02 モヤモヤし出した、小学校高学年
03 暗黒の中学時代
04 性同一性障害との気づき
05 何者か知って安堵した後も、悩みは続く
==================(後編)========================
06 初めてのカミングアウトは部活の顧問
07 背水の陣でのぞんだ仲間全員への告白
08 受け入れられなかった両親
09 「自分らしさ」はただ今模索中
10 悩みながら出した自分の答えとして
01「女の子らしさ」への疑問
保育園の先生に「大人になったら結婚しよう!」
子どもの頃の思い出で、一番印象に残っているのは、好きだった保育士の先生のこと。
若くてかわいい先生だった。
「親が仕事で忙しかったので、保育園には一番早く行って、最後までいる子でした。だから先生も心配してくれて、よく一緒に遊んでくれたんです」
「僕、先生に、『大人になったら結婚しよう』って言いました(笑)先生は笑ってましたけどね」
運送会社のドライバーの父と、メーカーに勤める母。そして6歳年上の兄。
父はまだ暗いうちに家を出て、母も朝から出勤。
共働きで忙しい両親に代わって保育園の送り迎えをしてくれたのは、車で30分ほどのところに住む祖母だった。
両親の仕事が遅い時は祖母の家でごはんを食べて、両親の帰りを待った。
好きになるのはいつも女の子で、好きな子にはちょっかいを出し、追いかけたりしていた。
遊び相手は男の子ばかりで、鬼ごっこや警ドロなど、ずっと外遊びをしていた。
自分の性について何も考えることなく、楽しく遊んでいた日々。
「ただ僕、七五三の写真が残ってないんですよ。母が言うには、泣いて嫌がったからと」
自分の記憶にはない。
女の子の衣装を着せられるのが嫌だったのかもしれない。
破壊した赤いランドセル
小学校低学年までは、自分の性に違和感はなく、特別意識したこともない。
スポーツは得意で、特に球技がとても好き。
昼休みには男子に交じってサッカーをし、バスケットボールクラブにも入った。
父とたまに公園で野球をするなど、とにかくずっと、外で遊んでいる子どもだった。
両親から、女の子らしくしなさいというプレッシャーを受けることはなかったが、スカートをはくのは泣くほど嫌がったと聞いた。
「嫌がる時の記憶はないんですけどね」
ただ、赤いランドセルを買った時の、親のうれしそうな顔は覚えている。
「兄貴は黒いランドセルだったので、娘のランドセルを買うのはうれしかったんでしょうね」
しかし、4年生ぐらいから、赤いランドセルが嫌だと感じるようになっていった。
「赤は女の子、黒は男の子って、ランドセルの色の意味を認識し始めたら、めっちゃ嫌になっちゃって」
友だちと交換というのもおかしい。どうしようと、言い知れぬ違和感に襲われた時、リュックで登校してきている子を見つけた。
「それがうらやましくて、いいなーと思いました」
5年生も終わる頃、意図的に、ランドセルの中をカッターで切りつけて壊した。
「母には、『壊れた』って言って、紺色のリュックを買ってもらったんです(笑)」
当時は、ランドセルの留め具部分を閉めずにおじぎをして、中の物を一気に出すという遊びが友だちの間で流行っていた。
「ずっと続けていると、本当にランドセルの閉まりが悪くなるので、それも理由にした気がする。閉まらなくて困るから、みたいな感じで」
母は信じたのだろうか。
それは分からないけれど。
02モヤモヤし出した、小学校高学年
「友だちとしての好き」ではない
高学年になると、さらに自分のセクシュアリティに違和感を持つようになる。
「でも、その頃はまだ違和感の正体が分からなくて不安で、ずっと悩んでました」
何かは分からないけど、何かが嫌。
「誰にその違和感というか、モヤモヤを伝えればいいか分からなかった。先生にも親にも言えないし」
女子のグループの話す内容や、一緒にトイレに行く行動などにまったく共感できず、話も合わない。
「みんなと違うという感覚はあったんですよ」
「みんなと同じになれないことに引け目を感じて、なおさら言えなかった」
両親は相変わらず仕事で忙しく、ゆっくり話す時間もなかった。
「バレンタインデーには、誰が好きだとか、そういう話しになるんですけど、その時、僕は答えられなくて」
「女の子が好き、というのも言えなかったです」
小学校5年生の時、転校生でやって来た女の子を好きになった。
