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Writer/HOKU

クィア・ベイティングってなに?−どうして乃木坂のエイプリルフールがたくさんの人を傷つけたのか

乃木坂46の秋元真夏さんのInstagramにおける「エイプリルフール」投稿が話題になっていましたね。「批判にさらされる」という形で。話題性のある二人の投稿だからこそ、余計に批判にさらされた面もあることでしょう。この記事では、秋元真夏さんの投稿がどうしてここまで炎上してしまったのか、「クィア・ベイティング」という視点から考えていきます。

乃木坂46の二人の「エイプリルフール」

乃木坂46の秋元真夏さんによるInstagram投稿が波紋を呼んだ

Instagramに投稿された2枚の写真。真っ白な服を着たふたり。仲の良さそうな日常風景。素敵で可愛らしい写真のはずなのに、これが大きな大きな炎上を呼んでしまいました。問題になったのは「この度、友人の生田絵梨花と式を挙げました」という、添えられた文言。

この投稿が「同性愛をネタとして消費している」として批判にさらされたのです。と同時に、この投稿を擁護する意見も、ネット上を飛び交いました。
一見するとただの可愛らしいエイプリルフール。これがもし5年前だったら「可愛い」「こういう形でクィアを扱ってくれることで、同性愛者も発言しやすくなる」とむしろ称賛された可能性もあります。

また、これがもしファンのみに向けられたメッセージだったら。ここまで波紋が広がることはなかったかもしれないですね。Instagramという世界中に広がるSNSでのメッセージだからこそ、また乃木坂46という知名度の高いグループだからこそ、投稿への注目度がぐっと高まり、このような炎上が起きたのでしょう。

乃木坂のエイプリルフール投稿に対する批判

「乃木坂 エイプリルフール」でTwitter検索すると、多くの批判が目に飛び込んできました。「ファンとして」批判している人もいれば、「性的マイノリティ当事者として」批判している人もいて、どちらの当事者でもないけれど批判する人たちもいました。

検索結果は、6割程度がこの投稿に対する批判でした(私のTwitterが私向けに最適化されていた可能性もありますが)。そして、「運営側に止める人はいなかったのか」「まだ同性婚が認められてすらいないのに」「しっかり話し合って何が問題なのかみんなで理解してほしい」という意見も多く、投稿した本人たちを責めるというよりは、投稿内容それ自体や、投稿へゴーサインを出した運営側に対する批判が多い印象を受けました。

それでもこの話題が、この意見が、本人たちの手元へ届く際には、「本人たちへの批判・非難」として受け取られてしまうかもしれない・・・・・・とも思います。私も「推しを持つ者」として、「結局はアンチの意見として受け取られてしまうのではないか」と、推している有名人への批判を何度もためらったことがあります。勇気あるファンの姿に、力をもらうことができました。

乃木坂のエイプリルフール投稿への批判に対する反論

「こういう反応のせいでかえって性的マイノリティに対するネガティブな感情が生まれる」「声高に権利を主張し、特別扱いしてもらおうとしている」という意見も目立ちました。
全体的に、批判に対する性的マイノリティという属性全体の「不寛容さ」に問題を置き換える意見が多かった印象です。

しかし、やはり私も「推しを持つ者」としてはこちら側の気持ちもわからないではない・・・・・・と思います。私の推しに対するスタンスは、基本的に「幸せに生きていてくれたらなんでもいい」です。だからこそ、大規模な批判にさらされている推しを見たら、批判から守りたい気持ちにはなります。

お願いだから推しをそっとしておいて。そう思っていても、推し自身が問題の根本を理解してくれていなければ、ファンの力だけで炎上を回避するのは難しいでしょう。推しの言動は世界中の、少なくとも日本中の人から見られているわけですから。

「推しを持つ者」としての身の振り方を考えさせられる事件だと、改めて感じます。

 

クィア・ベイティングとは何か?

