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Writer/雁屋優

Xジェンダーの私は、男女わけの社会に目を閉じたくなることがある

ありとあらゆるところで目にする広告。その多くが、「20代の女性必見!」などと、性別と年代を限定する文言を使っている。特に、女性をターゲットにしたものは、その傾向が強いと感じる。そのような広告を見たとき、そっと視界から外さずにはいられない私の、揺らぎを書いていく。

溢れる広告、そこにXジェンダーはいるか

脱毛の広告から、そっと目を背けたくなる自分に気づいた。

女性向けに、男性向けに、Xジェンダーの私は含まれない

動画を観ていても、電車に乗っていても、「20代の女性」とか「中高年男性」と書かれた広告から目を背けている自分がいる。私は、身体的には女性で、精神的にはXジェンダーだ。より詳しく言うなら、男女どちらの特徴も持たない、無性になりたい側の人間だ。

「20代の女性必見!」と銘打った広告の多くが、脱毛サロンやクリニックの広告であることが多いから、自分がアルビノゆえに色素がなく、脱毛できないことへの苛立ちなんだろうと、思っていた。でも、そうではなかったのだ。

私の好きな漫画にも、女性向けとか男性向けとか、少女漫画、少年漫画といった、「区分」が存在する。それらをある程度仕方ないこととしつつも、苛立っている自分自身に、つい最近気づいた。

「あなたは顧客ではない」と言われているよう

もちろん、私もライターとして、どのような人に届けたい文章なのかターゲットを考えている。そこにはときに、性別も含まれる。それを考えずに、広告やライティングを書くことは不可能だ。わかっている。わかっているのだ。

けれど、「Xジェンダーに」と銘打たれた広告は「男性」「女性」のそれより、圧倒的に少ない。掴みづらいXジェンダーよりも、男性や女性にフォーカスした方が、明確なターゲッティングができて、売りやすいのもあるだろう。それはわかるのだ。

でも、そうなのだとしたら、Xジェンダーの私は、顧客ではないのだろうか。そう言われているような気さえしてきてしまう。

Xジェンダーも見てほしい、難しいのはわかっているけれど

男性向け化粧品からも、女性向けの化粧品からも、性別を規定されたくないがゆえに逃げたくなってしまう私は、どこのメーカーになら、顧客として扱ってもらえるのだろう。そんなことを考えているうちに、メイクはいいかな、と投げやりになってしまっている自分もいる。

Xジェンダーは少ないし、Xジェンダーも包括できるような売り方が難しいことは、百も承知だ。でも、あなたも顧客ですよ、と言ってくれるメーカーがあれば、私はそこの商品を買いたい。

広告以外にも見られる規定

男女の規定は、広告以外にも見られるし、それはかつて私を蝕んだ。

書き手を「女性」に限定したメディアで書いていた

ライティングを始めたばかりの頃、私は、書き手をある年代の「女性」に限定したメディアで書いていた。身体的には女性だから、と応募したのだ。Xジェンダーで、女性であることからは逃げたくて逃げたくて仕方なかったのに、仕事欲しさ、書きたさで、応募してしまった。

他の人の文章を読むと、やはり、シスジェンダー(身体的な性と精神的な性別に違和感のない人のこと)であることが身に染みてわかった。いろいろな「女性」がいるのだとしながらも、「女性」しか執筆を許されない環境が、次第に私を蝕んでいった。

私は、「女性」ではない。
「無性」でありたい。

心の中の悲鳴に耐えられなくなったとき、私はそのメディアでの執筆をやめた。

メディアばかりを責めるつもりはない

ある年代の女性を書き手とし、読者も同年代の女性を想定していたそのメディアばかりを責めるのも本意ではない。私は、応募時に、たしかに、自分の精神を無視したのだ。それは、自分の判断だ。

でも、女性の書き手を求めているメディアに、「身体的には女性だけど、Xジェンダーとして書きたいです」と応募していたら、何と返されたのだろうか。「身体的に女性なら、大丈夫です」だったかもしれないし、「Xジェンダーの方は募集しておりません」だったかもしれない。どちらの返答も、嬉しくない。

私は、Xジェンダーとして、認められたいのだ。女性ではなくて。

女性であることも利用しつつ

それでも、私は、身体的に女性であることを利用しながら生きている。重い物を持ち上げられずにいたら、人が助けてくれること、雪かきのメインは男性で、私はたまにする程度でよかったこと。

身体的には女性なのだから、力で男性に劣るのは事実。だから、そこはいいんじゃないか。そうも思っている。

その規定は、本当に必要ですか

男性と女性に分けているものは他にもたくさんあって、それが当然であると思われている。

身体的な性差以外の区分って必要?