好きな子にはちょっかいを出したくなってしまい、虫の形のおもちゃを近づけたりし、反応を見た。
「自分の性に対する違和感はあったんですけど、自分が女の子が好きなことに違和感はなかったんです。ふつうのことだと思ってて」
「だけど、男女に分かれて遊ぶとか、会話の内容とかには違和感があって、『あれ?』って感じで」
自分は周りの女の子とは違うな・・・・・・という感覚はあったが、モヤモヤは外には出さず、ひとり悩んでいた。
いじめの対象になるのではないかという不安
自分が女の子を好きになることに不思議さはなかった。
けれど、女の子たちの恋愛の話には入れない。
そこには、「周りと違うことで浮いてしまう」ことへの不安があった。
「僕が小学校を卒業した後、実はクラスの中でいじめがあったということを知りました」
いじめといっても、トイレに閉じ込めるなどの目に見えて分かりやすいものではなかった。
友だち同士のからかいは、親しみを込めたじゃれ合いであることも多く、当時のことをそこまで覚えているわけでもない。
でも、あからさまな「いじめ」ではなくても、無視や陰口などは、教室という小さな閉じられた世界で誰かの居場所を奪うには十分だ。
「次は自分が標的になるかもしれない」という不安は、周囲への同調圧力となり、知らず知らずに息苦しさを助長する。
「自分の性に対する違和感を口にすることで、自分がその、いじめられている子の側に行ってしまうというか・・・・・・」
「みんなから距離を置かれる存在になりたくない、という不安な気持ちには心当たりがあります」
03暗黒の中学時代
学校のトイレに入れない!
小学校までは男の子と遊ぶことが多かったが、中学に入ると一変。
制服で強制的に男女が分けられ、自然と自分も「女子」のグループに入れられていく。
「なんでか分からないけど、女子って寄って来てグループになるんですよね」
中学に入ってから一層モヤモヤが増し、「中学が一番、暗黒時代」と言い切るぐらいつらい時期となる。
「本当に嫌で、中学の頃の記憶は、思い出せないぐらいなんです。死にたいと思ってた時期でした」
女子の制服は嫌だったが、幸い、ジャージOKの学校だったので、一日中ジャージで過ごしていた。
ただ、トイレがすごく嫌だった。
「女子トイレには入りたくなくて、学校にいる時は、一回もトイレに行かない生活を送っていました」
「本当に仕方なく入らなきゃいけない時は、誰の目にも触れない遠くの体育館まで行って、誰でも入れるトイレを使いました」
思春期で、みんなが男女を意識する時期。
その自意識は、急激に、波のように自分も飲み込んでいった。
「僕としては、男子トイレがふつうだと思ってたんです」
「子どもの頃から女子トイレを使うように言われて育っているから、女子の方に行かなきゃいけないとは思う」
「だけど本当は、なんで僕が女子トイレに行かなきゃいけないんだろうという思いはありました」
自分に嘘をついて生きるのはつらいこと
「性同一性障害」の存在を知るまでの、中学1年から2年にかけては、精神的に一番きつい時期だった。
「自分らしくいられないこと、自分を隠して生きることがつらかったです」
自分の本当の気持ちとは裏腹に、周りにあわせて嘘をついて生活する日々。
しかも、性意識が芽生え始める思春期。
周りの子たちも身だしなみに対する意識が強くなってきていた。
「夏は体育着を着ると下着が透けるので、女子は上着を羽織ってたんですけど、僕は気にしてないので、タンクトップみたいな下着の上に当たり前のように体育着のシャツ1枚でいました」
「そしたら、他の女の子から、『えっ・・・・・・』って雰囲気を出されたり」
「毛も、女子は剃るのがふつう、って感じだったんですけど、僕にとってはふつうじゃなかったので剃らなかったんです」
「そしたらまた女子から、『えっ・・・・・・?』みたいな(笑)」
「あの子、生えてるんだよね」という噂はすぐに広がった。
「正直、『めんどくせー、なんだよ』と思いながら、剃った時期もありました」
「そういう一個一個のことが嫌でたまらなかったです」
「もう、『死にてー』と思いました」
理由は分からないが、周りの子とどうしても合わせられない自分。
体は女の子。でも、心は違う。
「この違いは、なんだろう」
そう、ずっと思っていた。
04性同一性障害との気づき
自分は「レズビアン」ではない
中学校で所属していたテニス部に、自分と同じようにボーイッシュな女の子がいた。
