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Writer/古怒田望人

翻訳がないっ!――広がるセクマイ用語と言語の問題――

とある海外の友人が「なぜ日本ではセクマイ用語が日本語に翻訳されず、カタカナ英語になっているのか」について研究している、海外の研究者を教えてくれたことがあります。確かに、「性的少数者/弱者」や「同性愛者」という日本語は存在しますが、「セクシュアル・マイノリティ/セクマイ」、「ゲイ/レズビアン」といったカタカナ英語を使うケースが多いように思われます。また、「オカマ」や「ホモ」のような日本独特の表現は、多くの場合差別用語と認識され、当事者が使う場合や無理解なメディアが利用する場合を除いて、避けるべきとの見方が一般的です。

こうしてみると、日本語にはセクマイ用語に関する「翻訳」という観点が、かなりの割合で欠けていることが分かります。今回は、昨今セクマイのポリコレも強く国際的に唱えられる中で、この日本語におけるセクマイ用語の「翻訳」の欠如が、何を意味するのか考えてみたいと思います。

「They/them」の翻訳がないっ!?

昨年末頃、一人称を英語で「they/them」に表記することが、海外で大きく認知されたことを報道で見かけました。確かに、he-she/him-herと比べた時、「他者の性別を第三者が決めつけない」という性に関わる基本的なルールが、中性的な意味を持つthey/themであれば表記の段階で守ることができます。

しかし、この「they/them」ルール、果たして日本語ではどうでしょうか?

誰だか分からないっ!

昨年、国内在住の海外からの友人から「東京の大学で学びたい、というメールをもらったのだけれど、何かアドバイスくれないか」との連絡を英語でもらいました。なので僕は「いいよ! 詳細を教えてくれるかな?」と返しました。

すると友人はしっかりと長文で返事をくれたのですが、メッセージの中盤辺りまでずっと「they/them」で、その学びたい方が指し示されていたので、てっきり何かの団体さんや集団での留学を考えている方々なのかと思っていました(その場合、長期ではないだろうから、聴講程度であればそこまで問題はないだろうなぁ、とも)。

ですが、突然「that person(その人は~)」と文面に出てきて、あらビックリです。友人はセクマイ用語のポリコレとしてのthey/themを使って、一人の方についてずっと書いていたのです。もちろん、僕の無知が問題なのですが、これまで単数の第三者ならhe-she/him-herもしくは it で習慣化されてしまっていた僕には、素直に言って、驚きでもあり新鮮な経験でもありました(最近、海外の友人が僕の記事を翻訳してくれているのですが、やはりそこでも僕は、they/themで一先ず翻訳されていて、ちょっとくすぐったい感じです)。

翻訳どうする?

はてさて、英語で書かれている分には、相手がセクマイについて詳しいのか詳しくないのかなど、状況を判断すればthey/them表現はおのずと慣れてくるのでしょう。ですが、日本語に翻訳する場合はどうでしょうか? 基本的にthey/themの訳語は「彼ら」であり、対義語がないthey/themと違って、「彼ら」には「彼女ら」がありますし、「彼ら」の「彼」自体もまた基本的には男性を指す言葉です。

ジェンダー・ニュートラルに「その方々」とか「奴ら」とかも翻訳として考えられますが、前者はかしこまり過ぎている感じがしますし、後者はぶっきらぼうです。僕の日本語力がないせいもありますが、「彼ら」ではないような自然なthey/themに対応した訳語はすぐには見当たらないように思われます。

言語を見直す

こうごちゃごちゃ言ったからと言って、僕がthey/them表現のようなものに、反対したいわけではありません。ただ、「手放しで喜んでいる場合ではない」ということです。時々、「アメリカでは~」といった海外のセクマイポリコレに合わせて、国内の問題が論じられたり、批判されたりすることがあります。

それは、一方でとても正しいことです。実際、僕も海外の報道や研究者の著作などを通して、セクマイの記事を書くことはままあります。しかし、他方で、「それぞれの国や地域、また人々に応じて観点は変わる」ということも、大切なことのように思われます。セクマイに自由だとされるカナダにルーツのある友人たちでも、カナダのセクマイ対応に対する意見は真っ二つに分かれたりすることがあります(ex.「自由で良い」という意見と、「自由すぎる」という意見)。

ですので、日本に海外の言語を輸入してくる際には、広く「日本」だけではなく、それぞれの地域や自分が置かれている状況に合わせて「翻訳」を見直すこと、言い換えれば、自分たちの言語を見直すことが大切なように思います。

フランスの言語学者、思想家のフェルディナンド・ソシュール(1857-1913)は、言葉、文法と文化、習慣や生活は切り離せないもので、相互に照らし合わせながら考える必要があると語りました。大きなくくりとしての日本語のありようを見直していかないと、言葉がただ混乱するだけになってしまうように感じるのです。例えば「~かしら?」は、女性の言語表現のようですが、一定の男性も使います。先ほど、僕は「彼」が男性を指し示すと書きましたが、それも果たしてどこまで正しいのでしょうか。こういった問いと見直しがthey/themのような新しい言語の用法を、自然と翻訳していく第一歩になるのではないでしょうか。

「トランスジェンダー」は名詞か?

