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Writer/HOKU

映画『his』におけるゲイの「日常」は「ゲイは特別」という偏見をそっと払ってくれる

映画『his』は2020年に公開された映画である。少し前の映画にはなるが、この国で、改めてこの映画を見直すことには、大きな価値があるのではないだろうか、と思い筆を執った。

映画『his』は、ゲイの二人と、娘とその母親の「日常」の物語

日本において「同性婚」がいまだに認められない理由の一つに「同性愛者に育てられる子どもがかわいそうだから」(同性婚を認めることと同性愛カップルに育てられる子供が増えることは、本来分けて考えるべきことではあるが・・・・・・)が、理由のひとつとして今でも挙げられる。

ゲイを主人公にすることは、何も「性的な面」「恋愛面」だけに深く切り込まなければいけないということではない

ゲイを主人公にする作品では、多くの場合、恋愛とその周辺事項について描かれる。それはそれでとても素敵だし、「同性を好きになること」をテーマとして描いていく作品は、同性愛者自身に対し、「同性を好きになることもまた、当たり前のことだ」というメッセージを強く発信することにつながる。

一方で、あまりにもゲイの恋愛や性生活ばかりを描き発信し続けると、ゲイを性的な存在として「性化(sexualize)」することにもつながりかねないという懸念もある。ゲイを「性的な世界に住む人」「恋愛の世界だけの住人」として私たちの日常から締め出してしまう可能性がある、ということだ。

ロミオとジュリエット的な「特別な恋」を描くためだけに彼らの属性が使われ、「アート」のように特別視されることは、必ずしも彼ら自身を勇気づけたり、偏見に塗れただれかの目をぬぐうことにはつながらないだろう。

映画『his』はむしろ、彼らの「日常」がいかに私たちの日常と異ならないか、そしてその当たり前の生活が「世間一般」の目から抽象化された時に、いかに「異質化」されるか、ということが丁寧に丁寧に、描かれている。

映画『his』のあらすじ

主人公の井川迅(いがわ・じん)は田舎町に移住し、自給自足で生活をおこなっている。かつては都会で働いていたものの、同僚からのゲイに対する視線やからかいに耐えられず、田舎へ引っ越したのだ。

そんな彼の元に、かつて自分の眼の前から突然姿を消した元・恋人である日比野渚(ひびの・なぎさ)が娘の空(そら)を連れて押しかけてくる。渚は、迅の前から姿を消した後、玲奈(れな)という女性と結婚し、専業主夫として生きていた。

しかし、渚は自分がゲイであること、性欲さえ満たすことができれば玲奈と円満にやっていかれるだろう、と男性たちと浮気していたことを玲奈にカムアウトし、離婚調停に至っていたのだった。二人は、ひとり娘である空の親権をめぐってまさに戦っている最中であった。

離婚調停中に空を連れて迅の元に押しかけてきた渚を最初は迷惑がるものの、迅は空の愛らしさや、渚に対して抱いてきた愛情に絆され、3人暮らしを受け入れ始める。

監督や脚本家、出演者が丁寧に向き合ったことがよくわかる作品

監督はインタビューで、「傷つく人がいるかもしれない、という想いから細かく詰めました」「それでも傷つく人はいると思いますが・・・・・・」と語っている。ゲイ当事者ではないからこそ、徹底的に配慮した姿勢が、その言葉からもうかがえる。

また、弁護士であり、ゲイであることをカミングアウトしている南和行氏を監修に迎えるなど、ゲイ当事者ではないことから生まれる「無意識の差別」を少しでも排除しよう、と努力する様子も見えた。

これは制作者としては当然のことだ、と言う人もいるかもしれない。しかし、LGBTQを作品のテーマとして扱うときに、なすべき配慮を忘れてしまう制作者が多くいる感じることも少なくない。そういった意味でも、とても信頼の置ける作品だと思う。

ゲイを単なる恋愛の世界に閉じ込めず、「ゲイカップルが子どもを育てるというのは、本当に『特殊』なことなのか?」と、常に問い続ける作品だ。私がそう感じるのは、制作に関わる全員の、丁寧な姿勢から生まれているものなのかもしれない。

映画『his』の前半部分に見る、ゲイの二人と娘の泣きたくなるほどの「日常」

家事の得意なふたりの男性と娘のスムーズな生活

娘である空は、離婚調停中の父親(渚)と母親(玲奈)の間を定期的に行き来している。そのため、玲奈と空の日常と、渚と主人公の迅(じん)ふたりで空と過ごしている様子とが入れ替わりで描かれている。

