02 特別仲良しの女友だちがほしくて
03 自分にフタをし始めた男子高時代
04 「そういうもんなのかな」で結婚
05 ストレスが重なり、ビルの8階から
==================(後編)========================
06 閉じていたフタを少しずつ開いて
07 オフィシャルのカミングアウトは
08 埋没しようとしていたけれど
09 パンセクシュアルという概念
10 女性として生きて “地ならし” する
01女の子はズボンをはいてもいいのに
親の言うことは素直に
3歳くらいから、なんとなく自分はほかの男の子とは違うな、と気づいていた。
「仲良しの友だちがなかなかできなかったり、授業でも発言できなかったり、引っ込み思案すぎるところがあって」
「そういう私のことを、母は心配していたんだと思います。もっと積極的になれるように、と空手を習わそうとしたんです」
「でも、私は泣いて嫌がった。『なんでそんな怖いことさせるの?』って」
大きな声を上げたり、激しく手刀を振り下ろしたり。
それは自分がすることじゃない。自分はそうじゃない、と強く思った。
そのうち小学校に通いだすと、男女の違いに気づく。
男の子は黒、女の子は赤のランドセル。
なんで? と思ったけれど、口には出せなかった。
「長男だったということもあって、親の言うことを素直に聞くというのが体に染み付いていたんだと思います」
スカートがはきたい
黒のランドセルを持ちなさいと言われたら、『なんで赤じゃダメなの?』とか『男が黒なんて誰が決めたの?』とか、疑問に思う理由を深く考えて、親に対して自分の考えを返す、ということはしなかった。
「言われたことを、自分で “咀嚼する” ってことをしてなかったですね」
「『ランドセルは黒ね』『ハイ』みたいな(笑)」
「でも、女の子がはいているスカートを、私もはきたかったんです」
そんな気持ちを親に言えるはずはなかった。
「どうしてもはきたくて、こっそりと母のスカートをはいたりしてました」
「それで、ある日、母に『女の子はスカートもズボンもはいていいのに、なんで男の子はあかんのやろね?』ってきいたんです」
「私には、そうやって冗談っぽく言うのが精一杯でした」
兄弟は2つ年下の弟が1人。
洋裁をしていた母は、兄弟それぞれに手づくりの洋服を用意してくれた。
「母は、すごい頑張り屋さんで、家のことをひとりで全部やってました」
「実は、父が大分で、母が熊本出身で、私もルーツを辿れば九州男児だったんですよ(笑)」
「だからかな、母と同じく、なんでも自分ひとりでやっちゃうんです」
「セクシュアリティのことに関しても、はじめは目立たないよう世の中に埋没して、自分でなんとかしようと思っていたんです」
そういうところも母から受け継いでいるのかもしれない。
02特別仲良しの女友だちがほしくて
ラブレターで告白を
小学校では、好きな子が2〜3人できた。
どの子も活発な女の子だった。
「でも、特に恋愛関係という感じではなく、一緒に遊ぶ女友だちでした」
中学校では、1人だけ、自分から告白した女の子がいた。
陸上部に所属していて、音楽の趣味が合って、一緒にいて楽しい子。
「当時はメールなんてなかったですから、手紙を書いたんですよ」
「引っ込み思案だった私が、『好きです』って(笑)」
しかし、返事は「ごめんなさい」だった。
「やっぱり、女性は頼り甲斐のある男性を求めるし・・・・・・。私も彼女というよりは、仲良しよりも一段上の、特別仲良しの友だちが欲しいって感じだったので」
お互いに、求めていたものがズレていたのかもしれない。
逆に、下駄箱に女の子からの手紙が入っていることもあったが、そこから恋愛に発展することもなかった。
自分はなんなんだろう
そんななか、大人の男性になりつつある自分に、嫌悪感を感じ始めていた。
精通や声変わり・・・・・・多くの男の子が通る成長過程。
それが嫌だった。
「声は低くなるし、ヒゲは生えてくるし。ショックでした」
「その反面、女の子に告白したりしているわけで、どっちがどうなんって感じでしたね、当時は」
「でも、そのうち自分から告白して、振られるのがしんどくて、恋愛からは遠ざかっていきました」
男らしくなっていく自分の体が嫌だけど、女の子とは仲良くなりたい。
