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Writer/チカゼ

「ジェンダーレスメイク」は、すべての人のためにある

ジェンダーレスメイク、という言葉が世の中に浸透してきた近年、“女性” 以外の化粧を好む人間──つまるところわたしは、ひそかに胸を撫で下ろしている。 “女性” ではないわたしも、おおっぴらにメイクを楽しむことができるから。

ジェンダーレスメイクをはじめた背景

わたしはノンバイナリーを自認していて、性表現は一応のところジェンダーレスでありたいと思っている。スカートは苦手だけれど、その一方でわたしは普段から化粧を楽しむ。なぜ、一般的に “女性” のものとされる化粧をわたしは好むのか、まずはそこから振り返ってみたい。

最初にメイクを始めたのは、中学生のとき

わたしの通っていた中学は規則が緩くて、化粧についても特に禁止されていなかった。周囲の友達が雑誌やなんかに影響されてメイクに手を伸ばし始めると、わたしもつられてやるようになった気がする。

中学生のときにはもう、わたしは自分自身が「女の子」でないことを知っていた。それでもメイクは自然と取り入れていたから、なんだか今振り返るとちょっと不思議だ。

スカートは嫌いだったのに、メイクには抵抗がなかった

指定制服のない学校だったから、わたしは10代のときにありがたいことにほとんどスカートを履かなくて済んだ。 “女性” のものとされているスカートには強烈な嫌悪にも近い感覚を抱いていたので、わたしにとってその環境はかなりありがたかった。わたしの学校は中高一貫校だったから、もし制服があったら思春期のほとんどを「女装」して過ごさねばならなかっただろう。想像するだけでゾッとする。

スカートは明確に「女の子」の表象として捉えていたのに、なぜメイクにはそのような抵抗感を覚えなかったんだろう。その理由としてひとつ思い当たるのが、自分の容姿コンプレックスである。

コンプレックスを紛らわすための「ジェンダーレスメイク」

メイクも「女の子」のものだと感じてはいたけれど、その感覚よりもはるかに容姿へのコンプレックスが勝ってしまった。だから「これでいくらかは自分の顔も見られるようになるかもしれない」という気持ちのほうが先行して、取り入れるようになった気がする。なにぶんもう15年近く前のことだから、当時自分が何を考えていたかなんて正確にはわからないけれど。

メイクはわたしにとって、「女の子」のものというよりも、自分の嫌いなところをカバーする手段だった。そこが、スカートとの決定的な違いだろう。取り入れることでむしろ気持ちが安らぐ、そんなツールだったのだ。

「女の子になりたくない」と「メイクが好き」の葛藤

コンプレックスを打ち消してくれる画期的な魔法としてメイクをするようになったのだが、とはいえ「メイクは女の子のもの」という言説に振り回されてこなかったわけじゃない。「メイクをする」ってことは、“女性” であるってことを認めてしまったことになるんじゃないかと悩んだ時期もあった。

「女の子」だからメイクをしてるんじゃないのに

小学校高学年くらいから男の子のような服装を好み出したわたしに対して、母親や親戚はいつも眉を顰めていた。だから思春期になって化粧を始めると「やっぱり女の子やねえ」などと勝手に安堵されたりなんかして、それはそれでモヤっとした覚えがある。

ドラッグストアでコスメコーナーを物色しているときに、ふとそういった言葉が頭をかすめると、なんだか途端に萎えてしまった。別にわたし、「女の子」だからメイクしてるんじゃないのになあ。自分の嫌いな輪郭とか、目とか、鼻とかを、どうにか好きになれるように、メイクをしているだけなのになあ。

男の子の服を着ることと、メイクをすることは、同義だった

わたしが化粧をすることに疑問を抱くのは、血縁者だけに留まらなかった。同級生──友だちとは呼べないくらいの距離感の子たち──に「チカゼがメイクするなんて意外だね」と何度か揶揄われたことがある。「ボーイッシュな子」であるわたしとメイクという取り合わせが、あまりにもちぐはぐに見えたのだろう。

「チカゼって女の子だったんだ」みたいな反応を受けると、メイクをするということはすなわち自分を「女の子」だと周囲に主張することになってしまうのだろうかと思い悩んだ。そういうわけじゃないんだけどな。

ただわたしは、わたしの納得する顔になるために、前を向くためのツールとして、化粧を選んだだけなんだけどな。わたしにとっては、男の子の服を着ることとメイクをすることは、同じことなんだけどな。

ジェンダーレスメイクが、わたしのモヤモヤを吹き飛ばした

「ボーイッシュ」であるわたしがメイクをすることの理由を、他人に説明できぬまま10代を過ごしたのだけど、ある言葉の出現で抱えていたモヤモヤが一気に吹き飛んだ。そう、それこそが「ジェンダーレスメイク」である。

りゅうちぇる、現る

2015年、つまりわたしが20代前半ごろ、がっつりメイクをした男の子をテレビでよく見かけるようになった。彗星のごとくお茶の間に現れたりゅうちぇるだ。80年代風のアイドルみたいなヘアバンドと日焼け風の濃いチークを施していて、最初見たときはけっこう衝撃的だった。

それまでわたしが見たことのある男性の化粧は、いわゆるヴィジュアル系バンドの人たちのそれに限られていた。どちらかというと「かっこよさ」とかそういうものを演出するためのもので、“女性” が日常的にする可愛らしい色使いのそれとはまったく別のものと捉えていたのだ。だから「男の子」でありながら「可愛くなりたい」と堂々と宣言する彼の存在は、わたしにとって青天の霹靂だった。

