INTERVIEW
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カミングアウトが、相手に秘密を抱えさせてしまう可能性を、考えなきゃいけない。【前編】

取材当日は、春の嵐。強風に吹き飛ばされそうになりながら、待ち合わせ場所に現れた関口千草さん。そんな状況も笑いに変えるざっくばらんなキャラクターと、肩の力が抜けたラフな雰囲気で、人の心をつかむ関口さんだが、幼い頃は人間関係に苦戦してきたという。そして、自身のセクシュアリティを打ち明けることで知った、相手の中に生まれる苦しみ。その気づきが、成長のきっかけになった。

2018/06/16/Sat
Photo : Mayumi Suzuki Text : Ryosuke Aritake
関口 千草 / Chigusa Sekiguchi

1987年、神奈川県生まれ。サッカーやテニスが好きな活発な少女は、高校時代に初めて留学を経験。時を同じくして、女性に好意を抱くようになる。短大卒業後は、ハワイに留学し、人類学や女性学を専攻。帰国後、家族にカミングアウト。福祉用具メーカーに専門相談員として勤めた後、現在は地元の地域ケアプラザにてソーシャルワーカーとして奮闘中。

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INDEX
01 困っている人をサポートする仕事
02 海辺の町と解放的な家族
03 好きなことと苦しいことの狭間
04 他者の気持ちを汲めない自分
05 環境を一変させるための “留学”
==================(後編)========================
06 異国で知った “人と打ち解ける方法”
07 「同性愛者」の自分という輪郭
08 見えていなかったカミングアウトの側面
09 大事にせず認めてくれた両親
10 自身のことをマイルドに伝える意味

