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Writer/HOKU

ぺこ&りゅうちぇるファミリーが選んだ「クィアな」家族像。誰かのセクシュアリティを「決めつける」ことは暴力だ

8月26日、タレントのぺこさんとりゅうちぇるさんのふたりが、これからは「夫」と「妻」ではなく、「人生のパートナー」として歩き出すことをInstagramで発表しました。ぺこさんの投稿もりゅうちぇるさんの投稿も、どちらもお互いへの深い信頼が感じられる、丁寧に綴られた文章だと私は感じましたが、同時に多くの批判も噴出しました。ぺこさんとりゅうちぇるさん、ふたりの伝えたかったことは何なのか。どうして怒る人たちがいたのか。私なりに考えてみたいと思います。

「夫」「妻」としてではなく、「クィア」な家族の形を選んだふたり

ふたりがどんな発表をし、何を語ったのか。知らない方もいると思うので、簡単にことの経緯を説明したいと思います。

りゅうちぇるさんは「本当の自分」を隠さなければならなかった

まずりゅうちぇるさんからの経緯説明を簡単にですが、見ていきたいと思います。

初めて好きになった女性であるぺこさんと結婚し、男の子が生まれ、「自分を隠してでも」家族のために一生生きていくことを決めたこと。しかし、メディアから「夫」「男」「父親」としての役割を求められるごとに、「本当の自分」との間に少しずつ溝ができてしまったこと。多様な生き方を呼びかけてきた自分自身が、「『夫』であるならば、正真正銘の『男』でいないといけない」と思うようになってしまったことに、辛くなってしまったこと。そんな気持ちが切々と語られていました。

そしてその気持ちを話したら、ぺこさんは「今まで辛かったね」と「泣いて抱きしめてくれた」こと。そして想いを打ち明け、ふたりで話し合った結果、「家族として」生きていくために「夫」「妻」ではなくパートナーとして生きていくことになった、と書かれています。

ぺこさんは「勇気を振り絞ってわたしに打ち明けてくれたことに、ありがとうの気持ちでいっぱい」

つづいて、ぺこさんの投稿についても簡単に見ていきたいと思います。

もちろん、一生一緒にいるつもりだったからこそ、「墓場まで持っていってほしかった」という気持ちもあるけれど、もしこの先お爺さんになるまでryuchellがこの気持ちを抱え込んでしまっていたら、そのことの方が「怖い」と思ったこと。「普通の家族」ではないかもしれないけれど、これからも3人とネコ1匹で「今まで通り」暮らしていくこと。

決して「だまされた」とは思っていない、それは「ryuchellが本物の愛をくれた」から、という表現には特に胸を打たれました。

ふたりの目指す「クィアな家族のかたち」を私はこう理解した

私は、ふたりが「結婚」という形式には捉われず、結婚はしていないけれど、「夫」「妻」という肩書きが存在していた頃と特に変わらず、暮らしていくと宣言したのだと思いました。もともと、「夫」「妻」という肩書きが本来不要な関係だったのに、その肩書きをつけてしまったせいで、社会から「夫としての役割を果たせ」という圧力を受けることになることに耐えられなかったのだろう、と。

それは「クィアな家族のかたち」だと思います。クィアとは、「既存のカテゴリに当てはまらない人たち」のことを指します。とりわけセクシュアルマイノリティが自分達のことをポジティブに指すために使われる言葉です(元々はネガティブな意味で使われていた言葉を、当事者たちがポジティブな意味に塗り替えた、素敵な言葉だと思っています)。