一体、自分はなんなんだろう。
テレビで、元は男性で女性の姿をしている人を見ても、「芸のひとつとして、こういう姿をしているだけで、自分とは違う」と感じていた。
そんな風に、自分に対してハッキリしない気持ちを抱えながらも、中学生活はそれなりに充実していた。
「特に、3年生のときの担任の先生がいい人で、クラスのみんなも団結してて」
「文化祭だったかな、クラスで出し物をしたんですが、私が当時テレビで流行っていた “タケちゃんマン” を演じることになって」
「ゴミ袋で衣装をつくったりして・・・・・・いい思い出です(笑)」
03自分にフタをし始めた男子高時代
男だらけの環境に馴染もうと
周りの男の子と仲良くしてはいたが、やはり一緒にいてラクなのは女の子。
高校進学に際しても、当然のように共学に進もうと思っていた。
しかし、担任の先生が強く勧めてきたのは私立の男子高だった。
「先生としては、なるべく生徒全員が高校に進学できるようにしたかったんだと思います」
「で、確実に合格できる専願で、特待生枠で申し込んだんです」
その高校は、野球や駅伝などスポーツに力を入れている学校だったが、進学クラスを新設したばかりとあって、広く生徒を募集していた。
特待生として合格できれば、学費は免除される。
親も、「もし、お金がかかっても、子どものためなら」と言ってくれていたし、断る理由もなかった。
そして試験当日、筆記試験を受け、早々に学校へと帰ってきた自分を見て、担任の先生が青ざめた。
筆記試験のあとに、特待生になるための面接があることを忘れていたのだ。
「先生が大急ぎで高校まで送ってくれたんですが、間に合わず」
「普通に、進学クラスの生徒として入学することになりました(苦笑)」
高校生活がスタートしてみると、当然ながら女の子はおらず、スポーツが得意な男の子が幅を利かせていて、今までとは環境が一変。
しかし、それでもなんとか環境に馴染もうと努力した。
本当の気持ちを隅っこに
「中学までは、まず仲良くなるのは女の子だったし、女の子とばかり一緒にいたので、最初は戸惑いました」
「でも、男子高だから仕方ない、こういうもんなんだって思わないと、3年間やっていけないと思って」
スカートをはきたかった記憶や、女の子と一緒にいたい気持ち、男らしくなっていく自分の体への嫌悪感。
そんな、自分の想いは見ないようにフタをして、忘れようとした。
それを後押ししたのはブラスバンドの部活だった。
「スポーツ強豪校ということもあって、応援の演奏に力を入れているマーチングバンドで」
「演奏よりも身体を鍛える感じの部活だったんです」
「そこで、いろんなモヤモヤを発散してたのかも」
担当した楽器はフルート。
入部した当時はフルート奏者がおらず、音の出し方さえ誰からも教えてもらえない状況だった。
同時に入部した中学1年生と一緒に、教則本を見ながら地道に練習した。
「中高一貫の学校だったので、ブラスバンドの部活も中高で一緒にやっていたんです」
「その中1の後輩とは仲良くなって、高校を卒業してからもたまに会ったりしました」
クラスでも一緒に遊ぶような友だちができ、高校2年生のときには数人で連れ立って、自転車で海まで初日の出を見に行った。
「でも途中で何人もパンクして、結局、初日の出は見られなくて(笑)」
「高校の頃は、LGBTに関する知識が耳に入ってくることもなかったし、友だち同士で恋愛の話もしなかったです」
「自分にフタをしたまま、本当の気持ちを隅っこに追いやることができていたのかなって思います」
04「そういうもんなのかな」で結婚
恋愛が上手くいかない
自分にフタをしたまま3年間過ごした男子高を卒業し、大学の電子工学科へと進学。
男性ばかりの環境から、突然、女性もいる環境になった。
「高校でのブラスバンドの経験を活かして、大学ではオーケストラに入ったんですが、なんか女性との接し方を忘れちゃってて」
「どうやって話したらいいんですかって、先輩にきいちゃいました(笑)」
しかし、その環境にも次第に慣れていき、恋愛も経験した。
「何人かと付き合ったんですが、キスもできなくて。半年とか1年で『優しすぎる』って、言われて別れました」
「私としては、やっぱり、一段上の仲良しの女友だちとしか、相手のことを見られなかったんです」
