02 小学校4年生の性自認
03 陸上の素質が花開く
04 海外での活躍に意欲を燃やす
05 いざ、アメリカへ! でも、大問題発生!
==================(後編)========================
06 伊東ビーチで、ゲイであることを告白
07 難航するパートナー探し
08 ついに出会った恋人はフランス人
09 バラ色の日々
10 モントリオールへ、メルボルンへ
01甘えん坊のおばあちゃん子
自分の名前が好きじゃない
兄ふたりと二卵性双生児の妹の4人きょうだい。
「妹とは全然似てないんです。いわないと気がつかないくらい見た目も違って、一緒にいるとカップルみたいです(笑)」
男の子の兄弟を育てながら、「女の子がほしい」との願いから生まれた双子だった。
「だから、なんだか、念願の長女のおまけみたいで・・・・・・」
それを表すエピソードが名前だ。
「妹の名前は、両親がじっくりと考えて決めたんです」
「でも、ぼくの名前は、『たくやがカッコいい』っていう、いとこの一言で決まっちゃったんですよ。ひどくないですか(笑)」
いとこは、当時、保育園に通っていた女の子だ。
「だから、自分の名前があんまり好きじゃないんです」
仲よしは、おばあちゃん
家には父方の祖父母も一緒に住んでいた。一家8人の大所帯だ。
「必ず誰かが家にいますからね。一人になれるのはトイレだけでした(笑)」
大きな家族のなかで、一番仲がよかったのがおばあちゃんだ。
「いつもニコニコ笑っている明るい人で、とっても好きでした。トイレのお世話なんかをしてあげていました」
脳梗塞から下半身が不自由になり、杖に頼る生活だった。
オセロなどで遊んだのもいい思い出だ。
「よく『心は丸く』といわれました」。自分には厳しく、人にはやさしく。そういう意味が込められた言葉だった。
「何年か前に、父親と電話で話していたら、何かの拍子に『心を丸くしておきなさい』っていったんですよ」
父親もおばあちゃんから同じ言葉でしつけられたのだった。
いつか両親を海外旅行に
父親は郵便局に勤める、実直な人だった。
「お母さんはおっとりとしたマイペース型で、我慢、辛抱、耐えて、耐えて、という、ストレスを外に出さないタイプでした」
上の兄は母親に似たのか、ゆったり、のんびりした生き方をしている。
次男は20歳で結婚、早くから子どもをもうける優等生の人生を歩んでいる。
「次男と妹は、逆に活発で、早くから自立してたけど、ぼくは、小さい頃から甘えん坊でしたね」
子どもの頃は、おばあちゃんにべったり。甘やかされて育った。
その甘えん坊が18歳で海外に飛び出し、一人、異端の道を切り拓くようになる。
「親戚でパスポートを持っているのは、ぼくだけなんですよ。いつか両親を海外旅行に連れていってあげたいと思ってます」
02小学校4年生の性自認
同級生の男子を好きになる
子どもの頃の遊び仲間は、同じ小学校に通う同級生たち。
近くの公園には、回旋塔や鉄棒などの遊具があった。
「学校が終わったら、近所の公園に集まって遊んでましたね。ポケモンや仮面ライダー、ウルトラマンなんかも好きでした」
いわゆる他の男の子と何ら変わるところはない。
「ところが、4年生のときに、同級生の男子を好きになっちゃったんです」
公園で一緒に遊ぶ、仲のいい友だちに感じる気持ちとは明らかに異なる感情だった。
「その子が写っている写真を持ってたんですけど・・・。だってね、その子の写真をずっと見ているんですよ。おかしいでしょ、それ(笑)」
子ども心にも、他の男子とは違うと感じた。
思い返せば、女の子を好きになることは一切、なかった。
「ゲイという言葉は知りませんでしたけど、自分はほかの人と違うのかな、と認識しました」
もう、間違いない。決定だ
男子に対する恋心は、誰に伝えられるはずもない。
「見続けた写真の子への気持ちは、どうしたらいいのか分からないまま、片思いで終わりました」
次に好きになった人は、5年生で担任になった先生だった。
