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Writer/HOKU

アロマンティックの私が、パートナーがいる人生を選んだ話

私は自身のセクシュアリティは、アロマンティック・デミセクシュアルと自認している。簡単に説明してしまうと、アロマンティックとは他者に恋愛感情を抱かない恋愛指向のことで、デミセクシュアルとはごくごく親しい者や強い親愛の情を感じる相手にしか性的欲求を抱かない性的指向のことである。そんな私は、パートナーと生きることを選択している。

アロマンティックの私は、パートナーのいる人生を選択した

アロマンティックの私には、ヘテロロマンティックのパートナーがいる

私のパートナーはヘテロセクシュアル(異性愛者)。私の恋愛指向(アロマンティック)のことも理解してくれている。ジェンダー学にも興味を持ち、私の価値観や思考プロセスについて話すと、議論してくれる貴重な友人であり、恋人でもある。

彼は私のことが「恋愛的に」好きであり、私は彼のことが「親愛を持つ相手として」好きである。私たちの互いに対する感情は、ぱっと見では似ているが、よくよく取り出して眺めると結構違うはずだ。

それでも、幾度となく話し合いを重ねながら、私たちは日々おおむね仲良く過ごしている。これは、「アロマンティック=恋愛をしない人」というイメージから大きくかけ離れているのではないだろうか。

恋愛感情を持たなくても、誰かと一緒に生きたい

私は恋愛感情を持たない。

でも、誰かと一緒に生きてはいきたいし、どちらかというと誰かと暮らしをつくってみたいタイプだ。一人だったら踏み出せないことにも、隣にいる人が背中を押してくれれば踏み出せるかもしれないし、逆に私が隣にいる人に新しい景色を見せることができるかもしれない。

誰かと生きることは、一人でいる時よりも自由が減る。でも、一人では辿り着けなかった場所に着く自由が増える、ということでもあるんじゃないかと思っている。そんな不確定さが愛しい。

だからこそ、私は誰かと生きたい。

アロマンティック「だけど」パートナーがいる、というのは矛盾?

でも、今の世の中は「恋愛感情を持った誰かと結婚する」ことが、パートナーと死ぬまで一緒に生きるための条件かのように見える。「普通」に恋愛して、「普通」に結婚して、「普通」に子供を産む。この一番最初の「普通」ができない人には、その先の「普通」も待っていないかのようにすら思える。

でも、誰かと一緒に生きたいと思う時、必ずしも相手に対する恋愛感情が存在する必要があるのだろうか。恋愛感情≒性的欲求と思われがちなこの世界では、「子供を産むためには恋愛結婚」と言われるかもしれないが、愛がない性的接触を「できる」と語る人はたくさんいる。

「恋愛感情」「ずっと一緒にいたいと思う感情」「性的接触がしたいという感情」「この人と子供を産みたいと思う感情」すべての感情が同じ相手に向けられることが「尊いこと」であり「正常」だと思われている。そして「恋愛感情」はその根幹である、とも。

でも、すべての感情が同時に同じ相手に対して存在することこそが奇跡なのではないか。

そう思うと、アロマンティック「だけど」パートナーがいる、というように「自己矛盾」や「特別なできごと」として解されるよりは、「アロマンティックの私にはパートナーがいる」程度のニュートラルな物語として受け取られていきたいと感じるし、私はそのためにこの文章を書いている。

私が自分をアロマンティックだと気づくまでの話①「恋愛感情がわからない」ことと向き合う

恋愛感情を持っている人なんてこの世にほとんどいないと思っていた。

相手がこちらを見る愛しそうな視線に居心地の悪さを感じる。友達のように喋っている時は居心地が良いのに、「好き」と真面目に言われると困ってしまう。相手が時々、得体の知れない何かに変わってしまったように思う。あるいは、逆に私「も」君のこと恋愛的に好きじゃないのに、そんなに愛の言葉を囁けるなんて、メンタル強いなぁと思ってしまう。

そんなことの繰り返しだった。私は「本当に好き」で付き合っているわけじゃないんだから、本当に好きなわけないよね。なんで「本当に好き」だなんて言えるの? 私もあなたもどこにでもいる人間で、特別な部分なんて何もないのに、なにをもって、どうしてそんなに好きだって言い続けられるの?

