「女性の生きづらさから逃げたくて、ノンバイナリーって言ってるんでしょ」。この言葉をよく耳にする。生きづらさとは「男性らしさ」「女性らしさ」など、男女2つの性別に求められる社会的な性役割のことだろう。男女どちらか一方には属さないノンバイナリーは、「らしさ」から逃れることはできるのか、考えていく。
ノンバイナリーは社会的性役割と無縁?
社会的な性役割とは「らしさ」の押し付け
社会的な性役割とは、社会で形成された男性と女性2つの性別に対して決められた「らしさ」や「性差」のこと。
たとえば、男性は力もち、女性はか弱い。男性は論理的で女性は感情的。両者はコインの裏表のような相反的な本質をもっているとされ、お父さんは会社で働きお母さんは家事をするというような役割分担を維持してしまう。それ以外に、男性は青、女性はピンクのような無意識に抱くイメージを指す場合もある。
いわずもがな、性役割は個人の本質とは全く関連性のない、社会からの押し付けだ。なのにこの性役割、社会で絶大な信頼が置かれ、性差別を行っていい「正当な理由」になっている。
いつもいつも例に出して申し訳ないが(いいや積極的に出していこう)、2021年日本オリンピック委員会において森喜朗氏は、社会に根付いている性役割を用いて女性への差別を正当化しようとした。
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」
「私どもの組織委員会にも女性は何人いたっけ? 7人くらいか。7人くらいおりますが、みんなわきまえておられて。(中略)我々は非常に役立っております」
「女性は論理的になれないため端的な意見が言えず、会議を長引かせてしまう」という女性のイメージを引き合いに、そのため「女性は発言せず黙っているべきだ」という性差別が森氏の発言にはある。
森氏ほどのあからさまな発言をしたり、投げかけられることはなくても、性役割と無関係に生きられる人は皆無だ。無意識に刷り込まれた社会的な性役割は、アンコンシャスバイアスとなり、日常で、法制度で、経済で、カルチャーやメディアで、再生産され続けているのが実情だと思う。
ノンバイナリーと自認したあとの解放感
これら無意識のうちに植えつけられた社会的な性役割とノンバイナリーは、どういった関係にあるのだろうか。
性役割が前提とする性別二言論の外にいるのがノンバイナリーなのだから、性役割とは無縁だろうと思うかもしれない。かくいうノンバイナリーの私自身も、ノンバイナリーという言葉を手に入れた際にはそう想像していた。
事実、それまで自分自身に押し付けていた性役割はほとんどなくなったと思う。出生時に割り当てられた女性としての性役割、かわいく・美しく・控えめであらねばいけないという意識から労なく解放されることが増していった。
さらに性別移行を進めると、ヘテロ男性から値踏みされるように顔や体をじっとり見られるといった性差別の回数は明らかに減った。これは私が、どちらかというとトランスマスキュリン(性表現などで男性的なアイデンティティを表現するトランスジェンダー)的な性別移行をしていることと、背が高く骨格がしっかりしているという要素も相まっているかもしれない。
では、完璧に社会的性役割から解き放たれたか、と言われるともやもやする部分がある。
「ノンバイナリーは社会的性役割から逃げたい人たち」
性役割に関するトランスフォビア&ノンバイナリーフォビア
特にもやもやするのは、冒頭で紹介した「女性の生きづらさから逃げたくて、ノンバイナリーって言ってるんでしょ」という言葉をかけられたときだ。
「ノンバイナリージェンダーを自認する人は割り当てられた性役割から逃れるため、どちらの性役割も負わないジェンダーを ”自称” している」という非難が、ここには込められていると思う。
大前提として、この非難はトランスフォビアでありノンバイナリーフォビアだ。
ジュリア・セラーノ氏やメグ・ジョン・バーカー氏らのトランスジェンダーやノンバイナリーに関する研究を参考にして解説してみる。
シスジェンダーであれば、 ”自称” などと性自認にレッテルを貼られることはない。一方トランスジェンダーは、性自認が「偽物」であると疑われるばかりか、その「正当性」を証明しろと迫られる。これはトランスフォビアだ。
さらにノンバイナリーは「まさか男性でも女性でもない人なんていないだろう」という性別二言論に基づく考えによって、信頼できない性自認だとノンバイナリーフォビアを押し付けられてしまう。
これらフォビアの上、「すべての人間が負うべき性役割という宿命から逃亡し、一人だけ楽になろうとするズルイ奴」というレッテルも添えるのが、該当の非難だと思う。
ノンバイナリーに「なれば」性役割から逃げられる?