身体的な性差とは関係のないところで、男女を分け、Xジェンダーの存在する余地を失くしてしまっている例は、いくつもある。例えば、チェーンの美容室へ行くと、そこでは店舗の真ん中で、男性ゾーン、女性ゾーンと別れていた。もちろん、理容師と美容師の違いもあるのかもしれないし、一概には言えないのだけど、そこを分けずに、ただ美容室としてあることは、できないのだろうか。

そこでは、男女どちらかにならなければ、サービスを受けられない。つまり、顧客になれないわけだ。私は、女性に「なる」ことで、髪を切ってもらえたわけだが、女性に「なる」のは、少ししんどかった。当時は今ほど、Xジェンダーである自覚がなく、だからこそ苦しく、しかもそれを言語化する術を持たなかった。

漫画は、性別で読むものなんですか

私は、いわゆる少年漫画と呼ばれるジャンルの漫画をよく好んだ。有名どころで言えば、『NARUTO』や『黒子のバスケ』『BLOODY MONDAY』。最近では、『呪術廻戦』などがある。書店でこれらの漫画を買うために少年漫画のコーナーへ向かうたび、私は、「本来の顧客ではないのだ」と痛感した。その当時の性自認はXジェンダーではなく、女性寄りだったから、より顕著だったかもしれない。

でも、今考えればそれもおかしな話だ。『呪術廻戦』のアニメを観ているのが男性のみのはずもない。もしそうならあんなに売れないだろう。それなのに、客層の一方を「本来の顧客」として扱い、他方を「そうではない」と区別することに、何の意味があるのだろう。

少年漫画も少女漫画も、誰が読んだっていいものであるはずなのに、売り場に性別の区別があることで、手を伸ばしにくい人もいるのではないか。それは、ビジネスチャンスを失っているとも取れる。性別関係なく、いい作品を楽しむ。そんな土壌が築かれるべきだ。

もう、女性限定のメディアでは書かない

今ならはっきり言える。「女性」を求めてくるメディアでは、もう書かない。書かないし、書けない。私はXジェンダーで、シスジェンダーの女性ではないから。そうであることを求められる空間には、いられない。

「女性」であることって、何なのだろう。その答えは未だ出ないが、私は自分を「女性ではない」と思うし、Xジェンダーでありたい。だから、「女性」のみを書き手としたメディアでは、もう書かないし、書けない。

男女ではなく、すべての人を包む社会であってほしい

男性って、女性って、何なんだろう。

「男は」「女は」と言われるたび逃げたくなる人へ

「男は」「女は」と規定する話し方は何も広告や美容室、漫画に留まった話ではないのだ。上野千鶴子さんの『在宅ひとり死のススメ』にも、「男おひとりさま」「女おひとりさま」といった言葉が登場する。老いてまで、男だ女だと縛られなければならないのを想像しただけで、私はげんなりした。

本自体は、介護保険について有益なことが書いてあっただけに、男と女のみで語られることへの落胆が激しかった。

想定されていないことによる疎外感は、相当なものである。なぜなら、その文脈において、Xジェンダーの自分は「いない」ことにされているからだ。しかも、それは、世界の常識になっている。あなたがいないのは当然、いるのは特別で、特例で、異質なこと。排除とまではいかなくても、緩やかに締め出している。そんな文脈に触れ続けることのつらさは、Xジェンダー以外のセクシュアルマイノリティの人々とも、共有できる気がする。

女性でなくても、男性でなくても、困らない社会へ

もちろん、身体的な性差はあるのだから、そこを考慮することなしに、男女の区別なしに、なんて言うことはよくない。けれど、「男性」「女性」と限定して、そこに当てはまらない人々を排除する必要のあるシーンは、結果として今あるよりは少ないと思う。

女性でないと声高に主張し、Xジェンダーであろうとするとき、社会との軋轢をいやでも感じる。履歴書の性別欄は記入するか否かを選べるようにはなったけれど、「記入しない」ことが性自認について「何かある」可能性が高いことを示してしまう。それは、もしかしたら採用に不利にはたらくかもしれない。そういう側面がある。

広告に、メディアに、さまざまな商品に、そして社会に、「男性か女性になりなさい」と、お説教をされている気分だ。だからこそ言いたい。

男性でも女性でも、何でもなくてもいいじゃないか、と。それで困るのなら、それは社会がおかしい。性別によって他人を定義し、扱いを変えたいからこそ、性別を「ない」とか、「中性」とか、そう定義したい人が邪魔なんじゃないか。どう扱っていいか、わからないからじゃないか、と思う。

性別で扱いを変えない社会へ

性別で扱いを変えることを当然としている社会だから、Xジェンダーが存在しにくい。それならば、ちゃんと目の前の「人」を見る姿勢を作って、そうすればいい。男性も女性も、Xジェンダーはじめ性別「その他」の人も、「人」なのだから。

人を見つめて、性別を見つめない。そんなことを当たり前にできる社会になれば、きっと、性別を規定するものは、もう少し減って、生きやすくなる人が増えるのではないだろうか。

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