02 「クエスチョニング」という存在
03 LGBTコミュニティを知って
04 多感な少女時代
05 大きかった母の存在と葛藤
==================(後編)========================
06 家族と離れて得られたもの
07 新しい会社と人との出逢い
08 血を超えた家族的な存在を求めて
09 「いい子」からの脱却を目指して
10 脱ぎ捨てて、軽くなりたい
01本当は、たぶん、ずっと、怒っている
両親の突然の別居で、信じていた「家族」がなくなる
アーヤ藍さんは、怒っている。ほがらかに笑いながら、実は激しい憤りを自分の中に秘めている。世の中の理不尽さ、不誠実さに、そして人が人を傷つける状況に。
大学に入学してすぐ、両親が別居した。
原因は父側にあったそうだが、それまで何不自由なく育てられ、両親が不仲であるとは思いもよらなかった。
しかし母はずっと、その事情を知っていて、知っていたけれど隠し通していた。まったく気がつかなかった自分にもショックだった。
自分が信じていた家族は、偽物だったのか。
それまで拠り所にしていた存在が瓦解し、裏切られた感覚もあり、両親の別居直後は精神的にきつかった。
精一杯、状況を理解しようと努めたが、状況はよくならず、むしろ悪い方へと転がっていった。
母から受けた、自分に対する非難の言葉
別居後、母はうつ状態に陥り、実家のある福岡に戻った。
ほぼ毎日電話で話したが、繰り返される父親への恨みつらみ。姉は完全に母の味方につく。
そうすると自分は父に同情的になってしまい、両親の間で、どうふるまえばいいのか分からず混乱した。
母とはケンカになると、自分に対する非難の言葉が投げかけられた。
「『あなたを生まなければ私にも違う人生があったのに』『あなたにはやっぱり父親の血が流れている』などと言われると、ずっと自分が頼ってきた、信頼してきた母親との関係を断ち切られてしまう気がした」
「その時は本当に死にたいなと思ったし、何のために生きているのか全然わからなくなってしまって。でも、家族以外に悩みを相談したこともなかったから、一人で悩みこんで、夜中に包丁を手にしたことも何度かありました。母も辛かったんだと思うけど、私もとても辛かった」
大学を出た後、仕事で福岡に住んだ時期もあるが、今年、東京に戻ってきた。
母とはもう4年近く連絡を取っていない。
「最近になって家族の夢をよく見るんです。そこでは私、大体怒っているんですよ」現実には怒れなかったのに、だ。
02「クエスチョニング」という存在
LGBTQの「Q」
アーヤさんは自分のセクシュアリティを説明する時、「クエスチョニング」と言っている。
これは日本ではあまり聞きなれないが、海外で性的マイノリティを表わす時、「LGBTQ」と称することも多い。
LGBTの実相は様々で、性的マイノリティという意味ではこのL/G/B/Tのどこにも当てはまらない人もいる。
たとえば、心の性が男性・女性どちらとも認識していないXジェンダー、他者が恋愛・性的欲求の対象にならないアセクシュアル、恋愛対象にはなり得るが性的欲求を持てないノンセクシュアルなど、性自認・性的指向の内容は様々だ。
Qは、迷っている人という意味でのクエスチョニング、性的マイノリティの総称としてのクィア、どちらとしても使われることがある。
特に10代や若いうちは、自分の性についてよく分からないが違和感がある、苦しい時など、迷っていることを認めることで、セクシュアリティをすぐに決定するプレッシャーを和らげることができる。
男女が付き合ったら絶対にしなければいけない?