01困っている人をサポートする仕事

ソーシャルワーカー

「今は生活相談員って肩書きなんですけど、ソーシャルワーカーだと思って働いてます」

現在の職場は、地元の地域ケアプラザ内の高齢者対象のデイサービス。

業務は、ケアマネージャーとの連絡や要介護者の個別援助計画の作成など、多岐に渡る。

「入浴介助もやるし、利用者さんと一緒に歌ったりもしますよ」

もともとは車いすや介護ベッドなど、福祉用具の専門相談員をしていた。

「パーツがバラバラになっている介護ベッドを運んで、納品先で組み立てる仕事でした」

「当時の仕事も今の仕事も、ケアマネージャーさんやご家族との関係性は、あまり変わらないです」

「以前は株式会社だったけど、今は自治体の施設というところは違いますけど」

転職するタイミングで、社会福祉士の資格を取り、介護職員初任者研修を受けた。

敏感すぎないこと

今は高齢者の分野が主だが、いずれは多方面へのサポートをしていきたい。

「障害者や児童、低所得者の分野はあるけど、福祉においてLGBTの分野ってないんです」

「そこまで細かく分ける必要もないけど、今は分けないと世間に伝わらないですよね」

「私はレズビアンだから、LGBTに関しても、この業界の中では詳しい方じゃないですか」

「だから、福祉の面でサポートできたら、って思うんですよね」

しかし、強いメッセージを発信したいわけではない。

「これは絶対許せない、っていうことは、あんまりないんです」

「『SOGIハラ絶対ダメ!』みたいなことは、言えないかな」

ハラスメントは受け取る側の気持ち次第だが、相手は意図していない場合もある。

興味を持って投げた質問が、ハラスメントとして受け取られてしまうこともあるだろう。

「聞き方にも工夫がいるだろうし、説明する側もうまく伝えられたらいいなって思います」

「何気ない質問に当事者が過敏に反応したら、相手は何も聞けなくなっちゃいますよね」

「相手のことを知れる機会が、失われていくのはもったいないから」

「1つのムーブメントとしてLGBTを発信することは大事だけど、意識しすぎなくていいんじゃないかな」

払拭したい生活しづらさ

自分のセクシュアリティを、家族やパートナーには、わかっていてもらいたいと思う。

しかし、世の中の全員に理解してもらう必要は、ないのではないか。

「セクシュアルマイノリティだって普通に生活してるし、特別でもないと思います」

「私は女の子が好きっていうのは、食べ物の好みに近いんじゃないかなって」

「私はトマトが嫌いだけど、それと一緒で男性がちょっと苦手っていうだけ」

ただ、生活しづらい部分が出てくることも確か。

結婚すれば受けられる制度が、LGBTであるために受けられないことがある。

「パートナーと住んでいたとしても、ルームシェア扱いになるのは、違うかなって思います」

「そのちょっとしたズレをなくすために、ソーシャルワーカーがいられたらいいかな」

「生活しづらくて、助けが必要なんだったら、それは福祉じゃないですか」

「もちろん、実際には相談しに行くところを地域の人に見られたらどうしよう、って不安もあると思います」

「すごくハードルは高いけど、来てくれたら、サポートをスムーズに受けられるように手伝いたいですね」

そう考えるようになったのは、自分がたくさんの人に受け入れてもらってきたからだ。

02海辺の町と解放的な家族

実家は電線加工会社

神奈川県平塚市で生まれ育った。

「学校の行事で、海に行くことが多かったです」

「砂浜のごみを拾ったり、ビーチコーミングをしたり」

実家は、電線加工会社を営んでいた。

「祖父が経営していた会社を、父が継いだんです」

「母も、私が中学を卒業するまでは専業主婦で、父の仕事を手伝っていました」

「ゲーム機のパーツを作っていた時期もあって、完成品をもらったりしてましたね」

父親は、もともとボディビルダーだった。

現役を退いても体を鍛えることが好きだったため、トレーニングジムを開業。

「父は61歳ですけど、今もまだ鍛えていますよ」

「地元のお祭りでお神輿を海に担ぎ入れる “浜降り” にも、参加していました」

アクティブで肯定的な両親

裕福というわけではなかったが、たくさんのことを経験させてもらった。

「私が生まれた頃って、ちょうどバブルの時代なんですよ」

「だからか、小さい頃は家族旅行で、夏は海外、冬はスキーに行くのが恒例でした」

「海外は、ハワイとかグアムが多かったかな」

いろいろな経験をさせてくれる、アクティブな両親だった。

「『やりたい』って言ったことは、何でもやらせてくれました」

「『坊主にしたい』とか『ランドセルは紺がいい』ってワガママも、聞いてくれましたね(笑)」

小学1年の時、近所にテニススクールができた。

通い始めた母についていくと、ジュニアコースがあることを知る。

「それからテニスを始めて、そのスクールのコーチとは今でも連絡を取り合ってます」

「ほかにも習い事もいっぱいしていたけど、サッカーが一番好きでしたね」

正反対の姉

2歳上の姉とは、好みも性格も違った。

「私は球技が大好きな子でしたけど、姉は割と女の子っぽいことが好きでしたね」

「スポーツよりも、音楽の方が好きだったり」

「だから、あんまり姉のマネをすることはなかったと思います」

「でも、年齢が近いから、よく双子に間違えられました」

両親が、姉妹に色違いの服を着せていたことも、双子と思われた要因の1つだろう。

仲が悪かったわけではなく、むしろ姉を頼りにしていた。

「幼稚園に通うのが不安だった私は、よく年長組の姉の教室に行っていたんです」

「そのまま自分の教室に戻らずに、姉の隣に座っていました(笑)」

「今でもべったり一緒にいることはないけど、頻繁に連絡は取ってます」

03好きなことと苦しいことの狭間

大好きだったサッカー

小学3年で、地元のサッカーチームに入った。

「子どもの頃から、体を動かすことが好きだったんでしょうね」

最初は男子のチームに混ざって練習していたが、女子は出場できない大会もあった。

「大きな大会になると出られなくて、ベンチに座っていました」

「同じチームに1歳上の女の子がいて、女子サッカーのチームに誘ってくれたんです」

「女子チームに所属して、5、6年生の時には県の選抜チームにもセレクション(選考試験)を受けて入りました」

練習は毎週末、地元から少し離れた場所で行われた。

「練習や試合の送り迎えは、すべて両親がしてくれたんです」

「姉も大会の時には応援しに来てくれて、今振り返るとありがたかったですね」

