02 夢は体操のオリンピック選手
03 運動では存在感バツグン
04 試合で会った女子選手に一目惚れ
05 好きになる相手は女子ばかり
==================(後編)========================
06 みんなに感動を与える徒手体操
07 親友とお姉ちゃんにカミングアウト
08 初めての恋人と出会って、レズビアンと確信
09 SNSのQ&Aで、LGBT当事者と公表
10 味方がいる、受け入れてくれる人がいる
01いつもお姉ちゃんと一緒
豊島園が第2の我が家
東京都練馬区の一軒家で生まれ育った。両親と2歳年上のお姉ちゃんの4人家族。
「子どもの頃、両親に本当にいろいろなところに連れていってもらいました。ディズニーランド、サンリオピューロランド、それに鹿島に別荘があったんで、そこにもよく家族で行きました」
なかでも思い出深いのは、豊島園だ。
「家から近いこともあって、本当によく行きました。年パスも持っていたし、第2の家といってもいいくらいたくさんの思い出があります。豊島園がなくなるときは、母とお姉ちゃんと3人で、花火を見上げながら涙を流しましたよ」
家族の旅行の記録は、お母さんがアルバムにまとめて残してくれた。
「日付や場所がきちんとメモされていて。そんなアルバムが30冊くらいあるんですよ。家族みんなが写っているもののほかに、“わたし用” もありました」
大工を仕事にしていたお父さんは、背が高くてカッコよかった。
「よくキャッチボールをして遊びましたね。私はパパっ子だったのかもしれません」
一方のお母さんは元アスリート。日本代表の合宿に呼ばれたこともある優秀なスイマーだった。
「体操に打ち込むことができたのも、お母さんが応援してくれたからだと思います。学校の成績が悪くても、『二菜は体操を頑張ればいい』っていってくれました(笑)」
子ども思いのやさしいお母さん
思い出に残っているお母さんの一番の印象は、子ども思いのやさしさだ。
「介護の仕事をしていたんですけど、私たちのために夜勤もして、寝る時間を3時間に削って頑張ってくれました。本当に感謝でいっぱいです」
メインの仕事のほかに整体師の資格を取ったり、一時期は居酒屋を経営したこともあった。とにかく、夜中まで身を粉にして働いてくれるお母さんだった。
「お姉ちゃんは陽気な性格で、いつもポジティブにものごとを考える人です。あまり考えないで何でも前に進めて、なんとかなるってタイプですね(笑)。ストイックで努力家でもあります!」
「私は真逆で、真面目で慎重な性格。真面目すぎてつまんない、もっと遊んでおけばよかったって、今になってよく思います(苦笑)」
身長は、私は166センチあるが、お姉ちゃんは160センチくらい。趣味も系統がまったく違う。いろいろな意味で対照的だが、仲はものすごくいい。
「小学生から中学まで同じ体操クラブに入って、高校も同じ体操部。大学も就職先も同じだったんです。周りにもよく、仲がいいねっていわれます。小さい頃は、母が毎日のようにおそろいの服を着せてくれました」
お母さんが仕事で帰りが遅いから、とにかく一緒に過ごす時間が長かった。
「きっと、私がお姉ちゃんのことをすごく好きなんですね。子どもの頃は、ひっつき虫みたいでした(笑)。いろんなことが真逆なのも、いい感じのバランスなのかもしれません」
02夢は体操のオリンピック選手
いろいろな習いごとを経験
幼稚園の頃は女の子系の遊びも、仮面ライダーもどっちも好きだった。
「年長さんのときに、幼稚園のクラブでサッカーを1年だけやりました。男の子ばっかりで、女の子は私ひとりだけでした。普段でも男の子たちと遊ぶことは多かったですね」
小学生になるとピアノ、ダンス、塾など、いろいろな習いごとを始める。そのなかで出会ったのが、家の近くにあった大泉スワロー体育クラブだった。
「お姉ちゃんと一緒に入りました。クラブの中に体操や水泳、トランポリンもあって、いろんな習いごとの中から最終的に体操を選びました」
大泉スワローは世界体操に出場する選手を輩出する名門クラブ。それからの半生は、まさに体操とともに歩むこととなる。
「学校が終わったらそのまま体操にいって、毎日、夜まで練習をしてました。練習環境や仲間、指導者にも恵まれてましたね」
「スワローがなかったら、私はどうなっていたか・・・・・・。まったく別の人生になっていたと思います」
放課後、午後5時から練習を始めて、一般コース、育成コースのときは、夜8時まで、選手コースに上がってからは夜9時まで練習を続けた。
仲間に恵まれ、才能開花
