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Writer/きのコ

ポリアモリーでLGBTの私も、親になれるかもしれない

「子供がかわいそう」。ポリアモリー当事者がよくぶつけられる非難の言葉だ。ポリアモリーでLGBT、そして子宮に持病のある私は、自分に子供をもつことはできないと長い間思い込んでいた。しかし姪が生まれたことで、「自分で産まなくても、私も子供を愛して育てることができるかもしれない」と感じた希望。パートナーとの会話で、人生が変わりそうな予感がした経験について綴りたいと思う。

「親がポリアモリーだと子供がかわいそう」と諦めていた子育て

「ポリアモリーだから、子育てはできない」という思い込み

ポリアモリー当事者が第三者からよく投げかけられる「子供がかわいそう」という言葉。

それは私の心深くに刷り込まれて内面化され、ずっと自分自身を縛り付けていた。「自分はポリアモリーでLGBTだから、出産や子育てはできない」と思っていた。

子育てに興味がなかったわけではない。とはいえ、全国あちこちを飛び回り、多くの人と関わりあいながら生きるのが大好きな私。定住したくない、旅しながら生きて旅しながら死にたい、といつもうそぶいている。

そんな根無草で風来坊の私が、子供というとりわけ強い関わりが必要な存在に対して、十分にコミットできるかどうか分からない・・・・・・という不安があったのだ。

「自分で産めないなら、育てることもできない」という思い込み

それに、私には持病がある。器質性月経困難症という、子宮筋腫(子宮の中にできる腫瘍)が多発する病気だ。いま治療中ではあるが、MRIで見た私の子宮の中は、まるでブドウを裏返しにしたように無数の腫瘍で埋め尽くされていた。

治療は効果をもたらしてはいるが、服薬をやめれば子宮筋腫は再発する可能性がある。副作用があるので、薬を一生飲み続けることはできない。この状況では、子育て以前に妊娠・出産を考えることも難しい。むしろ子宮頸がんのリスクなども考えると、子宮を摘出した方がいいのかもしれないと思っている。

そうなればもう自分で子供を産むことはできない。以前の私は「子育てするなら、自分で産まなければならない」という考えに囚われていた。自分で産むことを諦めるなら、同時に自分で育てることも諦めるしかない・・・・・・。そう思い込んでいたのだ。

子供が「かわいそう」かどうか決めるのは他人じゃない

「かわいそう」かどうかを決めるのは子供自身

諦めていた子育てーーだが、ポリアモリーとして生きるうちに、「親がポリアモリーだと子供がかわいそう」と刷り込まれていた私の考えは徐々に変わっていった。

そもそも、子供がかわいそうかどうか決めるのはその子供自身のはずだ。その子の親ではないし、ましてや第三者が勝手に決めつけるものではない。さらに言えば「親がポリアモリーだと子供がいじめられる」といった批判はよく見られるが、それはどう考えてもいじめる側に問題がある。

「ミニスカートを履いていると痴漢に遭う」などの言説と同じで、悪いのはミニスカートを履いている側ではなく痴漢の側なのだ。ミニスカートを履かないことは女性の権利だし、子供がいじめられないような子育てをすることは親の権利だが、そうしないからといって他人から責められるいわれはない。

むしろ、ポリアモリーが子育てに良くないと言う第三者には、モノガミーが子育てにおいてより良い方法なのかどうか、いま一度考えてみてほしいと思う。

「子育てはこうあるべき」という規範意識

「親がポリアモリーだと子供がかわいそう」という発言の背景には、「子育てはこうあるべき」という規範意識があるのだろう。その育児規範に縛られるあまり、そういう人が子育てを独りで抱え込んでしんどくならないか心配になる。

「他人と違う親・他人と違う家庭に生まれた子供は世間から差別されるからかわいそう」という考え方は、「世間と違う人間は差別されるもの」という価値観がもとになっている。だからそういう意見は「差別を再生産する基盤」になってしまうものだと私は思う。

ポリアモリー当事者やその子供が「差別されてかわいそう」だと思うのであれば、まず問題にされるのはその差別意識であって、差別される側が「差別されないように予防する」ことは、本質的に差別をなくすことにはならないのではないだろうか。

姪の誕生。「実子じゃなくても愛せる」という実感

姪が産まれて感じた自分自身の変化

親がポリアモリーだからといって、子供がかわいそうとは限らない。

そう思うようになっても、まだ私の心から「実子でないと愛せないのではないか」という不安は拭えなかった。ところが数年前に妹に娘が産まれて、そんな私の考えが吹き飛んだのだ。

私が産んだ子ではないのに、姪が愛おしくてたまらないし「この子のためなら何でもできる」という強い気持ちがどこからともなく湧いてくる。その体験から私は、「みずから出産しなくても、私にも子供を愛して育てることができるかもしれない」と希望を抱くようになった。

自分で産んだ子でなくても愛せるし、育てられる

自分が産んだ子供でなくても、姪は心から愛せる。だから昔の思い込みを覆して、私だって産みの親でなくても育ての親になることだってできるかもしれない。

とはいえ、子育ての全部を私が独りでやれるとは思わない。けれど他の人たちと分担すればうまくやれるかもしれない、と考えている。お互いに話し合って子育てのコンセプトを共有できる大人たちがチームを組めば、ワンオペで全部はやれなくても、数人で助けあって分担することはできるはず。

こういった考え方なら、私も他の人たちと協力しながら育ての親としての子育てができるかも、という希望を感じている。もし子宮の病気のために自分では妊娠出産できなくても、里親制度を使って子育てをしてみたい・・・・・・と思うようになった。

ポリアモリーのパートナーから「一緒に子育てしたい」と言われて

ポリアモリーでLGBTでも、パートナーたちと一緒に親になりたい

自分で妊娠出産できなくても、私にも子育てできるかもしれない。してみたい。

そんなことをパートナーに話してみたら、予想もしていなかった言葉が返ってきた。
「私も諦めてたんだよね、自分の特性とか、いろいろ含めて考えると1人では責任抱えられないってさ。でも本当は、私も子育てしたいと思ってる。できればたくさんの大人たちに囲まれた子供を育てたいって。軽はずみなことは言っちゃいけないのかもしれないけど、一緒に子育てしたい」と投げかけられたのだ。
パートナーもポリアモリーで、もう1人のパートナーと一緒に暮らしている。そのパートナーも、私との子育てのことは前向きに考えてくれているという。

里親として、ファミリーホームを作りたい

子育てについて、独りで抱え込んで悩んで、独りで諦めていたけれど、思い切って話してみたらパートナーも同じ気持ちだったーーこのことを知って、人生が変わるかもしれない、という予感がうまれた。

そんなわけで今、彼女は妊娠に向けて準備をしている。もちろん私も妊活や出産について勉強しているところだ。まずは精子提供してくれる友人を探す予定だが、もしパートナーの妊娠が難しければ里子をとることも視野に入れて、里親制度についても学んでいる。

将来的には実子か里子かに関わらず、パートナーたちや友人も含めた皆でファミリーホーム(小規模住居型児童養育事業)を運営して、多くの親で多くの子供を育てていければ・・・・・・と夢を膨らませている日々だ。

 

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