乃木坂46の秋元真夏さんと生田絵梨花さんの投稿は、「クィア・ベイティングではないか」という批判にもさらされています。でも、「クィア・ベイティング」とは一体どういうものなのでしょうか。何が問題になっているのか、核心に近づくためにも「クィア・ベイティング」について、簡単に説明します。

クィア・ベイティングの定義

クィア・ベイティングとは、『実際には同性愛者ではないのに、ある人物やキャラクターが、あたかも同性愛者であるかのように匂わせたり、わざとバイセクシュアルを予感させるような表現を使うなどして “性的指向の曖昧さ” をほのめかすこと(https://front-row.jp/_ct/17278815)』と定義されています。特にポップカルチャーやエンターテインメントの世界で、近年問題となってきているものです。

「クィア」とは、あらゆる性的マイノリティを包括する概念。「ベイト」には「おびき寄せる」という意味があります。つまり、LGBTQを表現の中に利用することで、消費者を「釣る」行為のことを指しているのです。

「クィア・ベイティング」が最も問題となるのは、LGBTQを利用することで幅広い層に商品をアピールしながらも、彼ら自身の権利に対しては無関心な場合です。特に海外においては、異性愛者であることがよく知られている俳優が同性愛者役を演じることについてや、同性同士のロマンスをほのめかしながらも明言はしない場合などに、「クィア・ベイティングだ」として頻繁に炎上しています。

クィア・ベイティングの事例 ①カルバンクラインのキャンペーン

人気モデルのベラ・ハディットと「バーチャル・インフルエンサー」であるリル・ミケーラの熱烈なキスシーンがフィーチャーされた、カルバンクラインの「I Speak my truth in #MyCalvins」キャンペーン。このキャンペーンは、二人が、性別の壁や、人間と「キャラクター」の壁を越えた愛を示した表現であるとして、話題になりました。

一方で、ベラ・ハディット自身は異性愛者として知られており、男性の恋人がいることも公表しています。その上で、同性愛者の役を演じたことについて多くの非難を浴びることになったのです。

日本で生きていると余計に、「同性愛者でない俳優」が「同性愛者の役」を演じることに対する海外の苛烈な反応に、違和感を覚えるのではないでしょうか。私は、「同性愛者ではない人間が同性愛者の役を演じることはおかしい」とは思いません。

ですがそれは、「同性愛者である人間が同性愛者でない人間の役を演じることはおかしい」という前提がない社会においてのみです。そんな社会の実現が、芸術の幅をまたひとつ、広げていくのではないでしょうか。

クィア・ベイティングの事例 ②ビリー・アイリッシュ「Lost Cause」MVへの批判

歌手のビリー・アイリッシュが新曲「Lost Cause」のMVの中で、女性たちと絡んでいる表現を多用したことによって、「クィア・ベイティングではないか」という批判を浴びました。

しかし彼女は、作品と自分のセクシュアリティは全く関係ないものとして、この批判に反論しています。そう、セクシュアリティを公言していない人の表現に対し「クィア・ベイティングなのではないか」と苦言を呈することは、相手を「異性愛者だ(あるいは少なくとも同性愛者ではない)」と決めつけることに繋がるのです。

個人的にはアーティストの出す曲について「クィア・ベイティングだ」と批判することには少し違和感があります。男性の気持ちを想像する曲を女性が作ることについては、何の問題もないとされています。逆も然りです。

異性愛者の女性歌手が、同性愛者の女性の苦しみを想像し曲を作ること、トランスジェンダーの友人の話を聞き、曲を作ること。それは先の例と全く同じなのではないでしょうか。もちろん、特に想像で作る曲については薄っぺらなものになる可能性もあります。でも、その曲の問題は、「代弁したこと」ではなく「薄っぺらいこと」だと思うのです。

曲の中に一人、また一人とセクシュアルマイノリティが出現することで、確実に、世の中におけるセクシュアルマイノリティのイメージは多様化していくと、私は期待しています。

乃木坂の投稿は結局何がよくなかったの?

結局、乃木坂の投稿は「クィア・ベイティング」だったのか?