この世に「恋愛感情」という感情が存在することに対して、私はいつも疑いを持っていた。「恋愛感情」なんて世の中の1%くらいの人しか持てないものを美化しているものだとばかり思っていたのだ。

でも、私が持っていないものを、私と付き合った人たちは持っていた。それこそが、恋愛感情だったのだ。

「恋バナ」で自分の話をするのが極度に苦手だった

恋バナ、というものが私は結構好きなクチだった。

友達に「今こういう状況なんだよね」と相談されれば、次どう動けば良いのかなんとなくわかるからアドバイスできたし、自慢じゃないけれど、割とどのアドバイスも「的確だ」とか「救われた」とか言われて喜ばれてきた。でも、自分が恋バナをするのは極度に苦手だった。

恋人ができそうになったら、あるいはできたら、恋バナ対策問答集を作っていた。「どんなところが好きなの?」に対する無難な解答を用意したり、最速で場を終わらせるための会話のシミュレーションをしたりしていた。きっとここまで真面目に「恋バナ」してたの私くらいなんだろうな。

自分の話をすること自体は大好きで、死ぬほどおしゃべりなのに、どうしてこんなに恋バナで自分の話をするのが苦手なんだろう・・・・・・と考えてはみたものの、「私って意外と会話ベタなのかもなぁ」くらいのテンションで片付けてしまっていたのだ。

友人の恋愛の話を聞いたときに、「自分がそんな感情を持ったことがない」ということに気がついた

友人の恋愛相談に乗っていた時、いつもは感謝されるのに一度だけ怒られたことがある。
友人の恋人の行動をボロクソに言った後「別れた方がいいよ、メリットがないんだから一緒にいたいとも思わないでしょ?」と言ったら、「好きだからそれとこれとは別なんだよ、そんなに簡単な話じゃない」と怒られた。

「好きでいるのやめよう」と思えば好きでいるのってやめられるじゃん、と思っていた私にとっては割と本当に衝撃だった。

本物の恋愛感情というものは、「やーめた」と思えば消えるものではないらしい。私はそんな感情を持ったことがないし、これからも持てる気がしなかった。

大学時代の最初期の恋バナは「相手とどこまで進んだ」「こんなに仲良くなった」という表面的な話しかなかったのに、周囲の「恋愛感情」というものへの理解が深まるとともに、私はどんどん置いて行かれていった。

私が自分をアロマンティックだと気づくまでの話②パートナーとの、アロマンティックとしての歩み

今いるパートナーと付き合うまでに、まずは恋愛感情を探す旅を始めた

私が恋愛感情を持てなかったのは、恋愛感情を持てるような相手に出会ってこなかったからだ、と私は考えた。

私はいつも誰かと付き合っているタイプの人間だったので、それこそが自分の出会いの幅を狭めてしまっているのだと考えて、私は「絶対に誰とも付き合わない」と決め、1年間、いろいろな人と話をし、友人関係を築いた。

1年間、あらゆる出会った人たちの誰にも、抗えないような恋愛感情は感じなかった。
代わりに、私は誰かと一緒に生きて、誰かと一緒に死にたい、ということだけが明確になった。

私が恋愛感情を持っている「ふり」さえできれば、あとはただ、「一緒に生きたい」「一緒に死にたい」と思う人と出会い、その人に私を好きになってもらえばよい。寂しがりの私には、これが唯一の、納得の結論だった。

今のパートナーと出会い、付き合い始めて気づいた感情

今のパートナーは、話していてとても楽しい人だ。話し合いもできるし、柔軟性もある。論理性があって怒らないし、価値観も比較的合う。だから、告白された時は一も二もなくもろ手を挙げて付き合ったし、この人にだったら「恋愛的に好きなふり」もできそうだ、もしかすると今度こそ好きになれるかも、なれそうだ、と思った。

でも。

結論から言うと、数ヶ月付き合ってもやっぱりもやもやは残ったままで、恋愛的に好きだと言い切れる状態ではなかった。「恋愛的に好きなふり」をするのも、相手に対して不誠実だと感じていた。

このまま同じことの繰り返しで、関係性をまた続けられなくなるんじゃないかという恐怖感もあった。

真剣に、自分の気持ちと向き合おう。
どうして恋愛感情が持てないのか考えてみよう。

そう思い、過去の経験から理由を引っ張ってこようとしたが、うまくは行かなかった。何度も悩み、調べては悩み、調べては・・・・・・。そんなことを繰り返し続けたタイミングで、突然今まで調べてきたこと、悩んできたことが走馬灯のように折り重なり、「恋愛感情と性的欲求は別物だ」というひらめきが、突如頭の中に降り立った。