今度は、日本では当たり前の表現とされている人物を指す「名詞」としての「トランスジェンダー」というカタカナ英語が、実は問題を孕んでいるという、僕も最近知った事実から、セクマイ用語の翻訳の問題を考えてみたいと思います。言い換えれば、先ほどのthey/them表現を「輸入」の問題として捉えたのに対して、「トランスジェンダー」という表現を「国内」の問題として捉えてみるということです。

ここからさらに「翻訳がないっ!」という状況について考えてみたいと思います。

「名詞」としての「トランスジェンダー」は差別的

先日、英語論文を海外出身でセクマイ当事者の友人数名に、初めてネイティブチェックをしてもらいました。それぞれのジェンダー、セクシュアリティに応じて気になる点は異なっていたのですが、僕が「トランスジェンダーは・・・」とか、「トランスジェンダーにとって・・・」のように、日本ではしばしばみられる「トランスジェンダー」という単語を名詞とする点に一様にチェックが入りました。

彼らによれば、「トランスジェンダーの人=トランスジェンダー・パーソン(transgender person)」や「トランスジェンダーの人々=トランスジェンダー・ピープル(transgender people)」というように、トランスジェンダーを形容詞として使うのは良いが、名詞として使うのは、「黒(black)」で「黒人の人(black person)」を指し示すのと同様に「差別的である」そうです。確かに、海外のトランスジェンダーに関する文献を読み直してみると、「トランスジェンダー」が名詞として使われていることは、ほぼありませんでした。

現象としての「トランスジェンダー」

確かに、どこまで欧米のような厳密な文法が日本語に適応可能なのか、それは僕もはっきりしません。しかし、「トランスジェンダー」が名詞で指し示すことのできるような、はっきりとしたものではなく(難しく言えば「実詞substance」)ではなく、形容詞としてしか表しえないような流動的なものであることは、僕の経験を顧みると、一つの事実であるように感じます。

トランスジェンダーという単語を見聞きして、個々人がそれぞれに思い起こすことは違うでしょうし、僕も講義などで説明を求められる時には、「トランスジェンダーが意味することの一つ、それは、それぞれ度合いは個々人により違うとはいえ、生まれた時に与えられた性別、あるいは身近な人々や社会から要求され、期待される性のありように違和を感じるありかた」というとてもざっくりした表現を用います(ここに裏打ちはあるのですが、それは別稿で)。

実際、僕は自分で発信する時には「ジェンダー・クィア」と名乗りますが、相手や状況次第では「トランスジェンダーです」とか、「Xジェンダーって言うと、分かりやすいのかもね」とか名乗り方を変えますし、それに応じて態度を変えたりもします。それなのに外野から「お前はトランスジェンダーなんだから~」みたいな、つっけんどんなやり方で「枠組み」、言い換えれば「名詞化」されてしまうと酷くもやもやします。そもそも、僕は、基本的にはトランスジェンダーでも、ジェンダー・クィアでもなく、「古怒田望人」あるいは「いりや」という「固有名unique name」を持った存在なのですから。

「習慣」を変えられるか

さて、ここでも問題はthey/themの場合と同じように思われます。それは「習慣」の問題です。というのも、一人称を複数形の言葉やあるいは新しいジェンダーで呼ぶことも、発信先や受容者への範囲が異なるとはいえ、私たちの言語が習慣と共に形成されてゆくという問題と重なっているからです。「トランスジェンダー」の名詞的使用法を控えることも、セクマイ用語の認知という意味で「習慣」の問題です。

もちろん言語は、辞典や文法教育から日常会話に至るまで、さまざまな場面で学ばれることです。しかしながら、どんな言葉も私たちの社会における経験や体験の積み重ね、言い換えれば「習慣」と切り離すことはできません。

例えば、一つにはLGBTQの認知や浸透と共に、相手のジェンダーを指し示す代名詞(彼、彼女)を当人の承認なく使うことが顧みられるようになりました。逆に言えば、私たちが「当たり前」と思っていること――まさに「トランスジェンダー」は名詞として使えるということ――が「習慣」に裏打ちされていることを自覚しなければ、意識的に言語をポリコレ的なものに変えてゆくことは難しいように思われます。歴史小説家の司馬遼太郎はある小説で「人間は、習慣にもろい」と漏らしていますが、この司馬の発言は私たちの言語に至るまで、極めて当を得た発言だと思います(司馬遼太郎『花神』(上),1976,275,新潮文庫)。

翻訳不可能さ

私たちは、言語というものにとてもナイーブなことがままあります。この「ナイーブ」という言葉すら、「素朴な」とか、「未熟な」とかすぐさま翻訳できるのは英字辞書のおかげです。しかし、この辞書がなかった時代、一万円札に登場する福沢諭吉が、蘭学を学びつつもゼロから英語を日本語に翻訳をしようとした時代、今の私たちには計り知れないほどの「翻訳不可能さ」という困難があったに違いありません。

