最近、とっても可愛い蜂のバッグを買った。蜂柄とかじゃなくて、蜂の形のそのまんまのやつ。想像がつかないと思うから、ぜひ「ケイトスペード 蜂」でググってみてほしい。ゲットできたことが嬉しくてすぐに写真を撮ってTwitterに載せたんだけど、ふと「こんな可愛いものを好きって言ったら、女の子みたいって思われないかな」という不安が胸をよぎった。
ノンバイナリーのぼくの性表現は「少年」
竹宮惠子や萩尾望都が描くような、キラキラした「少年」。まつ毛が長く瞳にたっぷりとハイライトが入った「少年」こそが、ぼくが幼いころから焦がれてやまない姿そのものだった。
女性の身体で生まれたノンバイナリーの性表現≠男性
「生まれたときの身体が女性かつ性自認がノンバイナリー」と聞くと、たいていの人は「男性っぽい」外見の人物を思い浮かべるらしい。化粧をしない、黒や青の服を好む、スカートを履かない、ショートカット。人々が想像するFTN(X)「女性として生まれたノンバイナリー」の特徴を並べるとしたら、こんなところだろうか。
ノンバイナリーそのものは、性自認だけでなく性表現も含むカテゴリの名称だから、「中性的な見た目」を思い浮かべるのは、まあ、わからなくもない。でも、ノンバイナリー全員が、「割り振られた性別と反対の性別に近い見てくれ」を目指すわけじゃない。そういう思い込みって、そもそも男女二元論に囚われないノンバイナリーという概念と矛盾するものなんじゃないか。
ノンバイナリーのぼくの性表現は、キラキラした「少年」
ぼくの前職は広告代理店のコスメ部のライターだったから、その経験を生かしてフリーになった今も化粧品の記事LPとかレビュー記事のお仕事を請け負っている。その関連で一部のメディアやSNSでは顔出しをしているんだけど、ぼくの顔写真を見た読者の方にこんなコメントをもらったことがあった。
「あなたはノンバイナリーを自称しているけど、女性にしか見えません」「化粧をするのに “女性” じゃないって、無理があるんじゃないんですか」「どうせファッションセクマイでしょ」などなど。
さすがにどこから突っ込んだらいいかわからなくて、頭を抱えた。化粧は “女性” のものではないというのはもちろん大前提なんだけど、ぼくは別に「男性的な見た目」を目指してなどいない。そう宣言したことも、一度だってない。
それなのに、勝手に「男性的な見た目を目指している人」として決めつけられてしまうのも、ぼくの外見が「それっぽくない」から「ノンバイナリーじゃないのでは」と勝手に断じられてしまうのも、納得がいかない。
ぼくの外見がどう抗っても “女性” にしか見えないことは、自覚している。身長も150センチ程度しかないし、(コロナ禍で最近ちょっと太っちゃったとはいえ)体型もわりと華奢なほうだし。でも、現状ぼくはそのことに対してさほど不満はない。外見コンプレックスがないわけじゃないけれど、30年近く生きてきたからそれなりに折り合いの付け方も知っている。
そして「生まれたときの身体が女性かつ性自認がノンバイナリー」の性表現は “男性” 寄りである、と誤解している人たちに言いたいんだけど、ぼくがなりたいのは、萩尾望都や竹宮惠子が描くような「少年」だ。映画『君の名前で僕を呼んで』でいうところの、筋肉質でガッチリしたアーミー・ハマーみたいな男性じゃなくて、線の細い繊細なティモシー・シャラメに憧れている。つまるところぼくの性表現は、キラキラした「少年」なのだ。
じわじわ滲み出てきた「ノンバイナリーらしさ」
話を戻そう。ノンバイナリーとは男女二元論に囚われないセクシュアリティであるはずなのに、「男らしさ」「女らしさ」を否定するカテゴリであるはずなのに、結局は「ノンバイナリーらしさ」のようなものがどこからともなくじわじわと滲み出てきて、ときにぼくの在り方に口を挟んでくる。
性別の持つ「らしさ」を否定したくて、そんなものクソ喰らえと思ってノンバイナリーをSNSのbioに載せてこうしてせっせとものを書いているのに、今度は新たなる「ノンバイナリーらしさ」みたいなものが形成されてしまって、それを押し付けられて、また息苦しくなる。