大泉スワロークラブで指導を受けたのは、オリンピック競技と同じ、平均台、跳馬、床、段違い平行棒の4種目。
「私は脚の力が強かったんで、特に跳馬と床が得意でした」
初めての大技に挑戦するときは、恐怖心との戦いになる。
「最初はやっぱり怖いですよ。それを乗り越えるには・・・・・・気合ですね(笑)」
平均台は幅10センチしかない。その台の上でバランスを取り、難易度の高い演技を披露する。
「試技の前は、いつも緊張してブルブル震えてました。振り返ると、よくあんなことをやっていたなって思います。今じゃ、とても考えられません」
難しい技をなんなくスタートできると、うれしくてモチベーションも上がっていく。
「嫌なこととか、つらいこともありましたけど、上を目指すにはそれも当たり前だと思ってました。つらいことも寝ちゃえば忘れられたし、そんな性格もよかったのかもしれませんね」
素晴らしい仲間にも恵まれた。
つらさよりも楽しさが大きい環境で練習に没頭、ぐんぐんと実力をつけていく。
「小6のときに、4種目の総合で東京都のチャンピオンになったんです。でも、自分では自覚がなくて、あとでトロフィーを持った写真を見て、こんなこともあったんだって思ったくらいです(笑)」
そのほかにも東日本で3位に入った実績もある。
「体操だけはおねえちゃんより上手でした。子どもの頃からオリンピック出場の夢がありました」
03運動では存在感バツグン
授業中は目立たない子
小学生の頃は体操漬けの生活。学校の友だちと放課後に遊んだ記憶はほとんどない。
「学校でのみんなからの印象は、『運動ができる子』でしたね。卒業アルバムにも『一番足が速い子は誰?』っていうタイトルで、みんなの答えは私になってました。足の速さでは目立ってましたね」
実際に、運動では男子に混じっても互角に渡り合っていた。しかし、クラスで前面に出て目立つタイプではなかった。
「普段はひっそりしていて、ちゃっかりバク転しちゃう、みたいな(笑)。それで、みんなから、すごいねーっていわれて喜んでました」
運動では実力を示したが、勉強は苦手だった。
「勉強は嫌いでしたね。母も体操ができればいいっていってくれたので、私も体操に専念しました」
小6のとき、やはり運動ができる男の子が好きになって、手紙を渡したことがあった。
「相手も、『ぼくも』っていってくれて、つき合うことになりました。幼なじみで、かわいい感じの男の子でした。彼はサッカーをしてました」
初めてのデートは、もちろん豊島園。友だちカップルとのダブルデートだった。
選手コースの仲間は15人
中学に進学しても、引き続き体操に明け暮れる日々。選手コースのコーチは40歳くらいのロシア人だった。
「クールでカッコいい人でした。今は体罰が厳しく禁止されていますけど、あの頃は『膝が伸びてないぞ』って、パンって叩かれるのは当たり前でした」
普段はやさしい人だと分かっているし、信頼関係もできていたため、厳しく指導されることに違和感など感じたことはない。
「ちゃんと挨拶をしなさい、とか、目を見て話しなさい、とか体操以外の礼儀なんかの指導もしてくれました。コーチがよかったから、打ち込めたんだと思います」
選手コースで一緒に頑張った仲間は15人。15人のなかには、お姉ちゃんも入っていた。年齢的には、4、5歳の年齢の幅があったが、クラブのメンバーに上下関係はない。
「授業が終わると、みんなは部活にいって、私は体操クラブ。それが日常でしたね。選手コースに入ってからは週に6日間、練習があって、終わって帰ると夜の10時でした。本当に毎日が体操でした」
目標とする大会は年間にいくつかあったが、それよりもひとつひとつの技をマスターすることに燃えていた。
「休みの日も、スワローの仲間と遊びにいってました。やっぱり、豊島園が多かったですね(笑)。クラスの子と遊んだ記憶は、ほとんどありません」
デートをしている暇もなく、小6からつき合った子とは、中1ですぐに自然消滅してしまった。
「選手コースの男子に、ひとりカッコいい子がいたんですけど、気持ちは伝えられませんでした。彼とは、今でも仲がいい友だちです」
04試合で会った女子選手に一目惚れ
靭帯切断の大ケガ
体操のオリンピック代表を視野に入れていたとき、つらいことが起こった。
「練習中に膝の靭帯を切ってしまったんです。満足に練習ができなくなって・・・・・・。本当につらかったですね」
ひとりだけ別メニューの自主練になったが、コーチも自分だけをみてくれるわけではない。
「こっそり練習を休んで、お母さんにバレたこともあったけど『どうして休んだの?』と優しく聞いてくれました」