アーヤさんが自分のセクシュアリティに疑問を感じたのは、大学時代。初めてできた恋人との関係がきっかけだった。
彼のことは好きだったが、身体の関係を持つことだけが、どうしても嫌だった。
「私が嫌だと言っても、『付き合っているならそれが当たり前でしょ』と言われて。男性ときちんと付き合うのは初めてだったから、付き合うってそういうことなのかなぁと思って我慢したんですけど、やっぱり嫌で。そういうこともあって別れてしまいました」
母は男女の婚前交渉は許さないタイプだったので、母と恋人の間で挟まれている感じもあった。
母への後ろめたさがあったからか、男性が苦手なのか、セックスの行為自体が嫌なのか、理由はよく分からない。
分からないけれど、悩んだ。
「こんな悩みは周りでも聞いたことがなかったし、自分だけ?って。付き合ったらセックスするのが当たり前だったら、私が付き合える人はいないのではないかと、悩みました」
03LGBTコミュニティを知って
L/G/B/T以外のセクシュアリティもあったんだ!
悩んでいた大学時代、大好きな女性の先輩がトランスジェンダーで、もともとは男性だったことを知る。
トランスジェンダーの人に会うのはそれが初めてだった。
MTFかつレズビアンで、少し男性恐怖症のある先輩が、SNSで自分の生きづらさを吐露していたのを目にして「とても素敵な人なのに、彼女が生きづらい社会って嫌だな。彼女みたいな人が生きやすい社会がいいな」と、LGBT系のイベントに参加するようになる。
その先輩に誘われて参加したのが、LGBT成人式。
ありのままの自分を祝福し、なりたい自分への一歩を踏み出すことを応援するイベントだ。年齢も自分のセクシュアリティも不問で、LGBT当事者も非当事者も幅広く参加する。
そこで初めて、L/G/B/T以外のセクシュアリティもあることを知る。
その中で、当時の自分に当てはまるように思えたものがあった。「ノンセクシュアル(非性愛)」だ。
「まだ自分のセクシュアリティに確信を持てる訳ではなかったけれど、自分だけじゃなかったんだ、自分にも居場所があった、と気がついたのは大きな出来事でした」
クエスチョニングでいいかなと吹っ切れる
「ただ、L/G/B/Tの4つ以外のカテゴリーを知ったがゆえに、自分がどれなのか、一層分からなくもなってしまったんですよね。自分がセクシュアリティマイノリティの当事者と言っていいのか、非当事者と言った方がいいのか、今でも迷います」
「でも、色々考えて、もう自分がどれであるか無理に定義づけなくてもいいかなって。『自分はこのセクシュアリティです。だから、このセクシュアリティの中からパートナーを選びます』って言うのもなんだかナンセンスだし、この人素敵だなと思える人と、思いが重なって付き合えればいいと思って」
以来、自分のセクシュアリティを「クエスチョニング」と言っている。
LGBT関連のイベントで様々な人に出会って、世の中に「当然」や「ふつう」がないことを知り、自分の生き方もだいぶ楽になった。
「こうでなければならない」という、枠にとらわれて生きてきた自分にとっては、目から鱗の出会いだった。そして同時に、家族に対する考え方にも変化が生じるようになる。
04多感な少女時代
漠然とした出家願望
長野県で生まれ、中学校は自宅から遠かったため、1年半ほど学校の寮に入った。
学校自体は課外授業も多く楽しかったが、四六時中群れて行動することが苦手で、一匹狼で過ごすことが多かった。
高校時代は、学校が終わるとすぐに家に帰り、本人曰く「軽く引きこもりかというぐらい」映画鑑賞に没頭した。
「『カポーティ』とか、『ひかりごけ』とか、『エレファントマン』とか、割と暗い映画ばかり(笑)。人間の善悪両面の姿をきちんと描こうとする映画が好きなんですよね」
小学生の頃はなぜか児童虐待のカウンセラーの手記にはまっていた。
演劇も社会派なテーマの作品が好きで、よく見に行っていた。
色々な社会問題に触れたせいか、いったい人は何のために生きているのか、を自問自答するようになる。
「世の中に対して絶望していて、中学・高校の頃には出家したいって思ってました。ドロドロした世の中から逃げ出して解放されたいと。でもある時、出家しても問題は何も解決しない、自分のエゴだ、と気がついて」
