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Writer/古怒田望人

SOGI概念の功罪

「SOGIハラ」や「SOGI研修」という言葉が聞かれるようになり、「SOGI」という概念は性を理解する重要なツールとなりました。けれど、この概念によってみえなくなってしまっていることもあると思います。今回はこのSOGI概念の功罪、そしてその先について考えてみたいと思います。

SOGIとは?

まずはSOGIがどのような概念であるか、そしてその重要性を概観したいと思います。

性的マイノリティにとどまらない概念

まずSOGIは
①セクシュアル・オリエンテーション(sexual orientation)ーどのような人を性的に好きになるか。
②ジェンダー・アイデンティティー(gender identity)ー自分の性をどのように引き受けるか。

この二つの概念を合わせた略称です。そして、このSOGIは「LGBT」概念とは異なり性的マイノリティに限定されない概念です。例えばシス男性であっても、「女性が好き」というセクシュアル・オリエンテーションを持ち、また自らを「男性として引き受ける」ジェンダー・アイデンティティーを持っています。このようにSOGI概念はマイノリティであるとか、マジョリティであるといった垣根を滑らかにしてくれる概念なのです。

LGBTsを適切に理解するために

他方で、SOGI概念はLGBTsを適切に理解するための概念でもあります。時に、形態学的に「男性なのに男性を好きになるのだから、女性になりたいのだろう」であったり、「女性になりたいのだから、男性が好きなのだろう」といった同性愛とトランスジェンダーを混同し、また勝手な先入観を持つケースがあります。

このような混同や先入観を正すために「LGB」つまりゲイ、レズビアン、バイセクシュアルは、どのような人を性的に好きになるか、というセクシュアル・オリエンテーションの問題とし、「T」のトランスジェンダーは、自分の性をどのように引き受けるか、というジェンダー・アイデンティティーの問題であると精神医学ではみなされます。SOGI概念はこのように、LGBTsを適切に理解するためのツールでもあるのです。ただジェンダー・クィアやXジェンダー等を含む「s」についてはどうなのでしょうか? この点に関しては最後に考えてみたいと思います。

SOGI概念の弊害

これまで見てきたように、SOGI概念は多面的に性を理解するツールとして有効です。けれども、問題がないわけではありません。ここではSOGI概念の弊害についてみてゆきたいと思います。

未だに残る「障害」概念

精神科医のためのガイドライン(通称DSM)の第5版DSM5が、アメリカ神経精神医学会から出版されています。DMS5において、それまで「性同一性『障害』」とみなされていたトランスジェンダーは、「性別違和」と名前が変えられて障害とはみなされなくなったことは、良く知られています。

「性別違和」は「臨床的問題としての不快」(cf.DSM5,444)に注目した、より当事者の経験に根差した概念です。ですが、この性別違和の項目には未だに「障害」という言葉が残っています。それは「異性装障害」と呼ばれるものです。広義のトランスジェンダーに含まれるはずの異性装がなぜ障害だとみなされるのでしょうか?

レイ・ブランチャードの類型論

異性装が未だに障害とみなされる一因は、レイ・ブランチャードという性科学者が唱えているある理論にあります。ブランチャードによれば、トランスジェンダーは二つのタイプに分けられることができ、一方はホルモン治療や性別適合手術を望むトランスジェンダー、他方はそういった医療的処置を望まないトランスジェンダーであるとします。

問題なのは、後者へのブランチャードの認識です。彼によれば、医療処置を望まないトランスジェンダーは自己が異性装をすることに性的興奮を感じる、一種の性的倒錯者であるというのです(autogynephilia や autoandrophiliaと言われます)。言い換えれば、一定数のトランスジェンダーの性愛、言い換えればセクシュアル・オリエンテーションは、性的倒錯であると彼は述べているのです。

こういったブランチャードのある種の差別的な理論がまかり通ってしまうのは、トランスジェンダーはあくまでもジェンダー・アイデンティティーの問題であり、セクシュアル・オリエンテーションとは関係がない、という精神医学の見解が一つの原因であるといえるでしょう。

SOGI概念はLGBTsを適切に理解するツールであると同時に、トランスジェンダーの性愛という側面をみえなくさせます。またそこに、ブランチャードのような差別的な主張を入り込ませてしまうという弊害があるのです。

SOGI概念を越えて

では、当事者にとってセクシュアル・オリエンテーションは、どのように現れているのでしょうか? 幾つかの語りを基に、SOGI概念を越えた観点を垣間見てみたいと思います。

偽りの歴史

ブランチャードによれば、性的倒錯であるとみなされるトランスジェンダーの生まれたときに与えられた性は、幼少期や青年期になっても他の性への関心が表れず、大人になってから異性装をする傾向があると言われます。例えば、形態学的には男子だけれども、スカートが好きだったり、メイクが好きだったりする傾向が継続して見られない限り、障害ではない、MTFトランスジェンダーとはみなされないのです。

けれど一般的に言って、ドラマや映画のように筋立てられた人生など、そうそうありえません。人生には様々な変化がつきものです。その変化によって、まったく違った生き方を選択する場合もあります。そのため、当事者の間では有名なことなのですが、トランスジェンダーは、偽りのライフヒストリーを精神科医に話す必要があります(軟化傾向にあるクリニックもあるようですが)。MTFトランスジェンダーで研究者、活動家のケイト・ボーンスタインは次のように述べています。