「クィア・ベイティング」は、「本当はセクシュアルマイノリティではないのに、そのように振る舞うこと」です。アイドルの世界は、そういう意味では「クィア・ベイティング」で溢れているように思います。女性アイドル然り、男性アイドル然り。もちろん、みんながみんな、全員が異性愛者だ、ということはありえないと思います。そして、秋元真夏さんや、生田絵梨花さんが異性愛者だ、とは決して言い切れません。

では、クィア・ベイティングではなかったのか、と言われるとそこにも違和感があります。

あの写真は、明らかに多くのスタッフの手が加わったものです。だとすれば、商業的な意図は間違いなく含まれているでしょう。彼女たち自身の意図や意志がどこまであったかはさておき、彼女たちが異性愛者であろうとなかろうと、「二人を同性愛者売りすればウケる」と考えた大人たちがいたことは、確かなのではないでしょうか。

同性愛者を商業的に利用する、「クィア・ベイティング」であると批判を受けても、仕方のないことだと思います。

「同性婚=絶対にありえない」という意識が見えてしまった

エイプリルフールは、嘘をついてもいい日。日本では同性婚は認められていないから、女性二人である二人の結婚は「当然の嘘」として受け取られます。そう、確かに「絶対にありえないこと」ではあるのです。正確には「式を挙げました」だけなので、結婚セレモニー自体は可能ですが。

でもそれが、「絶対にありえないことだよね」と受け入れられてしまうのは、本当はとても悲しいことなのではないでしょうか。同性同士だから、最初から結婚という選択肢を選択できない。そのつらさを、そんな誰かの状況を、少しでも考えた投稿だったのでしょうか。

同性同士の恋愛は誰かを喜ばせるためのものではない

また、「女性同士の恋愛・結婚は誰かを喜ばせるためのもの」「女性同士の恋愛・結婚は性的に消費して良いもの」という印象を、この投稿は再生産してしまっています。この写真が「ファンにウケるから」と投稿されたものであることは間違いないからです。現に、「そんなに騒がないで、レズビアンの皆さんはぜひ僕らのためにエイプリルフールに『結婚しました』って投稿してください、僕らはそれを見て喜ぶので」という趣旨の投稿を見かけることもありました。

女性同士で恋愛をするのは、「お前らのため」なんかでは絶対に、絶対にないからな、と息が詰まりそうになりました。当事者以外の誰かを「喜ばせるため」に女性が女性と恋愛・結婚をするんだろう、そしてその誰かを喜ばせて嬉しいんだろう、だなんて勘違いもはなはだしいです。

「クィア・ベイティング」。もういっそ逆に利用してやろうよ

世間で「クィア・ベイティング」と言われる行為すべてが「悪」というわけではない

確かに、商業的に利用してやろう、甘い蜜を吸ってやろう、吸うだけ吸ってあとは知らない、という姿勢は完全なる「悪」だと私も思います。でも、「同性愛者の物語だけれど、この場面にどうしてもこの異性愛者の俳優の力が必要」とか、「自分はシスだけれど、それでも色々考えた結果、トランスジェンダーをテーマにした物語を書く」とか、表現したいことの追求の結果として、クィア・ベイティングだと責めるべきだとはどうしても思えません。

あるいは「いまクィアが流行しているからそれで儲けて、代わりにクィア支援を行おう、クィアについての正しい知識を広めよう」といった、利用しつつもコミュニティに寄与しよう、という姿勢だってありうるわけです。そしてそれも、完全なる「悪」だとはとても思えません。

企業はやはり売上・利益を上げること、もしくは流行ることが「正義」です。その正義を第一に置きながらも、利用した相手にはきちんと返す、の繰り返しなら。クィア・ベイティングではない、つまり悪とは言えないのでは。

「クィア・ベイティング」が起きたらウチらの最高の「議論の場」にしてやろうよ

「クィア・ベイティング」だ、と思ったら、「これってクィア・ベイティングなのかな?」「これって問題があるのかな?」「この属性の人たちってどんな差別を受けているのかな?」「これって本当に酷いことなのかな」と、お互いに色々な疑問や意見を投げかけあって、「議論の場」を作ってもいいと思います。

SNS上での「議論」はなかなかどうして、「論破」のしあい、「降参させたもの勝ち」みたいな雰囲気がどうしても漂ってしまいます。それでもその空気に負けず、「話し合う」「考える」「ギリギリまで理解しようとし続け合う」を繰り返した先には、今よりも少しだけ、明るい未来が待ち受けているような気がします。

だからもし、「クィアが利用されてる・・・・・・」と思ったら、「ウチらの」「建設的な」議論の場に「ベイト」していくのはどうかな。最高に楽しくて明るい仕返しだよね。

 

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