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FTMでもそうでなくても、子どもには生きててもらわなきゃ。【前編】

カラッとした太陽のような笑顔が印象的な佐藤鈴華さん。5人姉妹の長女であり、2児の母であり、保育士である佐藤さんは、幼い頃から今に至るまで、さまざまな子どもと接してきた。その中で感じたものが、娘のセクシュアリティに対する違和感。「元気でいてくれればいい」その思いで選んだ道は、子どもが何でも言える環境作りだった。

2019/10/02/Wed
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Ryosuke Aritake
佐藤 鈴華 / Suzuka Satou

1973年、東京都生まれ。幼少期に、父の転勤で茨城に移り住む。短期大学を卒業してから現在まで、幼稚園、保育園、こども園など、保育の現場での仕事を続けている。23歳の時に結婚し、娘と息子を出産。2018年、娘からFTMであることをカミングアウトされ、現在はその生き方を応援中。

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INDEX
01 家族の愛を感じながら育った優等生
02 幼い頃に思い描いた将来の夢
03 子どもを育てることと仕事を続けること
04 ほかの子とは違う気がした娘の性質
==================(後編)========================
05 不安定な子どもと受け入れる準備
06 FTMであることを打ち明けてくれた日
07 「元気でさえいてくれればいい」
08 親として子どもにしてあげられること