りゅうちぇるがテレビに出始めたころ、「オカマ」「男らしくない」などという心ない批判を浴びせられることも少なくなかったらしい。当時わたしは大学生だったんだけど、周囲にも「最近出てきたりゅうちぇるって、なんか変だよね」などと嘲笑気味に話のネタにする同級生が何人かいたのを覚えている。

ただその一方で、「自分を貫く姿勢がかっこいい」「芯があって素敵」などといった共感を寄せる声や賞賛の声も多くて、わたしは勝手に嬉しくなった。

テレビで先輩モデルに「化粧してる男ってありえないんだよね」「結婚して、子供が産まれて、パパになってもそのままなの?」と説教をされるドッキリ企画を仕掛けられたときのことも、よく覚えている。そのときもりゅうちぇるは「絶対可愛いパパでいる。人に何を言われても自分がしっかりしていれば大丈夫」と毅然と反論していて、胸が熱くなった。

そっか、別に「女の子」じゃなくても、「可愛くなりたい」と思ってもいいのか。「可愛い」は「女の子」の形容詞でも、特権でもないのか。りゅうちぇるの出現で、やっとわたしはそう思い至ることができた。ありがとう、りゅうちぇる。

世間の「普通」を押し付けられて、苦しい思いも悔しい思いもたくさんしただろう。だけど、わたしはあなたがあなたとしてバーン! とお茶の間に出てきてくれたからこそ、救われた人間のひとりだよ。

「ジェンダーレスメイク」という言葉の恩恵

そのあたりから少しずつ「ジェンダーレス○○」というワードがファッション業界を中心に、日常でもよく聞かれるようになった。りゅうちぇるがテレビに出演し出した2015年ごろから「ジェンダーレス女子/男子」が雑誌やテレビなどでも話題になり、セクシュアリティを感じさせない装いをする人が出現し始めた。その流れで、「ジェンダーレスメイク」という単語も浸透していった気がする。

「ジェンダーレスメイク」という言葉があるだけで、「女性じゃなくても化粧をしていいんだな」と安心することができる。言葉というのはそれだけ威力を持つのだ。「メイク」は長らく “女性” のものとされてきたけれど、そこに「ジェンダーレス」という言葉がつくだけで “女性” 以外の人もメイクに手を出しやすくなる。

少なくともわたしは、ずいぶん気が楽になった。心のどこかで感じていた「男でも女でもないと自認しているくせに “女性” のものである化粧に手を出していいのか。それは矛盾にならないか」というような葛藤も、きれいに払拭されたのだ。

「彼氏のため」「旦那のため」にメイクする人ばかりじゃない

メイクは「女性が男性に綺麗だと思われたくてするもの」という言説も、「ジェンダーレスメイク」が吹き飛ばしてくれたように思う。以前勤めていた広告代理店では、化粧品を担当する部署でライティング業務に携わっていた。その際、上司から「彼氏に褒められる」とか「旦那を見返す」とか、その手のワードを入れるよう何度も提案されて、辟易した。

パートナーを持たない/望まない人もいると思うんですけど、とか、“女性” 以外は買いにくくなっちゃいますよ、とか、かなり抵抗したんだけど、「男性はターゲットに含んでいないから」という一言でバッサリと切り捨てられてしまった。その商品は特別フェミニンなパッケージでもないのにもかかわらず、だ。なんだかものすごくやるせ無くなったし、上司の態度に精神を少しずつ削られて結局1年足らずでフリーに転身した。

その上司の主張も、「ジェンダーレスメイク」という言葉で吹き飛ばすことができる。メイクは、 “女性” が “男性” のためにしたっていいし、自分のためにしたっていい。そしてまた、 “女性” じゃない人がメイクをしたってなんら不自然ではないということを、その一言で説明できるから。

ジェンダーレスメイクは、すべての人のためのもの

「ジェンダーレスメイク」という概念は、「女性が男性的に/男性が女性的になるためのメイク」であるという解釈もよく見られる。でもわたしは、必ずしもそうとは限らないんじゃないかと思っている。

わたしのなりたい顔になるため

FTMないしFTN(X)の「ジェンダーレスメイク」は、すなわち「男性的に映るメイク」を指すと受け取っている人が多いように感じる。でも、別にわたしは「男性的」になんてなりたくない。「かっこよく」なりたくはないし、どちらかといえば「可愛く」なりたい。わたしの「可愛い」が世間一般の「可愛い」と一致するかどうかは、ひとまず置いておくとして。

もともとの身体が女性で気持ちがそれとは異なるのだったら、自動的に「男性的」とか「かっこよさ」を目指していることになっちゃうのはなんか違う。わたしは “女性” にも “男性” にも見られたくないけれど、「可愛く」ありたい。それがわたしにとっての、「ジェンダーレスメイク」である。

その人らしさを表現する「ジェンダーレスメイク」

「男→女」ないし「女→男」に移行すること、もしくはそのどちらの色も消し去ったニュートラルであることも、「ジェンダーレスメイク」ではないだろう。究極のところその人らしさを表現するためのメイクこそが、ジェンダーに囚われない「ジェンダーレスメイク」なんじゃないかな。

だからわたしはこれからも、わたしなりのジェンダーレスメイクをする。メンズメイクの動画を参考にしながら「これだと男性的になりすぎる気がするからマスカラを塗ろうかな」とか、シス女性を対象にしたメイク雑誌を参考にしながら「これは女性的すぎるから色味を変えようかな」とか、試行錯誤しながら自分にふさわしい顔を探る。

自分の容れ物を、自分の心地よいかたちに整えていく。たぶんきっと「ジェンダーレスメイク」って、すべての人のためのものなんだろう。

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