「先生は30歳くらいだったと思います。一番ヤバかったのは、水泳の時間ですね(笑)」
気がつくと、海パン姿の先生をずっと目で追っていた。
「ほかの先生から、『お前、男が好きなのか』と茶化されたことがありました」
単にふざけていった言葉に違いないが、ドキッとした。
「もちろん、告白できるわけもありませんから、じっと気持ちを隠しているだけでした」
ところが、悶々とする日に、突然、終止符が打たれる。
「先生がほかの学校に転任になっちゃったんです」
本来なら、6年生も引き続き担任するはずだった。
「かなり悲しかったですね」
思いを伝えられぬまま、先生は去ったが、自分のセクシュアリティに関する疑いは確信に変わる。
「もう、間違いない、決定だ、と思いました」
03陸上の素質が花開く
部活動をかけもち
中学生の頃はある意味、一番輝いた時代だった。小学校6年生から始めた陸上の素質が花開いたのだ。
「1年生のときは1500メートル、2年生から800と400に転向しました」
郡山市の大会で優勝、県大会でも2位。東北大会にも出場する、市内では知られたランナーに成長する。
「陸上部のほかに駅伝部と合唱部にも入っていました」
駅伝部は、秋の駅伝大会に向けて、いろいろな運動部からの寄せ集めで編成されるスペシャルチームだ。
「郡山市は『音楽の都』といわれるくらい、合唱が盛んなんです」
実は兄が合唱をやっていて、「お兄さんがうまいから、あなたもいい声が出るはずよ」と、指導する先生にスカウトされたのだった。
その見立てが正しかったのか、合唱でも東北大会に出場することができた。
「一番忙しい時期の休日は、朝イチで駅伝の練習、9時から陸上部の練習に出て、午後からは歌ってました」
「中学生とは思えない忙しさでした(笑)」
頑張った甲斐あって、達成感は大きかった。
「チャレンジしたことは、ほとんど成功して結果を残すことができました」
女の子から告白される
中学生の頃は、クラブ活動が忙しかったおかげで、セクシュアリティについて悩む暇はなかった。
「一度、女の子から告白されたことがあって、あのときは複雑な心境でした」
相手は、他校の陸上部の選手だった。
「妹も陸上をしていたので、ふたりは顔見知りだったんです」
ある競技大会が終わった直後、ラブレターを手渡される。
「絶対に女の子は無理だと分かっていましたら、戸惑うだけでした・・・・・・」
女性をかわいいとか、きれいだと思うことはあっても、恋愛対象にならないことには確信があったからだ。
兄たちの部屋でエッチな本を見る機会があっても、目がいくのは男優のほうだった。
「告白されても、うれしいとも思いませんでしたね」
結局、「陸上に集中したいから」という、ありきたりな断り方をしてしまった。
04海外での活躍に意欲を燃やす
苦手だった英語を克服
勉強では、英語に苦手意識があった。
「その分、高校受験のために一生懸命に勉強したら、ものすごく伸びたんです」
成績が上がると、勉強が楽しくなる。
「3年生のときに、翻訳家の戸田奈津子さんのことをテレビ番組で知って、憧れを抱きました」
国際的な現場で活躍する姿が輝いて見えた。
「自分も、海外に出て通訳の仕事をしたいと考えるようになりました」
その背景には、自分のセクシュアリティも関係している。
「田舎の町で暮らしていたら、パートナーを見つけることは無理だと諦めていました」
海外はゲイが多く、社会も寛容だと聞いていた。理想の男性に出会って、理想の生活を送るには、海外に出るのが一番、と考えたのだった。
高校ではバイト部
第一希望だった県立高校国際学科に合格。当然、陸上部から声がかかったが、入部はしなかった。
「高校を出たら、アメリカに留学することしか頭になかったんです。だから、バイト部を選びました(笑)」
自分が志した道だから、親に金銭的な負担をかけたくなかった。
「3年間、バイトをして、入学金は自分で貯めるつもりでした」
勉強も頑張った。