それでも、大学でのオーケストラの活動は楽しかった。
「関西の大学のオーケストラが集まって、合宿して演奏したりする阪神学生オーケストラ連盟というのがあるんですが、そこで、同じフルートパートの子たちと仲良くなって」
「卒業してからも、そのメンバーで遊ぶようになったんです」
ある日、メンバーの1人の女性に「明日も空いてるから遊びに行かへん?」と何気なく声をかけた。
「私としては、単純に暇だったので声をかけただけなのに、遊びに行ったら『次はいつ会う?』ってきかれて、『え、次もあるの?』って(笑)」
それが4〜5回続き、恋人として付き合っていることになり、結婚を考えるようになる。
結婚して、子どももできて
「恋愛って勘違いから始まるっていうし、結婚するのも、そういうもんなんかなって思って・・・・・・結婚することに決めました」
「その頃もまだ自分にフタをしていて、結婚したら自分も幸せになれるんかなって、漠然と考えていたんです」
結婚して数年で、2人の男の子にも恵まれた。
幸せになれると思っていた。
しかし。
「毎日のように『子どもはほしいけど、旦那はいらんねん』と、妻から言われて・・・・・・。仕事も忙しかったこともあって鬱病になってしまって」
仕事は、大学卒業後に電機メーカーのソフトウェア開発に携わった。
幼稚園のとき、親に「大きくなったら何になりたい?」ときかれて「ロボットをつくりたい」と答えた。
中学生では、ポケットコンピューターでゲームをつくることにハマった。
幼い頃からの興味が、ぶれることなく仕事につながっていた。
しかしソフトウェア開発の仕事は忙しく、朝まで働くこともあった。
そんななかで、いつしか鬱病を患ってしまう。
05ストレスが重なり、ビルの屋上から
もうダメだダメだ
仕事で疲弊しているところにぶつけられる、妻からの心ない言葉。
「なんか、お腹痛いなって思って病院に行ったら、精神科を勧められました」
「鬱病だったり抑鬱状態だったり・・・・・・。診断名は変わっていって」
処方された薬を飲んでも、状況は変わらなかった。
「ああいう薬は、気分をハイにさせるようで。良い方向にハイになればいいんですが、急に怒ってしまって喧嘩することもあって」
夫婦の関係は悪化していった。
妻から「稼ぎが足りない」と責められるも、症状のせいでこれ以上は働けない。かといって、収入の足しになるように妻が働くわけでもない。
家族みんなの生活費、子どもたちの習い事や教育にかかる費用・・・・・・。
それを理由に責められ続ける日々。
「もうダメだダメだって気持ちが重なっていって、ある日、飛び降りたんです」
「8階建てのビルの屋上から」
偶然にも1階のテナントのテントに引っかかり、一命をとりとめたものの、肺には穴が空き、全身を骨折し、あごにも大きな怪我を負った。
救急車で運ばれ、集中治療室で1ヶ月以上、意識不明のままだった。
離婚までの家庭内別居状態
「目が覚めた時には、鬱病の薬もすっかり抜けてて・・・・・・。それがよかったんですかね、怪我が治ったら社会復帰できました」
しかし、家庭と仕事の状況は変わらなかった。
「会社では、休んでいたせいもあって、『あれができていない、これができてない』と焦ってしまい」
「家では、相変わらず妻から責められて」
「ほんと、通勤時間だけがリラックスできる自分の時間でした」
そんなある日、妻が「離婚したい」と切り出した。
すでに家庭内別居状態だったので、すぐにでも離婚できる状況ではあったが、気がかりなのは子どもたちのことだった。
「その頃は上の子が中2で、下の子が小5」
「ちょうど3つ違いだったので、せめて学校が変わるタイミングで離婚しようと話し合って」
そして、上の子が高校入学、下の子が中学入学のときに離婚。
それまでの約1年半は家庭内別居状態だった。
しかしそれでも、確かな希望は見えていた。
「離婚して、ひとりになったら、好きなことをやろう、本来の自分を出していこうって考えていたんです」
<<<後編 2019/06/22/Thu>>>
INDEX
06 閉じていたフタを少しずつ開いて
07 オフィシャルのカミングアウトは
08 埋没しようとしていたけれど
09 パンセクシュアルという概念
10 女性として生きて “地ならし” する