その困難さは、今現在海外で浸透しているセクマイワードをどのように日本社会に広め伝えるか、という困難さと似ています。ただ権利の主張だけで、その権利は勝ち取りえないでしょう。大切なのは、私たちの習慣、生活を、つまり「あたりまえ」としている自分の言語を見つめ直すことです。

最後にこの「翻訳不可能さ」という観点から、今回の問題をまとめたいと思います。

「クィア」の「翻訳不可能さ」

まず「クィア」という具体的な言葉から、この「翻訳不可能さ」について考えてみたいと思います。

そうとは名乗らない方でも、セクマイにご興味のある方、また別の当事者の方々は、この「クィア」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。「クィア」は元々、英語で「変態」等を意味する蔑称です。しかし、この言葉をLGBTQの当事者たちがあえて用いることで、社会に対して「変態で何が悪い!」という、ノーを突き付ける否定的な主張であると同時に、他方で、「クィア」と蔑視される私たち、自分たちの存在の承認の希求という肯定的な主張、この両義的な意味が「クィア」には含まれています。

「クィア」は―― 確かに、現在は様々な異論、分派が出てきましたが―― クィア理論という形でセクマイのありようが学問で語られるきっかけを作っただけではなく、「クィア」という「議題」の下にL・G・B・T・Q それぞれの垣根を越えて、またそれぞれの「差異」を感じつつ、議論し合い交流し合う空間を与えてくれました。

しかし、日本では一部の学問業界や識者を除いて、この「クィア」という言葉が生々しく用いられる機会はあまりないように感じられます。その一つの理由は「クィア」の「翻訳不可能さ」です。「クィア」の訳語は、その「変態で何が悪い!」というメッセージを伝えるならば「変態」や「オカマ」といった日本語での蔑称がベターでしょうし、その承認の希求という意味では「クィア」という聞きなれないカタカナ英語の方がよりその異質さを示します。

ですが、セクマイへの蔑称が日本のセクマイコミュニティにもたらした傷跡は大きいですし、「クィア」というカタカナ英語を、説明なしに聞いただけでは当事者ですらピンとこない可能性があります。このような「クィア」の「翻訳不可能性」が、一つには、日本社会に「クィア運動」のような流れの不在を作ったと言いえるでしょう。

「クィア」から見えてくるもの―― 性と生活

ところで、芸術家の岡本太郎は「出る杭は打たれる」という言葉を耳にしてから、「何か素通りできない問題がある」という思いを感じていたと語っています(岡本太郎『自分の中に毒を持て』新装版,2017,103,青春出版社)。ことそれほどまでに、日本では社会に対してメッセージを述べる存在は消えてゆきます。その意味で、「クィア」という言葉自体が、否定的であれ、肯定的であれ、そのどちらの意味でも、社会に対してセクマイという「杭」を突き出すために、日本人の「習慣」とは相いれないものなのではないでしょうか。

ですが、「習慣」が変化しないことには言語も変わらないことは先に述べました。もし「クィア」という「性」を社会に向かって表明する態度が日本社会では不可能だとしたら、それはそもそも「習慣」を形成する私たちの「生活」のなかで、「性」が「クィア」のようにして「議題」となることが難しいからだと感じます。

言い換えれば、「性」の複雑さ―― それはジェンダー・アイデンティティでも良いですし、セクシュアル・オリエンテーションでも良いです―― を日常ベースで個々人が触れる機会が少ないということです。情報としてthey/themポリコレのように入ってきたとしても、それが「自分事」として引き受けられることはどれだけあるでしょうか?

生活の変化から性を見つめ直すこと

さて、岡本太郎は「出る杭は打たれる」と聞いて、悲観していたわけではありません。それは僕も同じです。岡本は芸術を「生活」そのものと捉えています。言い換えれば、岡本が「芸術は爆発だ!」と、独り歩きしたキャッチフレーズを通して伝えたかったことは、「生活」に根差した「習慣」というものを、根本から変えてみることなのです。岡本は次のように語っています。

「日常のなかで、これはイヤだな、ちょっと変だなと思ったら、そうではない方向に、パッと身をひらいて、一歩でも、半歩でも前に自分を投げ出してみる。出発は今、この瞬間からだ」(岡本太郎,同,239-240)。

明日にすればいい、と思うことは沢山あると思います。焦る必要もありません。しかし、岡本が言うように「日常」という生活の中で、「半歩」でも違う方向に身を置いてみると、習慣づけられた言語の枠組みを、別の観点から感じることができるのではないでしょうか。そうしてはじめて、ポリコレという単なるルールではないような、生きられた言葉の変化の必要性を感じ取ることができるのではないでしょうか。さまざまな理由から私たちのこれまで習慣づけられた「生活」が問い直されている現在、私たちにはこうした「半歩」が求められているのかもしれません。

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