なんだかなあ。ぼくはたしかに女にも男にも見られたくないけれど、だからといって世間が生み出した「それ以外」のステレオタイプに当てはまりたいわけじゃないんだけどなあ。セクシュアリティはグラデーションなんでしょ、と理解した気でいる人たちは、その実「性別には男・女・それ以外がある」程度の認識しかないのかもしれない。
もはやそれってグラデーションじゃなくって、「それ以外」っていうカテゴリが増やされただけじゃないか。ただ2種類から3種類になっただけでハイ解決! なんて、そんな馬鹿な話があるかよ。
可愛いものが好き=女の子、って変じゃないか
性表現が「少年」であるノンバイナリーのぼくは、今も昔もわりに「可愛いもの」が好きだ。コロナ禍になる前は年に3回くらいディズニーリゾートに行っていたし、そのたびキャラクターの耳付きカチューシャやぬいぐるみを購入していた。そのことも、「ノンバイナリーらしさ」から外れているとみなされるのだろうか。
キティちゃんが好きだった幼少期
ぼくは小さい頃から自分が「女の子」ではないことに自覚的だったけれど、それでも幼少期はキティちゃんが好きだった。といっても、今世間で認知されているようなレースやフリルがたっぷりついた衣装を身にまとうキティちゃんじゃなくって、昔のキティちゃん。赤いリボンとブルーのオーバーオールの、シンプルなデザインのキティちゃんをぼくは気に入っていた。
キティちゃんが「女の子のものである」ことを知ってからはグッズをねだるのもやめてしまったけれど、元来ぼくは「可愛いもの」が好きなんだと思う。きっとキティちゃんが「女の子のもの」というイメージが世間に定着していなければ、そしてぼくが「女の子」らしくないことに危機感を抱いていた親が、キティちゃんを好むぼくを見て「やっぱり女の子なんやなあ」などと安堵したりしなければ、ぼくは今でもキティちゃんを好きなままだっただろう。
「女の子」だと思われたくない気持ちが、趣味嗜好にまで影響すること
これまでの人生、ずいぶんと世間の「女の子らしさ」に振り回されながら生きてきた気がする。もちろんそれはきっと、ぼくだけではないと思うけれど。たとえば小学1年生のときに夢中になった仮面ライダークウガの影響でぼくはずっと赤色が好きなんだけど、クウガのボディが赤じゃなかったら、ぼくは間違いなく赤い服や筆箱なんかを避けていた。赤は基本的に、「女の子の色」のイメージが強いから。
そういう理由で赤やピンク・オレンジといった色を避けて黒や青ばかり身につけるFTMないしFTN(X)の知人も、実際にいる。だけどよくよく考えてみれば、それってものすごく変な話だ。個人の純粋な趣味嗜好に、性別の「らしさ」が介入してしまうなんて。そのせいで真に自分が好きなものを堂々と「好き」だと言うことが、憚られたりするなんて。
可愛いものが好きだったら、「女の子」になってしまうのか
本当はクウガと同じくらい、ぼくはセーラームーンも好きだった。カードキャプターさくらも、おジャ魔女どれみも好きだった。だけどそれを口に出した途端、大人たちは「やっぱりチカゼは女の子やなあ」と目を細める。その反応が嫌で、「少年」であり続けるために、ぼくはキティちゃんやセーラームーンやCCさくらやおジャ魔女どれみが好きなことを次第に隠すようになっていった。それを認めてしまうと、たちまちぼくは「女の子」になってしまう気がしたから。
もったいないことをしたな、と今は思う。「女の子」じゃないから、ノンバイナリーだからと好きなコンテンツを摂取しなかったことは、ぼくの豊かさを損なった。だけど、堂々とそれらを好きだという勇気を、そのときのぼくはどうしても持てなかった。
大人になった今、改めて思う。ハーレーダヴィッドソンに乗るシス女性や、ぬいぐるみ蒐集癖を持つシス男性がいたってなんらおかしくはない。だからこそ、可愛いものが好き=「女の子」である、なんていうふうに他人の性自認を決めつけてしまうのって、早計すぎやしないか。
あなたの思う「ノンバイナリーらしさ」を押し付けないで
