただひたすらに勉強した。
東京に通っていたが、都内で遊ぶことはほとんどなかった。
「勉強ができないことがコンプレックスだったので、周りの子はもっとすごいって常に焦りがありました」
その結果、気づけば同級生たちを追い抜き、成績はほぼオールS。
成績優秀者限定の返済義務のない奨学金も、利用することができた。
「ここまで頑張れたのは、同級生に優秀な人が多かったからなんです」
1年の時点で5カ国語が読める人や、授業後必ず教授に質問しに行く人がいた。
その子達の水準まで到達したい、という思いが強かった。
「毎週レポートの宿題が出るゼミでは、必ず1万字以上のレポートを書いていました」
授業後すぐに図書館で関連書籍を読み、移動中の電車の中でケータイにレポートの下書きをした。
「時間を有効に使いながらも、いつもあの子達に遅れちゃいけないって気持ちでいっぱいでした」
もっと勉強したい気持ちが強かったため、大学院に進むことを決意する。
<<<後編 2017/10/29/Sun>>>
INDEX
06 キャンパスライフで知った恋愛と友情
07 環境の変化に追いつけなかった体
08 パンセクシュアルでありクィアである自分
09 東京に戻ることで得られた心の安定
10 環境に恵まれた自分にできること