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Writer/きのコ

「ポリアモリー なんて名乗る必要なくない?」と言われて

複数の人と同時にそれぞれが合意の上で性愛関係を築くライフスタイル「ポリアモリー」。ポリアモリーであると自ら名乗ることには、どのような意味があるのだろうか。今回は、肩書きとアイデンティティについて考えていきたい。

ポリアモリーと名乗ること

ポリアモリーについて発信していると、ときおり「別に “ポリアモリー” なんて肩書きをわざわざつける必要なくない? 」というようなコメントをもらうことがある。今回は そういった第三者からの意見について、考えてみたいと思う。

「ABEMA Prime」への出演

以前私は「ABEMA Prime」というインターネットのニュース番組に出演して、キャスターやMC、コメンテーターの方々とポリアモリーについて話す機会があった。

どの人も興味をもって話を聞いてくれたのだが、MCのひろゆき氏は「ポリアモリーって要は妾制度と同じですよね」と投げかけてきた。私はポリアモリーと妾制度や一夫多妻制(ポリガミー)との違いなどを、男女平等などの点からできるだけ丁寧に説明し、その日の放送は大きな波乱もなく終わったと思われた。

ポリアモリーという肩書き

しかし後日。彼は自身のYouTubeチャンネルで、以下のように語っていたのだ 。

「ポリアモリーやモノガミー、どちらに共感されますか? また今後の結婚制度は変わっていくと思いますか? 」という視聴者からの質問を受けて・・・・・・

「ヤリチン・ヤリマンの人って、単に性欲が多くて、そういうのが大好きですっていうだけじゃないですか」
「それを『私のアイデンティティです』って言って、(ポリアモリーという)カタカナの名前で肩書きをつける必要ないと思うんですよね」
「そこにアイデンティティをもつ必要性を僕はあまり感じないんですけど、その名前をつけなきゃいけない理由ってあるんですかね」

私は驚いてしまった。

あれだけ説明したにも関わらず、彼はポリアモリーをまったく分かっていなかった (というか、わざと間違った解釈を語って、スキャンダラスな話題にしようとしているとしか思えなかった)。

ポリアモリーは恋愛におけるライフスタイル

ポリアモリーとヤリマン

そもそも論として、ポリアモリーは恋愛に関する言葉であり、ヤリマンはセックスに関する言葉なので、ポリアモリーに向かって「ヤリマンでいいじゃん」は、的外れというものだ。

ポリアモリーかつヤリマンの人もいるし、ポリアモリーだけどヤリマンではない人もいるし、ポリアモリーではないけどヤリマンの人もいる。

ちなみに私個人は、ポリアモリーと同時にビッチ(ヤリマン)を自称してもいる。要は、恋愛におけるライフスタイルはポリアモリーで、セックスにおけるライフスタイルはビッチだということだ。

ポリアモリーに対する第三者の意見

他にも、関係ない話をしていて質問に答えていないとか、YouTubeでの彼の話に対するツッコミどころはいろいろあるのだが、その中でも「ポリアモリーという肩書きをつける必要はない」というコメントが気になった。

誰だって基本的には自分にどのような肩書きをつけてもいいし、それを公言してもしなくてもかまわないと思うのだが、この「そんな肩書きつけなくていいじゃん」という第三者からの意見は何なのだろうか?

好きな肩書きを名乗って いい

”関係者全員の合意を得て複数人と交際する” というライフスタイルを営んでいても、ポリアモリーを名乗る人もいれば名乗らない人もいるし、ヤリマンを名乗る人もいれば名乗らない人もいる。

各自がそれぞれに好きな肩書きを名乗ればいいのだし、何を名乗るかはあくまでも本人が自分で決めることだ。

”名付け” に対する “名乗り返し”

肩書きを押し付けてくる他人

例のMC含め「ヤリマンでいいじゃん」と言う人の中には、「ヤリマンは別に悪いものじゃないよ! だからヤリマンと名付けても 問題ないだろ? 」と言う 人もいる。

しかし、世間一般において “ヤリマン” はまだまだ倫理的にネガティブなニュアンスをもつ言葉だし、そもそも「あなたがたとえ ヤリマンという肩書きに肯定的でも、あなたに肩書きを押し付けられたくはない」としか言えない。

「ヤリマンという存在を肯定すること」と「他人を勝手にヤリマンと名付けること」とは違う。

ヤリマンという言葉があることを知ったうえで、それでもポリアモリーを名乗ることを選択している人に向かって、「ヤリマンでいいじゃん」と言うのは余計なお世話というものだ。

もちろん、好きでヤリマンを自称している人に「いや、それはポリアモリーだよ」と肩書きを押し付ける必要もない。ミニマリストに向かって「 “ケチ” でいいじゃん」とわざわざ言わなくたっていいのと同じことだろう。

当事者からの “名乗り返し”

「第三者からの “名付け” に対する当事者からの “名乗り返し” 」って、人々が自らのアイデンティティを肯定的に確立するためによく使う手段だと思う。

かつて「クィア(変態)」と名付けられた人々が「ゲイ」と名乗り返してきたように、かつて「トランスセクシュアル(性転換症)」と名付けられた人々が「トランスジェンダー」と名乗り返してきたように。

ヤリマンやビッチと名付けられてきた人々が「ポリアモリー」と名乗り返すことによって確立されるアイデンティティだってあるし、そうやって自分を受容しようとする人が、他人から「ヤリマンでいいじゃん」「そこにアイデンティティをもつ必要性を感じない」とジャッジされる謂れはない。

必要性を感じない人は名乗らなければいいし、必要性を感じる人は名乗ればいい、というだけのことだ。

勝手に他人を名付けるな

もしどうしても他人に「ヤリマンでいいじゃん」と言いたいのなら、「ポリアモリーを名乗ること」と「ヤリマンを名乗ること」とが倫理的に等価な選択肢になる必要がある。どちらを選んでも変わらない、という状況になって初めて、「ヤリマンでいい(し、ポリアモリーでもいい)じゃん」と言えるようになるだろう。

結局は、「あなたの価値観を他人に押し付けるな、勝手に他人を名付けるな」ということに尽きるのではないだろうか。

自分が何を名乗るかは、その人が自分で決めていい。 というか、自分しか決めてはならない。自分自身の肩書きを、他人から押し付けられる筋合いはない。

世間の名付けに振り回される必要はないし、他人を勝手に名付ける必要もない。自分はどの肩書きを使いたいのか使いたくないのか、誰もが自由に選べるようになればと思う。

 

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