こうした問題点とは別に、私にはもやもやするところがある。それは、「ノンバイナリーになれば、性役割から無縁でいられるだろう」という憶測に関してだ。
果たしてこれは事実なのだろうか、疑問がある。
そもそもとして、私はノンバイナリーに「なった」ことなんて一度もない。これには2つ理由がある。
第1に、私は生まれてこの方ずっとノンバイナリーだ。そのため、どこかからノンバイナリーに変わることはない。第2に、しかし周囲の人間全員が私のことをノンバイナリーだとは認識しない事実がある。
昨今オープンにし始めると、ノンバイナリーだと認識されることは以前より増えたが、今も家族にはカミングアウトできない。さらに、カミングアウトしていない相手もたくさんいる。
また、カミングアウトをして良好な関係を築いたと思っていた相手から「女性だと認識されているな・・・・・・」と思うこともある。
自分はノンバイナリーだと自認していても、周囲からは完全にそうとは認識されない私が、この社会で性役割から逃亡することなんて可能なのだろうか。
ノンバイナリーにも社会的性役割は求められる
性自認が女性でなくても社会的性役割は求められる?
マガジンハウス運営のWEBマガジン『こここ』のこここスタディvol.02にて上智大学外国語学部教授の出口真紀子さんは、私の疑問に一筋の光を示してくれた。
出口さんは差別を種類ごとに分類したうえで、労なくして優位性を得る「特権」と、権力や権利をもたないまたは制限される「差別」が各カテゴリーに存在することを指摘する。そして、すべての人がなんらかの特権性と被差別性をもち合わせているのだと言う。
私のもやもやを晴らしたのは、性自認に関する差別のほかに「出生時に割り当てられた性別」という差別の種類が提示されていたことだ。そのカテゴリーの中では、出生時に割り当てられた性別が女性の人も差別を被ることになる。
つまり性自認が女性でない私も女性に対する差別を受けうるということが明らかになったのだ。
ノンバイナリーの私も女性の性役割を求められる
出生時に割り当てられた性別が女性の場合も、社会的なマイノリティであるという知識を得たとたん、目の前が一気に晴れたように分かったことがある。
私は自身の内面では性役割を解放できたと感じていたが、周囲からはほとんど解放されていないということだ。
つまり、私のことをノンバイナリーではなく女性だと認識する人がいなくならない限り、女性としての社会的な性役割を背負う現状は変わらないだろう。
たとえば、私はよく「ものを知らない人」として扱われることがある。専門的な理解があると自信をもつ分野に対してだって、知識を披露されることは日常茶飯事だ。
特に求めてもいないアドバイスをもらうこともたくさんある。私には自分で考える力があるのに。
「物をもってあげようか?」と声をかけられることがある。私は腕力や体力には自信があるのに。
こうした行為の裏には、すべて性役割があると感じる。女性は知識がない、誰かにアドバイスしてもらわないと行動できない、力がないはずだ、という女性に対するイメージからくるものだろう。
たとえノンバイナリーでも、女性か男性に認識されれば自認とは関係なく、社会にある性役割にとらわれてしまうのだ。
社会的性役割と性別違和のいま・未来
社会的性役割により、ノンバイナリーが受ける差別の重なり
性役割からは自由になれない。その結果、複合的な差別がノンバイナリーに起きていると思う。
1点目は、性役割自体による侮辱。2点目は、性自認と異なる性役割が押し付けられることで発生する、性自認の侮辱だ。
これはSOGIハラの例を見るとわかりやすい。SOGIハラは、性的指向や性自認を侮辱する言動のことだ。
たとえば性自認がノンバイナリーである私が「女性だから重い荷物は持たずに、手元でできる作業をしていて」と上司に指示されると、それはSOGIハラになるだろう。女性の性役割に基づき指示を受けることは、ノンバイナリーではなく女性だと認識されたことと同義であり、性自認が侮辱されたことになるからだ。
3点目は、ノンバイナリージェンダーへの侮辱だ。性役割は、そもそも性別二言論に基づいている。そのため性役割を押し付けられること自体、男女どちらか一方にはとらわれない性自認は存在しないのだ、と断定されているように私は感じてしまう。
フェミニズムとクィア・アクティビズムの可能性
では最後にもう一度、例の言葉に戻ってみよう。
「女性の生きづらさから逃げたくて、ノンバイナリーって言ってるんでしょ」
答えはこうだ。
「ノンバイナリーだからといって、社会的な性役割からは逃れられない。むしろトランスジェンダーでありノンバイナリーであることに対するほかの差別も重なり、複合的な差別が発生している」
この答えをもって、これまで性役割の議論から取り残されてきた人が参加できる運動が必要だと、強く感じるようになった。特に、ノンバイナリーなど複合的に差別を受ける人たちを巻き込んだもの。そうでなければ、ずっと権利を得ないままだ。
たとえば、フェミニズムとクィア・アクティビズム。この2つの運動が共闘し、社会的性役割に関して複合的差別を受ける人たちを包括できないだろうか。
どちらの運動も、性に関わる理由で個人の人生を制限したり権利を奪ったりする社会を変えるために運動してきた。目指す究極のゴールは同じなのだ。しかしこれまで、両者はすみわけをはっきりさせて、活動の範囲を狭め複合的差別を受ける人たちを取りこぼしてきた気がする。
共通の敵である社会的性役割を打ち倒すことを目標に、タッグを組んでほしい。そんな、だれ一人置いていかない運動を欲している。
■参考情報
・フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学 | ベル・フックス(著) 堀田葵(訳)