働きながら不慣れな家事も行う玲奈との生活は不慣れでぎこちない一方、自給自足生活を営む渚と迅の方は、家事もスムーズに進み、人手がある分空から目を離すことも少なく、寂しい思いをさせることも比較的少ない。彼ら二人と空の生活が滑らかに進んでいく分、一人で子どもをみることになった玲奈と空の生活のぎこちなさや不器用さが目立つ。

しかし、母・玲奈は母親として何もしてこなかった訳ではない。仕事をし、お金を家に入れて子どもと夫・渚の二人を養ってきた。だからこそ、渚自身も専業主夫として空につきっきりでいられたわけで、スムーズにいかないからといって「親としてふさわしくない」わけでもないところが、問題を余計に難しくさせる。

ゲイに対する田舎/都会の対比は少しわざとらしい

ゲイである彼らの関係性に向けられる「都会」からの視線は、とても厳しいものであるのにもかかわらず、「田舎」の人たちはとても優しい。

映画『his』の舞台となっている田舎はユートピア的な場所である。隣家の狩猟家は生粋の読書好きで見識も深く偏見が少ないし、話好きのおばさんたちは決して悪口を言わない。よそ者に対する排除的な意識もないに等しいし、突然やってきた渚や空に根掘り葉掘り事情を聞いたりもしない。

偏見の少ないこの場所は、ゲイであるふたりにとって住みやすいものとして描かれている。

逆に、主人公の迅(じん)が逃れてきた「都会」は、迅をゲイとして揶揄する場所であり、渚が親権を得るために向かう「都会」である裁判所も、中立を装いながらゲイのふたりを「特殊」なものとして遠ざけ、異質化する。

私自身は「田舎の親戚」がいないので、セクシュアリマイノリティに対する田舎の空気感は肌身に染みついたものではなく、身をもって知っているわけでもない。しかし、友人の話を聞く限りは、田舎の方がセクシュアルマイノリティへの偏見は強く、だから「人に興味を持たない都会に逃げてきた」と言っていた友人は多い。

田舎は優しく、都会は厳しいというのは確かに、「一般的には」そうだろう。しかしセクシュアルマイノリティを囲む現実とは乖離している。この戯画化され単純化されたステレオタイプは、この作品に重要な「リアリティ」を削ぎ落としてしまっているようにも感じられた。これは、彼らの日常がいかにありふれたものか、をリアリティを持って描こうとした映画の意図から少し外れてしまうような気もする。

ゲイの日常が「特別でない」という視点を与えてくれる

とはいえ、ゲイの子育ては別に何も「おかしな」ものではないし、ゲイは「子育てに向かない性化された存在」でもないし、子供とゲイカップルという組み合わせが、子供に「悪影響を与える」なんてことも有り得ないのだ。そういう強いメッセージを発してくれた、という点で、やはりこの作品は繰り返し見られていくべきものだと感じる。

「日常」は、日常でしかない。セクシュアリティや性自認によって、日常が特殊なものに変わってしまうことなどないのだ。だって彼らはただ、いつもそこに「在る」だけなのだから。

後半部分に描かれる「世間におけるゲイ」が、前半の日常とキリキリと対比される

家事育児は「男だけじゃできない」?

渚が離婚調停のために家庭裁判所に出廷すると、裁判官はこう質問する。

「男性との二人暮らしだと子供の世話ができないのでは?」

見ながら思わず、頭の硬い裁判官どもめ、専業主夫なんだから彼の方が「子供の世話」は得意に決まっているじゃないか、女性の方が「子供の世話」が得意とも限らないぞと、私はぷりぷり怒ってしまった。

私たち視聴者は、渚と迅が必死にならなくても子育てができるほど子育てに向いていることを知っている。そして愛情たっぷりに空を育てていることも知っている。しかし、裁判官たちはそれを知らない。子育てにおける「母親」の必要性に拘泥する。

玲奈の代理人弁護士は「抽象化」することでマイノリティ性を煽った

そして離婚調停は親権者を決めるための裁判に向かっていく。迅を含め、渚と空に関わってきたあらゆる人たちが証人として出廷する。

玲奈の代理人の弁護士は、繰り返し、迅と渚の関係を二人がもつ大切な要素をはぶき、抽象化してみせた。ゲイのカップルはヘテロセクシュアルのカップルに比すると人数が少ない。少ないから、「特殊な環境」だ、と。特殊な環境で育てられることは「かわいそう」なのだと主張する。