01家族の愛を感じながら育った優等生

子煩悩でやさしい両親

生まれは東京だが、父の仕事の関係で、4歳の頃に茨城に引っ越す。

「東京で暮らしていた記憶は、ほとんどないですね」

「両親の故郷は北海道と新潟だから、茨城は縁もゆかりもない土地なんです」

両親は、2人揃って子煩悩。

「お母さんは専業主婦で、学校から帰ってくればいるのが当たり前でした」

「 “無償の愛” って、お母さんのことを言うんだろうな、って思います」

「勉強しなさい」と言われることもなければ、「好きなことをやりなさい」と言われることもなかった。

「子どもに『こういう生き方をしなさい』って、押し付ける人ではないです」

「お父さんは、その頃には珍しいイクメンでしたね」

「いろんなところに連れてってくれたし、ごはんも作ってくれたし、今も仲がいいです」

出先で車のタイヤがパンクすれば、すぐに駆け付けてくれるやさしい人。

仲良しな4人の妹たち

そんな両親の間には、自分を含めて5人の娘がいる。

「私が長女で、2番目が1歳下です。そこから8歳くらい離れて3番目と4番目がいて、一番下とは14歳離れてます」

「姉妹が3ブロックに分かれてる感じで、にぎやかですね(笑)」

すぐ下の妹と2人きりの間は、ケンカも多かったが、妹が増えるたびに姉妹仲は良好になっていった。

妹たちの面倒は、よく見ていたと思う。

「一番下の面倒を見ていたお母さんの代わりに、私が3番目、4番目の授業参観に行ってました」

「妹が増えていくのは、うれしかったですね」

母は、一番下の妹を妊娠した時、中学生だった自分に報告しづらかったという。

「修学旅行中で、公衆電話から家に電話をした時に、突然『赤ちゃんができたの』って、報告されたんです(笑)」

「私は単純に『やったー! また赤ちゃんができる!』って、喜んだことを覚えてます(笑)」

小さな妹たちがいたおかげで、赤ちゃんとの接し方を学べた。

「びくびくしないで赤ちゃんに触れるので、家の中でいい経験ができてたんだな、って思います」

目立ちたくない児童会長

幼い頃の自分は、おとなしい優等生だった。

「先生の言うことを聞くことも、親の手伝いをすることも、当たり前だと思ってたんです」

「長女特有の気質なんですかね」

「いい子でいなきゃいけない、って思ったことはないけど、いい子でいることが普通でした」

小学生の時には、児童会長に選出された。

「人前でしゃべることは嫌いだったんですけど、友だちに推薦されて、断れなくて(苦笑)」

「しゃべることにはだんだん慣れていったけど、目立つことが好きにはならなかったですね」

02幼い頃に思い描いた将来の夢

「なぜ生きているのか?」

幼稚園児の頃の夢は「幼稚園の先生」。

「通っていた幼稚園の先生が大好きで、自分もなりたいって思ったんです」

小学生までなんとなく抱いていた夢を、中学生に上がってから考えなくなっていく。

「思春期辺りから、何のために生まれてきたんだろう? みたいなことを考える時期に陥りましたね」

中学生の頃の自分は、あらゆることに対して「なぜ?」と。疑問を抱いていた。

「周りに同じことを言ってる子がいたわけじゃないし、不良になるわけでもなかったです」

「ただ、変な子だっただろうな(苦笑)」

「なぜ生きているのか?」という、答えのない問いを、自分に投げかけ続けた。

理由もなく、死にたい、という気持ちが湧いてくることもあった。

「学校を休んで、哲学的なことを考える日もありましたね。反抗期もあったと思います」

母親の話を無視する程度の、ちょっとした反抗。

「でも、大人になってから、お母さんに『鈴華は手がかからなかった』って、言われました」

「『一番上だから、勉強とか厳しくしたことがあったかも』みたいに言われたけど、私は厳しくされた記憶はないですね」

子どもと関わる仕事

高校に上がると、社会や人生に対する疑問は、ますます深いものになっていく。

「真面目に何かするなんてバカ、みたいに思ってた時期もありましたね(苦笑)」

「その頃は将来の夢もなかったし、勉強もしたくなくて、卒業したら仕事しようと思ってました」

高校3年生になり、珍しく親友と将来について語り合った。
親友は「漫画家になりたい」と、夢について話してくれた。

私は何になりたかったんだっけ? と、過去の記憶を手繰り寄せる。

「そうだ、幼稚園の先生になりたかったんだ! って、そこで思い出したんです」

「すぐに担任の先生に『短大に行きたいです』って話したら、かなり慌ててましたね(笑)」

担任から出された「夏休み、毎日学校に来い」という指示に従い、必死に勉強した。

そして、目標にしていた短期大学に合格。

「短大を卒業してからは、幼稚園に保育園、こども園と、ずっと保育の仕事に関わってます」

「妹たちと年が離れてるから、赤ちゃんと接することが日常だったし、保育の仕事を選んだのも必然かもしれませんね」

03子どもを育てることと仕事を続けること

仕事と結婚と出産

短大時代から関係が続いていた男性と、23歳で結婚する。

「その頃は、『結婚したら退職しましょう』みたいな風潮があった時代です」

「明確な決まりがあったわけじゃないです。でも、そう言われた同期もいました」