「辞めたいな、と思うことは何度かありましたけど、自分には体操しかないことが分かってたから、本気で辞める気ではなかったんだと思います」
ケガが治って復帰はしたが、気持ちに微妙な変化が芽生える。
「いつの間にかオリンピック出場という気持ちは消えて、将来の目標が『体操の先生』になりました」
大泉スワローに在籍できるのは中学生まで。高校に進学する仲間が、徐々にクラブを離れていく。
「今でも、同期の子たちとは仲がよくて、連絡を取り合ってます」
一方、学校の勉強は相変わらず好きになれなかった。
「板書をノートに取るのは好きなんですけどね。それで満足しちゃって、テストの点数はいつもよくありませんでした」
手紙交換の交際
女性を初めて好きになったのも中学生のときだ。
「1年生のクラスに、『お気に入りの子』がいたんです。身長が高くて、勉強ができる子でした。後から考えると、あの子のことが好きだったんだろうなって思います」
その次に憧れたのは、ほかの体操クラブの選手だった。
「色白でスタイルがよくて、かわいい子でした。試合で見かけて、一目惚れでしたね。演技もとても上手でした」
とにかく好き、という気持ちが募ったが、試合でしか会うことができないほかの体操クラブの女の子。
好きな人の名前を書いた紙を消しゴムの中に入れるという、おまじないのようなこともした。
「ようやく次の試合で一緒になったときに、なんとか近づいて声をかけました」
強い体操クラブに所属していたその子は、体操以外の決まりも多く、携帯も恋愛も禁止されていた。
「携帯がないから、手紙交換だったらいいよっていってくれて。それから郵便での文通が始まりました」
彼女からの返事が届くのは1カ月に一度。長いときは3カ月も待った。
「手紙が来るとうれしかったですね。でも、いったい何を書いてたんでしょうね。今思うと、かなりエモいですね(笑)。彼女は強豪チームで体操を続けて、強い選手になりました」
当時、手紙の中に書くことはできなかったが、今では自分がレズビアンであることを公表している。
「周りの友だちと一緒に遊んだりして、ふたりだけで出かけたこともありました」
05好きになる相手は女子ばかり
お姉ちゃんの同級生に恋心
高校は、私立の女子校に体操の推薦で入った。
「昔は強豪だった名門校でした。でも、そのときは強い選手がいなくて、私もケガ明けで復帰した事情があって、気持ちがあまり上がりませんでした」
体操への熱がひかえめになった分、ファッションやお化粧に興味がわいてきた。
「原宿でモデルのスカウトから声をかけられたこともありました。そのときは、ちょっと怖かったんで、ありがとうございますといってお断りしました」
高校生になって、最初につき合ったのは男性だった。
「地元の友だちで、年下でした。つき合い始めたとき、彼は、まだ中3だったんですけど、サッカーの強い高校に進学することになって、遠距離になるのが理由でお別れしました」
次に好きになったのは、女性。お姉ちゃんと同級生だったバレー部の先輩だった。
「部活のとき、体育館で見て好きになりました。やっぱり、色が白くてスタイルがいいタイプでした。ファンクラブがあるくらい人気のある先輩だったんです」
好きになる相手は女の子が多い。女子とつき合ってみたい。そう気づいたのも、この頃だった。
「お姉ちゃんには、あの先輩、超かわいい! ってバンバンいってましたけど、女の子とつき合ってみたいという気持ちは隠してました」
男性への興味は薄れていった
かたやクラスを見渡せば、女子高だけに先輩後輩でつき合っているカップルはたくさんいた。
「周りは見て見ぬふりをしているんですけど、みんな知ってる、みたいな感じでした。大ぴらにしてなくても、距離感で分かるもんです」
そんなカップルを見て、「いいなぁ」とは思っても、どうしても周囲の目を気にして臆病になってしまう。
「自分からグイグイいけるタイプではなかったですね。裏で何かいわれるのが怖かったんだと思います」
レズビアンという言葉は知っていたが、LGBTQという言葉を知ったのは大学生になってから。高校は自分の性について考え始める助走期間だった。
「私と真逆で、お姉ちゃんはいつも彼氏がいましたね。別れたとしても、すぐに次の人と出会ってました(笑)」
お姉ちゃんが次々とボーイフレンドを作るのとは裏腹に、男性への興味は次第に湧かなくなっていった。
<<<後編 2022/04/06/Wed>>>
INDEX
06 みんなに感動を与える徒手体操
07 親友とお姉ちゃんにカミングアウト
08 初めての恋人と出会って、レズビアンと確信
09 SNSのQ&Aで、LGBT当事者と公表
10 味方がいる、受け入れてくれる人がいる