ジェンダーを学ぶ上で基本中の基本だと思って忘れていたことが、私の長年の悩みを解決する鍵だったことが、実感をともなって押し寄せてきたのだった。

「やっぱりそうだったのか」と言ってくれた時に、この人と一生生きていこうと思った

どうやって伝えれば伝わるんだろう。私はあなたに恋愛感情は持ってないけど、一緒に生きたくて、できれば一生一緒にいたいんですけど、どうですか? なんてムシが良すぎないだろうか。ましてや、相手は自分に対して恋愛感情を持っている相手なわけで・・・・・・。

そう考えた私は、文章を通して伝えることにした。文章の方が自分の今まで考えてきたこと、自分がこのセクシュアリティをどう捉えているか、どうやって気がついたのか、そういったことを誤解なく伝られるのではないかと思ったから。

彼は文章を読んで「やっぱりそうだったんだ、そんな気はしてたんだよね」と言った。私には恋愛感情がないのに、それでも別れないの? と聞いたら、好きだから別れないよ、と言われた。

全部織り込み済みだったのか、と正直驚いて、あぁ、この人とだったら大丈夫だな、と思った。人生で初めて、誰かと一緒に生きたい、の「誰か」に具体的な顔が入ってきた。

「恋愛感情がわからない」からこその不安はあれど、自分なりの「幸せ」の形を見つけていきたい

相手は私と「恋愛感情」を通して繋がっているのに、私は相手と「恋愛感情」を通しては繋がっていない

相手は自分のことを恋愛として好きで、私は相手のことを恋愛的に好きではない。
向こうがどれだけロマンチックな無言の時間を作ろうとしても、私にはただの「気まずい時間」にしか感じられない。
相手が「恋」して「君のことしか考えられない」と言ってくれても、私は生活の中に相手と自分が溶け込んで染み渡っていくことに喜びを感じる。

そうやって、お互いの感情がよく見たら全く別の方向を向いているのに、私が「一緒にいてほしいから一緒にいよう」と言うことは、ただのエゴなんじゃないかと思っていた。搾取になってしまっているのではないか、と。

でも、向こうは「好きだから」一緒にいたくて、私も一緒にいたいのは同じで、一緒にいることはお互いのためにもなる。そう気づいてからはだいぶ楽になった。

ただ、相手は私を恋愛感情としての「好き」だから一緒にいるわけで、好きじゃなくなったらいなくなるんじゃないか、と疑いの目を向けてしまうことも多い。

自分には「好きじゃなくなったら別れる」という結節点のようなものが存在しない。「一緒にいる」と決めた覚悟のようなものが、相手の「恋愛感情」という私にとっては得体の知れないものに委ねられてしまっていることに、怖さを覚える日もある。

自分がアロマンティックであることを発信することは、パートナーを持たないアロマンティックの生きづらさを消してしまうことにならないか?

私には異性のパートナーがいて、今のところは一見するとマジョリティであるヘテロセクシュアル(異性愛者)のカップルにしか見えないだろうと思う。だからこそ、パートナーを持たない・持ちたいと思わないアロマンティックよりも、社会から「圧」のようなものを感じる機会は圧倒的に少なかったし、きっとこれからも少ないだろうと思う。

だからこそ、私の発信のせいで、他のアロマンティックについても「なんだ、マジョリティみたいなものか/配慮はいらないのか」と思われてしまうことは怖い。

それでも、私たちのようなアロマンティックも存在すること、「ラブラブだね〜」とか、「彼氏/彼女のどこが好きなの?」と言われると困ってしまう人がいるかもしれないことを、少しだけ心の隅にとどめておいてもらう、そんなきっかけになるかもしれないとも思うから、あえてこの話を書いた。

色々なアロマンティックがこの世には存在することを忘れないでほしいから。

不安なことはあれど、私はアロマンティックであることを引き受けながら、私らしい幸せを模索する

色々な不安要素は、自分に対しても、周囲に対しても、パートナーに対しても、いまだにある。そして、それは自分がアロマンティックである限りは、つまりは生きている間は常につきまとうものだ。

でも、「アロマンティックだから」と特定のプロトタイプの中に自分を押し込めてしまったら、自分を幸せにするために生きることが難しくなってしまう。幸せになるための可能性を自由に模索できることこそが幸せだと思うから。

だからこそ、私は、「アロマンティックだから」ではなく、アロマンティックとして、パートナーとともに自分の幸せを模索していく。そしてそうやって自由に話し合いながら生きていくことができること、それ自体も、私にとっては幸せの一部だ。

・・・・・・ところで、この文章を読ませた友人に「すっごく壮大なのろけだね」と言われてしまった。いまだにのろけの判定もわからないままだが、どうやら恋愛感情を持つ人から見るとこれはのろけらしい。難しい。

 

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