ある日、その子から、「もしかしたら自分はレズビアンかもしれない」と相談された。
「その子はそれまで、男の子が好きだったんですけど、女の子にも興味を持ち始めたらしく、『好きな女の子がいる』って相談してきたんです」
彼女自身、自分が周りと違うということに不安になっていたのだろう。
男の子を好きでいたけど、女の子も好きになってしまった。
その、好きの違いが分からなくて相談されたのだと思う。
彼女は、自分のことは女の子として認識しつつ、女の子が好きだと言う。
「それを聞いた時に、僕は違う、レズビアンではないと思いました」
「僕は男の子を好きになったことがないし、女の子を好きになるけど自分のことを女だと思っていないから」
自分は、同性が好き、という感覚ではないことをハッキリと自覚した。
「その頃の自分はふつうの男なのに、なんで女性の生活リズムに合わせなきゃいけないんだろうという違和感がありました」
「ただ、そんなことを思うのは僕一人だったので、僕がおかしいんじゃないかと思ってた」
誰にも言えず、隠して、悩みを抱え込んでいた。
「その頃は、Twitterが心のよりどころで、同じ境遇の子たちに悩みを聞いてもらっていました」
テレビタレントを見て「自分はFTMだ」
転機となるのは、中学2、3年生の頃。
テレビでタレントのはるな愛さんを見た。
「あの時のはるな愛さんは “オネエ” として出てたけど、自分のことを『性同一性障害なんです』って言ったのをすごく覚えていて」
「元々は男の子として生まれたけど、昔から女の子の遊びの方が好きで、って自分の幼少期のことをはるな愛さんが語るのを見て、ああこれ、僕もそうだと思った」
「逆だけど、これか、って」
そこから自分で調べて、性同一性障害がどういうものかを詳しく知るに従い、今までのことがストンと腹落ちしていく。
モヤモヤの正体がようやく分かった瞬間だった。
「気が楽になりました。みんなと違うけど、おかしくはないんだなって」
05何者か知って安堵した後も、悩みは続く
性同一性障害という「肩書き」を得て
女性、男性という「肩書き」がある中で、自分はずっとどちらの肩書きか分からないモヤモヤの中で生きてきた。
しかし、ようやく、女性でも男性でもなく、「性同一性障害」であることが分かったのだ。
「『性同一性障害としての自分らしさ』を考えることができると思ったら、安心しました」
「性同一性障害だと知って、悩みが、『何者か分からない』ではなく、『性同一性障害としてこれからどう生きていくか』と、具体的な『課題』に変わったんです」
改名や戸籍変更など、やるべきことが見え、進むべき道ができた。
「性同一性障害」は、そのための道しるべだ。
「そこからはふっきれたという感じで、悩むことも少なくなりました」
本当に、はるな愛さんのおかげだ。
彼女のことを知らなかったら、きっと今の自分はなかった。
きっと、もっと悪い精神状態になっていたと思う。
安心はしたけど人には言えない
しかし、自分が性同一性障害であることを知って安心はしたけれど、世間ではまだそこまで認識されていないことは分かっていた。
自分が性同一性障害であることは、リアルな友だちには誰にも言わなかった。
高校は誰も知り合いのいない私立へ進学。
極力、セクシュアリティに関することに触れられないよう、クラスに友だちは作らないようにした。
「精神的なストレスを減らしたかったんです」
「まあ、自分から逃げてたんですけど」
高校はジャージで過ごすことはできず、女子の制服を着た。
「高校生になっても完全に楽になったわけじゃなくて、苦しかったですね」
いずれは手術もしたいと考えたが、調べた限り、県内で性同一性障害のカウンセリングや診断書を取れる病院はなかった。
都内に出なければならないが、どうやって行こうか、親にはどう言おうかなど悩んだ。
「なにはともあれ、とりあえずお金貯めなきゃと思って、高校に入ったらバイトをしようと思いました」
しかし高校で、ひょんなことから吹奏楽部に入り、バイトはできなくなってしまった。
この、吹奏楽部に入部したことが、自分にとって大きな転機となる。
<<<後編 2018/03/22/Thu>>>
INDEX
06 初めてのカミングアウトは部活の顧問
07 背水の陣でのぞんだ仲間全員への告白
08 受け入れられなかった両親
09 「自分らしさ」はただ今模索中
10 悩みながら出した自分の答えとして