また、愛人と暮らしているようなふしだらな環境下で、子育てをまともにできるはずはないのだ、と迅と渚を糾弾した。二人の関係を「愛人」と呼ぶこともまた、抽象化だ。

具体的な顔を除かれてしまうと、途端にマイノリティの「マイノリティ性」が際立つ。当たり前だ。これは、彼らから人格を奪い、「マイノリティという属性」に押し込める行為だからだ。

ただ、この弁護士のやり口は、私にも大きなダメージを与えた。彼にふたりの関係性を抽象化された瞬間、自分の中に、どこかやはりセクシュアルマイノリティが子育てすることを「特別」だと思って生きてきた、その感情を見つけてしまった。具体化されて「とても平凡」だと思っていた暮らしは、抽象化されたら、特殊だと思っていたものだった。描き方が巧妙だ。

法廷での差別、玲奈への糾弾は見ていて心がギュッとなった

玲奈の代理人弁護士が渚を追い詰めるために使うのは、「ゲイカップルがいかに『特殊』で育児に不適当か」という主張であり、渚の代理人弁護士が玲奈を追い詰めるために使うのは、「玲奈がいかに母親失格か」という主張である。

玲奈は「理想的な母親」像をもとに糾弾され、渚は「ゲイである」という変えることのできないアイデンティティを糾弾される。両者への様子はあまりにも痛く、苦しい。言葉も強い。「法廷」という場は、その場での反論を許さないので、言われっぱなしになってしまい余計にモヤモヤする。

これがリアルな法廷なのか、あるいは心に深く残すためなのかはわからないけれど、かなり苦しく聞いていられない場面もあった。当事者が見たら耐えられない可能性も十分にあると思う。

これは当事者のための作品ではなく、あくまでもアライやマジョリティが「自分の中の偏見」をあらためて認識しなおすための作品かもしれない。

自分の中に巣食っていた「ゲイの子育ては特別」という偏見に気づくことができた

自分の中の偏見とあらためて向き合うのに最適な作品

私は同性愛者ではない。つまり、私はこの作品における「当事者」ではない。恋愛感情もないから、玲奈の立場に立つこともないだろう。だから、私はこの作品が当事者をエンパワメントする作品なのかわからない。監督も危惧していた通り、傷つけてしまうだけかもしれない。

でも、自分はアライとして、この作品を見て良かったと思う。

具体的な生活が抽象化された時にどう見られるのか。
自分は、どう見たのか。どう見ているのか。
「同性愛者は、こんな場面で大変なんだよね」と語る時に、彼らに具体的な生活があることを、想像できていたのか。

自分に問い直す良い機会になったし、きっと誰かにとってもそんな機会になるのではないかと思う。

「無意識のうちに差別を描かない」が徹底された作品

「傷つけないように」という監督の意図が達成されているのかはわからないが、傷つけない、ではなく「無意識のうちに差別しないように」が徹底されている作品だと感じた。「無意識の差別」が怖くて見られないという方にはむしろお勧めしたい。差別的な発言は全て、意識されて描かれている。安心して見てほしい。

問題の所在をわかりやすくするためのステレオタイプな描写も多いが、登場人物の誰ひとりをも否定していない作品だ。

いつか、「こんな王道作品もあったんだね」と笑い合える世界のために

邦画にはあまり詳しい方ではないからかもしれないが、ゲイの子育てを描く有名な邦画を映画『his』以外に私は知らない。まだ、「珍しい題材」「少し変わった物語」と思われているのではないだろうか。

この物語は、ゲイカップルと子供、という関係性の映画としてはおそらくとんでもなく王道のストーリーだ。視聴者への裏切りもないし、突飛な設定もない。安心して見られるけれど、これはまだ、「この題材を扱い切った」ことにはならないだろう。

今後、もっと色々な作品でゲイの子育てが描かれることで、フィクション自体も深みを増すし、ゲイの子育て自体が「日常」であり、「特別でない」ことが世の中に広まっていくことだろう。

映画『his』を見直して、「こんな王道作品もあったんだね」と笑える世界になっていたらいいなぁと思う。

 

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