「新しい」というだけでなく、ポジティブに表されるべき家族像なのでは、と思い、この文章ではふたりの思い描く家族像を「クィア」と表現したいと思います。

既存のカテゴリに捉われない「クィア」な家族像をふたりは社会に提示してくれたのだ、ととても勇気をもらえました。

りゅうちぇるさんのセクシュアリティに対するたくさんのバッシング

「どうせゲイなんだろう」「男じゃないなら最初から言えよ」

私が勇気をもらった一方で、とりわけりゅうちぇるさんに向けられた言葉は苛烈なものがたくさんありました。

その中には、りゅうちぇるさんのセクシュアリティについての思い込みやバッシングも多く見受けられました。

「自分が本当は男が好きだということを隠しきれなくなったんだろう」「トランスジェンダーだって初めからわかっていたなら、ぺこだって結婚しなかっただろうに」

こんな言葉を、色々なところで見かけました。りゅうちぇるさんは一度でも、「自分はゲイだ」「自分はトランスジェンダーだ」と言ったでしょうか。

「父親という役割から逃げた」「自己実現のために逃げられるなんて男はラクだよね」

あるいは、りゅうちぇるさんが「父親としての役割から逃げた」ことに対する非難や、「離婚することは子供のためにならない」という批判もたくさんありました。また、りゅうちぇるさんは「男性だから」こんな勝手なことが許されるんだ、という意見も。

親になったら少しも自分の幸せについて考えてはいけないのでしょうか。自分の幸せについて考えることは、「父親としての役割から逃げた」ことになるのでしょうか。離婚しない方が「普通」であっても、「苦しい結婚生活」より「幸せな離婚生活」の中にいる方が、実は子供は幸せかもしれません。

そして、男性だろうと、女性だろうと、ノンバイナリーだろうと、自分もなるべく苦しまず、相手もなるべく苦しめず生きる方法を探す権利があるはずです。それは「勝手」なことのでしょうか。

何よりも、りゅうちぇるさんもぺこさんも「親であることをやめました」などとは書いていません。今までどおり、3人と1匹で暮らしていくのだと書いています。

ふたりの選択を「許せない」多くの人たちがたくさん声を上げていました。ほとんどの人たちが、書いていないことを読み取り、書いていない背景からぺこちゃんがかわいそうだ、りゅうちぇるはひどいやつだとしきりに言っていました。

セクシュアリティを決めつけることは、暴力であり差別だ

ぺこ&りゅうちぇるファミリーの選択に深く共感した私

その昔、とあるコミュニティ内の友人とお付き合いし、そのことを公表していたとき、コミュニティ内の自分が「私自身」から「○○の彼女」という存在に押しつぶされ、縮められていくような感覚がたまらなく怖くて、一日も早く別れたいと思ったことがあります。きっとほとんどの人が「そんなことちょっと我慢すればいいのに」と思うだろう苦しみを、押しつぶされそうなほど苦しく感じる人もいるのです。

この感覚がりゅうちぇるさんの「夫としての役割を求められる息苦しさ」と完全に同じものだ、とは思いませんが、少し通じる部分があるのではないかと、私は思っています。

また、私は自分がセクシュアルマイノリティであることに気づいたのが、今のパートナーと付き合い始めた後でした。カミングアウトして、そして何度も話し合いを重ねてきたからこそ、唯一無二の関係性が作れている自信もあります。

これまたぺこ&りゅうちぇるファミリーと完全一致ではないですが、「新しい関係を作ろう」とお互いに奮闘したこと自体は、多少通じ合うのではないかと感じるのです。

そして、私はずっと、人と違う選択肢をとることはわがままなんだ、こんな苦しみは持ってはいけないものなのだと思ってきました。パートナーが受け入れてくれた今でも、その気持ちに時々苦しめられる時はあります。

でも、ぺこ&りゅうちぇるファミリーが「人と違う選択をした」こと、それを公に伝えてくれたことで、これは別にわがままじゃないんだ、私も表明して良いことなんだ、と救われた気持ちになったのです。

みんな「わからない」から怒っていたのではないか

ぺこ&りゅうちぇるさんのような経験をしたことない人たちには、今回の離婚にまつわる報告は「わからない」ことなのかもしれません。クィアな選択肢をとることが人生の選択肢になかった人たちにとって、これは「訳のわからない」選択なのではないか、と思いを馳せてみます。

結婚することだけが幸せだと思っている人には、「離婚」という形をとる二人は不幸せに見えるでしょう。ましてや愛し合っているのに「離婚」するなんてありえない、ふたりは愛し合っていないに違いない、と思うのかもしれません。

でも、ありえることなのです。私には、離婚して隣の家に暮らしながら仲良く交流している知り合いの元夫婦もいたりします。愛し合っているけれど、その選択肢がいちばん心地よいから、そうしているだけなのです。