「私は、何人ものカウンセラーやトランスジェンダーの仲間から、過去に自分が少女であったかのように話を作るよう勧められた。女の子の子ども時代にあるような出来事を作り、『私が少女だったころは・・・・・・」と話を切り出さなければならない、と言われた』

「私は決して少女ではなかった。私はこれまでの人生で、男の子になろうとしてずっと嘘をついてきた。私は男だとわかっていた。そうなりたいと思っていたわけではなかったけれども。今私は、自分がトランスセクシュアルであるという真実を知り、自覚した上で治療に入ったことによって、人格の統合に向けて大きな一歩を踏み出した。しかし私は、『トランスセクシュアルであることは誰にも言うな』と言われた」

「トランスセクシュアリティは、嘘をつくことが治療となる、唯一の症状である。この治療における嘘が、私たちが自分自身の人生やジェンダーについての経験をあまり語らない原因である。自分がトランスセクシュアルであることを考える権利は、治療の場では認められていないのである」(ボーンスタイン『隠されたジェンダー』筒井真樹子訳 新水社,1994,75)

このような語りを見てみると、いかにブランチャードの理論がトランスジェンダーの現実と乖離しているかがわかります。では、ブランチャードが病理化したり、SOGI概念が切り離したりしているトランスジェンダーの性愛はどのような意味をもっているのでしょうか?

性愛とボク

ボクのジェンダー・アイデンティティーと性愛は、切っても切り離せない関係にあります。ボクがはじめてシス女性とお付き合いした時――ボクはゲイ寄りのバイセクシュアルだと当時は感じていたのですが――ある違和感を覚え始めました。彼女から「男性だから髪を短く切って欲しい」と言われたり、「男なんだからボクじゃなくてオレって言ってみて」と頼まれたり。

こういったいわゆる「男らしさ」を性愛関係の中で求められることに、何だかモヤモヤしていました。そして、そのモヤモヤが一番重く伸し掛かってきたのは、彼女と初めてセックスをしようとした時でした。彼女は普通に正常位の態勢だったのですが、明らかに能動的で男性的な性行為をボクは受け付けることができませんでした。

結局、その時セックスはうまくいかずじまいでした。それからです、ボクが――後から知った言葉でしたが――「性別違和」を覚えたのは。この性愛経験をきっかけに、ボクは女装をするようになりました。女性とは定義できないけれども、ともかくシス男性ではないというボクのジェンダー・アイデンティティーを表現するために。

こんなふうに、トランスジェンダーやジェンダー・クィアのジェンダー・アイデンティティー形成には、性愛というある種のセクシュアル・オリエンテーションが要因となる場合があるのです。

性愛と違和

ここでもう一人、当事者の性愛の語りを見てみたいと思います。語り手は「男性になりたいわけではない」が、「女性であること」への言語化できない「違和」をもっていました。ですが、他者との性愛関係を模索してゆくうちに、その「違和」が言語化され、「女性であること」を徐々に受け入れてゆくようになります。語り手は、次のように記しています。

「いま一番しっくりきているのは、身体的には『男」だが、自分が『男」ではないと感じている人との関係である。その人は広い意味でのトランスといっていいかもしれない。わたしは自分が『女』であると感じていないし、その人は自分が「男」であるのに違和感・嫌悪感がある』

「外見で言えば男と女の取り合わせでも、二人のあいだで『男役」-『女役」をとることはほとんどない。二人の関係のなかでそういう役割をしなくていいからこそ、楽に一緒にいられるといってもいいだろう。外見から見てヘテロセクシャルなカップルでも、実際はそうとは限らないということだ。そういうわたしたちのセクシュアリティは、一体何とよんだらいいんだろうか」(Ros編『トランスがわかりません!! ゆらぎのセクシャリティ考』アットワークス,2007,87)

このようなパートナーとの関係の形成により、語り手は自らの「違和」が「『男」に対しての『女』」だったことに気がつきます(同,88)。性愛経験のプロセスが「違和」を変化させ、受容させています。このようにトランスジェンダーの性愛は「性別違和」と付き合ってゆくための重要な要素なのです。

SOGI概念を越えて

最初に述べたようにSOGI概念はLGBTsを適切に理解するために、また性を理解するために必要な概念です。けれども、この概念だけでは差別が起きたり、何かがみえなくなったりしてしまうことがこれまででわかりました。

おそらくボクたちはもっと何か別の言葉――ボクはそれを「セクシュアリティ」と呼びたいのですが――が必要なのだと思います。先ほどの語りで、「外見から見てヘテロセクシャルなカップルでも、実際はそうとは限らないということだ。そういうわたしたちのセクシュアリティは、一体何とよんだらいいんだろうか」と語り手は投げかけていました。

ところで、現象学者のガイル・サラモンは「ホモエラティック(homoerratic)」という造語を生み出しました。この語り手のようにヘテロに還元できないある種同性愛的(homoerotic)だが、その性愛のありようや交わりの仕方に応じてこれまでにないようなセクシュアリティのありようをしめす不安定な(erratic)現象を捉えようとしています(Salamon, Assuming A Body‐Transgender and Rhetorics of Materiality, Columbia University Press ,2010,70-71)。

SOGI概念やブランチャードの類型論は、ある意味でわかりやすくLGBTsを捉えられます。けれども、性という現象は――幾つかの語りから見えてきたように――とても複雑で豊かな構造をなしています。LGBTがLGBTにとどまらず「s」という小文字の多様性を含んでいることが認知されてきた今、トランスジェンダーの性愛に目を向ける必要があるのではないでしょうか。

 

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