しかし、当時は親に見られるのが、嫌だった。

「自分のプレーを見た両親から、ダメ出しをされることが多かったから(苦笑)」

それでも、サッカーが好きな気持ちが勝っていた。

幼なじみ男子への好意

学校では、意図せず注目を集めていた。

「静かなタイプではなかったけど、目立ちたがり屋でもお調子者キャラでもなかったんですよ」

「でも、学級委員をやっていたし、授業中に発言する方だったから、目立っていたのかも」

「男の子に間違われることも多かったですね(苦笑)」

性別を間違われることが、嫌だった時期もあった。

しかし、男子と遊ぶことが多く、サッカーもしていたため、どうしようもなかった。

「当時は、幼なじみの男の子が好きだったんですよ」

「運動ができて、足が速い子でしたね(笑)」

「小学校から中学3年まで、バレンタインのチョコを毎年あげていました」

「でも、つき合いたいって気持ちは全然なくて、恋なのかもよくわからなかったです」

大人からの冷たい仕打ち

小学校高学年の担任の女性教師は、人の好き嫌いを表に出してしまう人だった。

「自分で言うのも変ですけど、私は勉強も運動もある程度できる方だったから、最初は気に入られたんですよね」

担任は、その日の機嫌で態度が変わった。

授業中、教師の問いに答えられなかった生徒を、立たせることも日常茶飯事。

「その雰囲気が嫌で母に話したら、母から先生に『改善してほしい』って伝えてくれたんです」

「その後から、私への風当りが強くなりました」

担任から「あんなに目をかけたのに」と言われ、大事なプリントをもらえないこともあった。

「すごく仲がいい友だちがいたわけでもないから、学校に居場所がなかったです」

「小学6年の1年間はすごく行きたくなかったけど、一応休まずに通いました」

04他者の気持ちを汲めない自分

特別扱いと嫉妬

小学6年まで続けたサッカーは、中学進学のタイミングで辞めた。

「女子サッカーって、中学生から『一般』に入れられて、大人と一緒にやるんですよ」

「努力すれば良かったのかもしれないけど、頑張れない時期だったんですよね」

「選抜チームには、すごいうまい子もいたし、続けられないかなって・・・・・・」

中学では、長く続けてきたテニスに集中しようと決めた。

「2歳上に姉がいたから、知り合いの先輩も多くて、テニス部の部長さんも良くしてくれたんです」

入部早々、部長とペアを組み、練習試合に連れていってもらった。

「私だけ特別扱いされているみたいで、同級生にしたら面白くなかったでしょうね」

「でも、私はひがんでばかりの同級生に対して『なんで練習しないの?』とか、平気で言っていたんです(苦笑)」

「当時の私は、相手の気持ちを考えていなかったんですよ」

「だから、友だち関係はうまく築けなかったです」

扱いづらいチームメイト

仲の良かった3年生たちは、6月で部活を引退してしまった。

「3年生がいなくなってからが、辛かったな」

2年生の先輩たちよりも実力があることは、自分でわかっていた。

だから、すごく扱いづらい後輩だったと思う。

ペアを組んだ同級生に対しても、厳しく当たってしまった。

「今、その子に会えたら、謝りたいですね」

「あの頃の私は、本当にひどいやつだったな(苦笑)」

続けられなかったテニス

中学1年の担任の女性教師は、テニス部の顧問で、かわいがってもらっていた。

学校では軟式テニス、地元のテニススクールでは硬式テニスを、並行して続けていた。

ある日、担任に「硬式の試合に出たいから、部活を1週間休ませてほしい」と伝えた。

「先生は『お前はどっちをやるんだ』って、怒り出したんです」

「その日から先生の態度が豹変して、私も反発してしまったんですよね」

もともと「千草」と呼ばれていたが、「関口さん」と呼ばれるほどに距離が離れていった。

「教務主任の先生に心配されるぐらい、私への当たりが厳しかったです」

「結局、テニス部は中2の秋に退部しました」

担任にきつく当たられるようになってから、部活のトップチームに入れてもらえなくなった。

「最後に出た県大会では、ベスト16に入れたけど、次の日に辞めました」

両親には、学校や部活でのことを話していた。

「母は『そんなに辛かったら、辞めてもいいんじゃないの』って言ってくれたと思います」

「振り返っても、中学の楽しい思い出はあんまりないなぁ(苦笑)」

05環境を一変させるための “留学”

日本からいなくなる道

学校生活を楽しめなかった。

再びテニス一色に染まる高校生活は、嫌だと思った。

しかし、応援してくれていた両親に、「もうテニスはやらない」とは言えなかった。

「浅はかだったから、日本からいなくなっちゃえばいいんだ、って思ったんですよ」

「留学することを決めました」

「テニス部の先輩のお兄さんが留学経験があって、話を聞けたのも大きかったですね」

留学中の勉学を、卒業に必要な単位として認めてくれる公立高校へ進学し、留学斡旋会社に申し込んだ。

高校1年の夏から1年間、アメリカに留学することが決まった。

「海外への憧れもあったけど、環境を変えたい気持ちの方が強かったですね」

「親には本当の理由は話さなかったけど、気づいていたんじゃないかな」

ミスだったかもしれない選択

いざ高校に入学すると、想像よりもずっと楽しい生活が待っていた。

テニス部もクラスも円満で、順調に楽しい日々を送ることができた。

「留学を選んだのはミスだったかな、って日本にいたくなる時もありました」

「でも、いまさら『留学しない』とは言えないから、その選択は変えませんでしたね」

「行ったら行ったで、すぐホームシックです(笑)」

「行きの飛行機に乗った時点で、すでに寂しいわけですよ」

アメリカに到着してからの1カ月は、コロラド州で英語研修を受けた。

「富士山5合目ぐらいの高地だから、すぐ頭が痛くなっちゃうんです」

「その間もホームシックだし、体はしんどいし、アメリカに渡ったばかりの頃は辛かったですね」

 

<<<後編 2018/06/18/Mon>>>
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06 異国で知った “人と打ち解ける方法”
07 「同性愛者」の自分という輪郭
08 見えていなかったカミングアウトの側面
09 大事にせず認めてくれた両親
10 自身のことをマイルドに伝える意味

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