「私は何も言われなかったけど、結婚を考え始めて、転職しましたね」

パートに近い雇用形態の臨時保育士として働き直し、結婚からほどなくして妊娠した。

その時の職場は、保育士が自閉症の子を1対1で見る保育施設。

「受け持っていた子が卒園するまでは残ろう、と思って、3月まで働きました」

卒園させてから退職し、その翌月の4月に娘が産まれる。

辛かった初めての出産

初めての出産は、予定日から1週間遅れる。

陣痛がひどく、産後もなかなか痛みが引かないほどだった。

「すごく大変だったので、こんな思いは二度としたくない、って思いましたね(苦笑)」

「子どもは1人でいい、って思いましたよ」

「・・・・・・その4年後に、2人目を産むんですけどね(笑)」

年の離れた妹がいて、職場にはたくさんの子どもたちがいる。

それでも、その頃は自分の子どもを産みたい、とはあまり思っていなかった。

「特に願望はなくて、たまたま早く産んだだけって感じでした」

知らず知らずのうちに、不満や不安が溜まった。

忘れられない子どもの言葉

「最初は専業主婦になって、子育てに専念しようと思ってたんです」

「だけど、子どもとの1対1の時間が長くて、社会に取り残されてる感じがしましたね」

「同世代の独身の友だちが楽しそうに見えて、やっぱり働きたい、って思っちゃって」

幸いにも実家のすぐ近くに住んでいたため、両親の協力が得られた。

「昼間は子どもを両親に預けて、1年で仕事復帰しました」

「子どもが起きる前に家を出て、寝てから帰ってくるみたいな時期もありました」

しかし、2人の子どもが思春期に入ると、両親の手には負えなくなってくる。

「その時は一度仕事を辞めて、専業主婦になったんです」

「でも、子どもからしたら、毎日母親が家にいる状況が煩わしかったみたい(笑)」

仕事を辞めてから1年が経つ頃、子どもたちから「お母さん、働いてもいいんだよ」と、言われる。

「その言葉に背中を押されて、また働きに出ることを決めました」

「帰るたびに『宿題やれ』って言われるのが嫌だった子どもに、追い出されたのかもしれないけど(笑)」

「私としては献身的に面倒を見てたつもりだったから、忘れられないひと言ですね(笑)」

04ほかの子とは違う気がした娘の性質

ドレスよりタキシード

自分も夫も若かったため、結婚する際に式を挙げていなかった。

「友だちの結婚式に出席すると、両親への手紙を読んでいたんですよね」

「結婚式って、家族に感謝の言葉を伝えるためにやるものなんだ、って知ったんです」

娘が3歳になるタイミングで、七五三も兼ねて結婚式を行うことを決める。
娘には、かわいらしいドレスを着せようと考えていた。

「でも、あの子が最終的に選んだのは、エメラルドグリーンのタキシードだったんです(笑)」

結婚指輪の交換も、娘が「お母さんと結婚するのは自分だ」と主張し、夫の代わりに娘にはめてもらった。

「『この子は男の子なんだな』って、その時に初めて思ったんですよね」

「でも、深くは考えてなかったです」

男友だちが多く、戦隊ものや仮面ライダーが好きな娘。

ランドセルも、最初は「黒がいい」と、言っていた。

「『戦隊ものの真ん中は赤だよ』って話をしたら、『じゃあ赤でいい』って(笑)」

ドッジボールに参加する女の子

娘が小学校高学年の時、子ども会のドッジボール大会が開催された。

「女の子たちは『当たったら嫌だ』『痛いから』って、参加しなかったんですね」

「でも、女の子で唯一、あの子だけは参加したんです」

自分が子ども会の役員をしていたため、娘なりに気を使ったのかと思い「お母さんのこと、気にしなくていいんだよ」と伝えた。

しかし、娘は「全然問題ない」と、当たり前のようにドッジボールに挑んだ。

「しかも、男の子たちからの信頼が、厚かったんです」

チーム分けをする時、男の子のリーダーが一番に娘を選んだのだ。

「改めて、うちの子はちょっと違うな、って感じましたね」

「でも、子ども社会の中では男とか女とか関係なく、1人の人として受け入れてくれてるのかなって」

セクシュアリティに対する違和感

もともと “性同一性障害” “トランスジェンダー” という言葉は、うっすら知っていた。

「周りに当事者がいなかったから、気に留めず流してたのかな、って思います」

はっきりとその存在を認識したのは、ドラマ『3年B組金八先生』。

「鶴本直というFTMの登場人物とうちの子に、リンクするところがあったんです」

「だから、余計に真剣に見たのかもしれません」

トランスジェンダーの子はこんなに葛藤するのか、と驚かされた。

「あの子はそこまで葛藤しているように見えなかったけど、もし悩んでるなら、言ってほしいって気持ちがありました」

「力になりたい、ラクにしてあげたい、って思いましたね」

「自分の娘がトランスジェンダーだったら悲しい、って否定的な感覚はなかったです」

 

<<<後編 2019/10/05/Sat>>>
INDEX

05 親として子どもにしてあげられること
06 FTMであることを打ち明けてくれた日
07 「元気でさえいてくれればいい」
08 親として子どもにしてあげられること

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