「わからない」ものは、なるべくわかるように単純化したい。だからこそ、「愛せなくなったから離婚したんだ」と単純な言葉に置き換えるのかもしれません。

わからないからといってセクシュアリティを決めつけることは、人を殺しかねない

「男しか好きになれないから離婚したんだろう」「男としての役割から解放されたい、ということはトランスジェンダーなんだろう」

これは、人のセクシュアリティを勝手に決めつけて、勝手に喧伝する行為です。りゅうちぇるさんがゲイだったとしても、トランスジェンダーだったとしても、やってはいけないことです。現実の人間関係でそんなことをしたら一発アウト友人関係から即退場です。

こんな行為が許されてしまうのも、「なんかLGBTっぽいからゲイなんだろう/トランスなんだろう、それが原因なんだろう」という雑な括りで単純化して「わかりたい」。
そんな気持ちからなのかなぁ、と思います。

「わかりたい」というのは「楽になりたい」ということなのかもしれません。わからないから考えてしまう、考えてしまうから苦しい、苦しいからもう「どうせこういうことなんだろう」と決めつけてしまいたい。その気持ちもわからないではありません。考え続けることは本当に苦しい、死ぬまで終わらない修羅の道ですから。

それでも、人のセクシュアリティを勝手に決めつけること、人を「トランスジェンダーだからこんなことを言ったんだ」「ゲイなんだろう」と決めつけたり、「LGBT当事者ではないんだろう(ヘテロセクシュアル/シスジェンダー)」と決めつけることも含め、その情報を世界中に広げてゆくこと、それは人のアイデンティティを頭からそのセクシュアリティという属性の中に押し込めることです。

りゅうちぇるさんが言っていた「男性としての役割に押し込められたくない」という言葉のちょうど真逆なのではないでしょうか。

「クィア」な選択肢を話し合えるぺこ&りゅうちぇるファミリーかっこいい

新しい選択肢を「話し合える」人たちってかっこよくない?

投稿文を読むと、ぺこさんとりゅうちぇるさんの理解がすれ違っていないこと、ふたりが同じ方向を向いていることが感じられます。それは、とんでもなく長い時間をかけてお互いの思いをすり合わせ、選択のための話し合いを続けたからだと思うのです。

並大抵の覚悟ではできないこと、だと私には思えます。そしてそれはお互いの関係性、そして家族の関係性をどうしたら良いものにできるか、どうしたら楽しく続けていかれるか、という気持ちがあるからこそです。私には、それこそが「責任」に感じられます。

ふたりのセクシュアリティを「決めつけ」ずに、まずはただ応援していたい

考えて、時間をかけて、たくさん話し合って取ったはずのふたりの選択は、まずはふたりのものとして尊重されるべきではないでしょうか。もちろん、この選択がうまく行くとも限りません。「夫」という枷が外れたりゅうちぇるさんが大暴走するかもしれませんし、「パートナーとしてじゃやっぱり嫌だ」とぺこさんの気持ちに変化が訪れるかもしれません。

でも、まずはお互いが納得して踏み出した道を、少なくとも勇気をもらった私は、精一杯こそこそと応援したいなぁと、私は思います。というかまず、ここまでお互いの人生のことを考えて、言語化して話し合えるなんてものすごくカッコいいことだし。

多くの人たちはりゅうちぇるさんのセクシュアリティを決めつけると同時に、ぺこさんのことも「女性として、男性であるりゅうちぇるを好きなんだろう」と決めつけてその前提のもとで「ぺこさんはかわいそう」だと言っています。

もし実はぺこさんがヘテロセクシュアルでなければ、それ自体もまた、彼女への決めつけです。私は、私だけでも、そんな決めつけからふたりを解放して、応援していかれたらなぁ、と思っています。

もしかするとお互いの存在とお互いへの信頼があるから、バッシングなんて屁でもないかもしれないけれど、それでも私は、ふたりへのバッシングが目に入る限り、応援の気持ちを掲げたいと思います。

これが二人の、幸せへの第一歩になりますように。

 

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