「それ以来出家したいとはあまり思わなくなりました(笑)。でもどこかで生きにくさは感じていたんでしょうね」
現代アートの世界が教える「価値観は自分で作るもの」
両親は現代アートが好きで、小さな頃からよく展覧会を見に東京に連れて行かれた。
著名人になりきりセルフポートレイトを撮ることで有名な作家、森村泰昌さんの「赤いマリリン」という作品が自宅に飾られていたこともある。
実物を見たことがある人なら分かるが、これは結構強烈な作品である。
豊かな作りものの胸をつけた男性が、マリリンモンローに成りきりヌードで撮影している作品なのだ。
現代アートの世界に触れていたので、ゲイのアーティストがいることも、男性が女性のかっこうをすることも、自分にとって不思議なことではなかった。
また、もうひとつ大切なことを現代アートは教えてくれた。
「価値観は自分で作るもの、ということを学んだんです。自分にはまったく意味が分からない作品に信じられないぐらい高い値段がついたりするんですよ。でも、どんなに高い作品でも、自分が好きだと思うもの、心動かされるものでなければ、自分にとって「価値」はないじゃないですか」
「それって、生き方全般にも通ずることなんですよね」
05大きかった母の存在と葛藤
強い母子密着
父は医者で、家を空けることが多く、母と姉と過ごすことがほとんどだった。
「母が本の虫だったので、中学校で寮に入っていた時も、面白い本のコピーや新聞記事の切り抜きを送ってくれたり、映画も割と母に勧められた作品を見ていました。母とご飯を食べながら社会問題について語ったり」
「父親が家にいないので、実質、母が父親代わりじゃないけれど、母親に育ててもらったという思いはあります」
いつでも家族優先、家族第一だった。
家族は揺るぎない存在であり、崩れることなどないと信じて疑わなかった。
母はよく笑う人だった。
外に行っても子どもたちを見てニコニコしているような人。いつも笑って、明るくポジティブな母。
だからこそ、父と別居して心のバランスを崩した母に、どう接したらいいのか分からなかった。泣いたり、口をへの字に曲げた母の顔など、見たことがなかったから。
どうやって笑わせたらいいのか分からなかった。
母からの束縛
しかし、いま思えば束縛も強かった。
それは親なりに子どもを心配してという側面もあろうが、自立に向けて胸ふくらむ大学生にとって、息苦しさを感じさせるのに十分だった。
「大学進学後のアルバイトも、ガソリンスタンドやマクドナルドはダメ、逆にそういうところでバイトしている人と友だちにならない方がいいとも言われて。旅行も、女の子ひとりだと危ないからダメって。結構いろんなところで母から縛られていたんですけど、その頃は、母がいいと言うものはこの世で一番いいものなんだという感覚だったから、それほど疑問にも思わず従っていました」
「でも、離れてみると、やはり窮屈だったと思うこともあるんですよね」
それまでは学校から直帰するぐらい、「家」が自分の居場所だった。
その「家」の象徴である母との、非常に濃密な母子関係。お互いに必要とする関係は健全に機能しているうちは強い信頼関係となるが、ともすれば共依存となり、バランスを失うと一気に極端な方向へ傾くことがある。
アーヤさんはそうはっきりとは語らなかったが、親子が、適切に自立への一歩を進めていたと、言えるだろうか。
明るくポジティブで頼りがいのある母と、子どもの自立や挑戦を未然に防いでしまう母。
母のことを考えれば考えるほど、複雑な思いを抱える。
病気ですっかり変わってしまったかのように見える母を、それでも支えたかったが、母から責められることに心が耐えきれそうになかった。
「もう無理、自分らしくいられる道を選んでいきたい」そう思う心の方が、強くなってしまった。
<<<後編 2016/05/18/Wed>>>
INDEX
06 家族と離れて得られたもの
07 新しい会社と人との出逢い
08 血を超えた家族的な存在を求めて
09 「いい子」からの脱却を目指して
10 脱ぎ捨てて、軽くなりたい