ぼくが腑に落ちないのは、「男・女・それ以外」の「それ以外」にも、新たなる「それ以外らしさ」が生まれてしまっていることだ。その「それ以外らしさ」が「ノンバイナリーらしさ」として語られること、それを押し付けられることに、ぼくはモヤモヤを抱いている。
ノンバイナリーのぼくがなりたいのは、キラキラした「少年」
ぼくはノンバイナリーを自認しているし、当事者としてこうして文章を書いて飯を食っている。でも、どこからともなく生まれた「ノンバイナリーらしさ」を基準に自分の服装や髪型を決めたくなんてない。ぼくがどんなファッションを好もうと、化粧をしようと、メンズ服の上に蜂のバッグを斜めがけしようと、「ノンバイナリーっぽくないね」「結局は女の子じゃん」「にわかセクマイ」などとあざけり笑われたくはない。そんなふうに勝手に断じて笑う資格は、誰にもない。
ぼくの見てくれがどうであろうと、ぼくがノンバイナリーであることには変わりない。世間の思う「(男・女・それ以外のうちの)それ以外」っぽい外見じゃなくて、ぼくが憧れるキラキラした「少年」のような外見を目指したい。それこそが真の意味での「ノンバイナリーらしさ」なんじゃないかと、ぼくは思う。
ノンバイナリーは画一的な存在じゃない
ぼくの思う「少年」は、グリッターで目をキラキラにさせた男の子だ。繰り返しになるけれど、思春期に憧れた萩尾望都や竹宮惠子が描く「少年」たちは、みんなまつ毛が長くて瞳がキラキラしていたから。ぼくは化粧をするのは、 “女性” だからじゃない。ぼくがなりたいと焦がれてやまない「少年」に少しでも近づきたいからだ。
女性の身体に割り振られたノンバイナリー全員が、元来 “女性” のものとされていた装飾を避けるわけじゃない。みんな揃って性表現が男性寄りなわけじゃないし、身体を男性に近づけたいと思っているわけじゃない。「男女二元論に囚われない」というノンバイナリーの概念は、「それ以外」の3つ目の在り方を示すものでもあるけれど、だからといってノンバイナリーは画一的な存在ではないのだ。
あなたの「ノンバイナリーらしさ」を押し付けないで
だって考えてもみてほしい。シス男性みんながみんな中島健人みたいになりたいとは思わないだろうし、シス女性みんながみんな橋本環奈になりたいとは思わないだろう。それと同じで、ノンバイナリーもノンバイナリーである前に「個人」なのだ。男性的な見た目になりたいと思うノンバイナリーもいるし、乳房のある身体を気に入っているノンバイナリーもいる。それらこそ各々の思う「ノンバイナリーらしさ」であるし、それを決めるのは当人だ。
「少年になりたいって言いながら化粧をするなんておかしい」なんて、誰かが断じる権利はない。ぼくが思う「少年」像は、ぼくの頭の中にある。それのみが真実で、誰かがそれを侵すことはできない。ぼくが「少年」で在り続けたいと願うことと、化粧をすることや可愛いものが好きなことは、なんら矛盾しないのだ。
ノンバイナリーのぼくは、キラキラした「少年」でありたい
○○らしさ、なんてものは消滅してしまえ
まとわりつく世間の「らしさ」に鬱陶しいと顔をしかめれば、「じゃあどう思われたいわけ」と返答を迫られる。だけどぼくは思うのだ。「らしさ」に人を押し込めようとすること自体、ナンセンスなことなんじゃないか、と。
ぼくのことが女性にしか見えないのは、もう仕方がない。でも、それを口に出して指摘することになんの意味があるのだろう。あなたからどう見えようと、ぼくが “女性” でないことは事実なのだ。ぼくのセクシュアリティを決める権利は、あなたにない。もしあると思っているのなら、それは傲慢以外の何物でもない。
ノンバイナリーのぼくの思う「少年」を目指して
コロナが終息したら、化粧をして、メンズ服の上から蜂のバッグを斜めがけにして、夫や友人たちといろんなところに行きたいな。「ノンバイナリーらしさ」とか、そういう馬鹿げた枠組みに囚われることなく臆することなく、自分が好きだと思うものを胸を張って好きだと言いたい。
そうやってぼくの思う「少年」を目指して、これからも生きていきたい。