「国際学科には、留学生が毎年何人も入ってくるんです。オーストラリアからの留学生と英語でサッカーの話をスムーズにできたときは、うれしかったですね」
会話が成立すると自信がつき、もっと上手くなりたい、と英会話へのモチベーションが高まった。
「3年間、首席を譲らずに卒業することができました」
目標にしたのは、旅行業界
初めは通訳を目指していたが、調べてみると、思いの外、ハードルが高いことが分かった。
「通訳には英語以外に、アナウンサー並みのきれいな日本語を話す力が必要なんです」
そこで、次の目標に定めたのが旅行業界だった。
「人と話をするのが好きだし、いろいろな国に行けることに魅力を感じました」
ただ英語が話せるだけでは、いい仕事を得ることはできない。
「英語ができて、接客ができることが強みになる、と考えたんです」
進学先に選んだのは、東京の語学専門学校だった。
「その専門学校には、アメリカの短大に編入できる制度があったんです」
進路指導の先生は、成績優秀な生徒に国立大学受験を強く勧めていた。
「実績を残したかったんでしょうね」
校長先生に呼ばれて、福島大学を受験してくれないか、と直々に頼まれた。
「でも、断りました。日本の大学を出ても、使える英語が身につくとは思えなかったんです」
自分の目指す進路は明確になっていた。
05いざ、アメリカへ! でも、大問題発生!
奨学金制度が廃止に
東京の日本外国語専門学校アメリカ留学課に入学。高校3年間で貯めた100万円を入学金に当てた。
「東京に来たのは、いとこの家族とディズニーランドに来て以来でした」
ふたりの兄も福島の地元で就職。家族は誰も東京に来たことすらなかった。
「専門学校で1年間、英語を勉強して、予定どおりにアメリカへの編入制度に申し込みました」
話は順調に進み、フロリダ州タンパにある、私立の短期大学への入学が決まった。ついに、憧れのアメリカの土を踏むことになったのだった。
ところが、思いもよらない事態が待っていた。
「入学して1カ月で、学校のマネージメント会社が変わってしまったんです」
問題は奨学金だった。200万円の授業料のうち、半分の100万円は奨学金で免除されるはずだった。
「新しい運営会社は、肝心の奨学金制度を廃止にしてしまったんです」
すなわち、すぐに100万円を追加で払え、ということだった。
「ガックリきましたね。親に払ってくれとはいえないし、福島に帰って働くしかない、と観念しました」
ふたりの兄は高卒で働いている。自分だけ、もう100万円出して、とはとてもいえなかった。
「ところが、母に話すと、『お前は飽きっぽいから、郡山に帰っても長続きしないだろう』っていうんです」
そして、「お金は払うから、アメリカにいなさい」といってくれたのだ。
「うれしかったですね。今、思い出しても涙が出ます」
フロリダからシアトルへ
それから、観光学を学べるアメリカ全土の大学のリサーチを開始した。
「タンパの学校を出て、ディズニー・ワールドでインターンシップをするのを楽しみにしていたんですが・・・・・・」
とても、そんなことをいっている場合ではなかった。
「少しでも親の負担を減らすために、安い学校を必死で探しました」
そして、シアトルにあるコミュニティカレッジが浮上した。
「その大学が一番安いことを知って、何とか、編入できるように交渉しました」
19歳。まだ、アメリカに来て1カ月。編入手続きの書類をまとめるのは、容易なことではなかった。
「一生懸命頑張って、承諾を取ることができました!」
アメリカ東海岸のフロリダから西海岸のワシントン州シアトルへ、大陸横断の引越しとなった。
「シアトルの学校の観光学科は、8割が日本人でした」
新しい環境で学び、アメリカでの大学生活をなんとか終了した。
<<<後編 2021/01/22/Fri>>>
INDEX
06 伊東ビーチで、ゲイであることを告白
07 難航するパートナー探し
08 ついに出会った恋人はフランス人
09 バラ色の日々
10 モントリオールへ、メルボルンへ