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Writer/雁屋優

私は無性になりたい

昨年、『ふわふわとトランスジェンダーしている』というタイトルでNOISEに記事を書きました。未だに考え続けている、自分自身の性別のことについて、新たに書いていきます。トランスジェンダーのイメージに少し振り回されがちな私の話です。

トランスジェンダーとは名乗れない

性別に違和感を覚えていることは認めるのだけれど、何だか自分が「トランスジェンダー」を名乗っていいのか、と気が引けてしまうのです。

性別違和はあるけれど

医師:「あなたは、性別に違和感があるんだね」

私:「そうですね。でも手術とかしたいってほどじゃなくて、手術はお金もかかるし、痛いと聞くし、そこまでのことは求めていないんです。もうちょっと手軽に性別をなくせたらなあ、と思います」

医師:「なるほどなるほど」

ある心理検査を受けた後の診察での主治医とのやり取りです。そこには嫌悪感や戸惑いはなく、私も安心して話すことができました。

私:「現状、女性として扱われることに一定の納得はしているし、男性と扱われたいわけでもないんです」

この話を真摯に聞いてくれた主治医は、私の性別への違和感に対して、「トランスジェンダー」という言葉は使いませんでした。おそらく、敢えてそうしたのだろうと思います。

「本当の」トランスジェンダー

トランスジェンダーと聞くと、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。試しに、「トランスジェンダー 支援 ガイドライン」などで検索してみると、性別適合手術をはじめとした医療を受ける話が出てきます。戸籍上の性別を変更する話もあります。

「トランスジェンダー」という言葉は、医療を受けることや戸籍上の性別の変更を望むことと完全にイコールではないのですが、どうしても、トランスジェンダーの支援というと、そういった話が先に来ます。

医療や戸籍上の性別の変更を望んでいる人が直面している現実は、たしかに大変なものです。でも、「トランスジェンダー」はそれを望まなければならないというわけではないのです。

「本当の」トランスジェンダーなんて見方は、早々に捨て去ってほしいところです。

比較の罠から抜け出して

先ほど私は、医療を受けることや戸籍上の性別の変更を望んでいるトランスジェンダーの人々の直面している現実は、大変なものであると書きました。しかし、本来、生きづらさを比べること自体がおかしなことです。

医療や戸籍上の性別の変更を望まないトランスジェンダーの人々にも、生きづらさはあり、むしろそれらは可視化されにくい分、深刻であるともいえます。

当事者である私自身も陥りかけた、比較の罠。

「性別適合手術を望む人は、費用や働きにくさの問題に直面しやすいのだから、手術費用の心配のいらない私の生きづらさは、大きなものではない・・・・・・」なんて。

当時の私の考えは、自分の痛みを矮小化し、さらには比較によって手術を望む人を貶めている思考でした。

周縁化される人々は必ずいる

この記事を書くにあたって、厚生労働省の資料を読んでみたのですが、「何かカテゴライズを行えば、周縁化される人々は確実にいる」との思いが強くなりました。

性別二元論に回収されていないか?

2020年3月に厚生労働省が出している文書「Ⅱ.職場と性的指向・性自認をめぐる現状」(https://www.mhlw.go.jp/content/000625158.pdf)を読んでみました。最初はLGBTだけではないセクシュアルマイノリティの存在にも言及しているところなどを高く評価していたのですが、トランスジェンダーの部分で、「FTX」「MTX」への言及がないことに落胆しました。

その文書では、「MTF」「FTM」への言及はされているのにも関わらず、「X」についてはないのです。これでは、文書を読んでも、人をどちらかの性別に当てはめる性別二元論が解消されるどころか、性別二元論が強化されてしまっています。

基準は男女になってしまう

性別「X」は想定すらされていない。

これがこの国の現状の一側面だと思うと、気が滅入ります。「男女のどちらかになってください、どちらでもないというのは認めません」。そんなメッセージが聞こえてくるようです。

望む性別になることは認めても、男女のどちらかになることは強いる、つまり、男女を基準に考えているのです。

「Xジェンダー」と自認する人々は、どこへ追いやられてしまうのでしょうか。様々な場面でどちらかの性別を選択させられる社会をもってして、「トランスジェンダーに配慮している」と言うつもりなら、それは到底受け入れられるものではありません。

カテゴライズのリスクと向き合って

何かをカテゴライズすると、例外は必ずと言っていいほど現れます。そうしてその例外の人々は周縁化されるのです。また、そのカテゴリーのなかの想定しやすい人々だけを支援して、想定されにくい、もしくは声を上げにくい人々のことは置き去りにしていくといったことは起こりえます。

とはいえ、状態に名前をつける必要はどこかで出てきます。それを考えれば、カテゴライズは避けては通れません。周縁化されて忘れられる人々を減らそうと考えていく必要があります。

完璧なものを一人で考えつくすのは難しいので、多くの人の意見を聞いて、皆で作り上げていくのが望ましいでしょう。

性別Xは便利で不便

性別を問う際に、第三の選択肢「その他」が登場しているときには、私は「その他」を選ぶようになりました。

ジェンダー規範からの解放

別名義で小説を投稿している身なのですが、小説投稿サイトの一つに登録した際に、性別を「その他」とすることも、「回答しない」とすることもできたことは喜ばしいものでした。

性別は非公開情報ですが、ここで私は性別Xでいられるのだと思うと、ジェンダー規範から解放されて、心が軽くなりました。筆名は雁屋優とは異なり、女性であるとわかりやすいものなのですが、女性と扱ってほしくはない複雑な思いでいたのです。

インターネット上では、ジェンダー規範から解放される瞬間をもつことができたのです。

男でも女でもない私はどこへ

インターネット上で、ジェンダー規範から解放され、性別Xになれても、世界から性別Xの不便が消えるわけではありません。私はそこまで徹底してはいませんが、声で身体の性別が知られることを恐れるなら、同業者との通話やオンライン飲み会も困難になってしまいます。オンラインミーティングも、顔を映すので、Xではいられない瞬間です。

こと対面になると、外見や声が知れるのは当然ですから、男女どちらかであると容易にジャッジされます。ジャッジする側にももちろん事情はありますし、外見から性別をジャッジすることすべてが悪ではありません。防犯上、それが必要なこともあります。

ユニセックスと呼ばれるファッションも登場しており、最近では中性的に見せることも不可能ではなくなってきています。けれど、そういったファッションをしなくても、性別Xとして扱われたい人もいます。

「らしさ」なんて捨ててしまえ

「LGBTに配慮した制服」がインターネットを賑わせたこともあります。ひどいアウティングだと憤りを覚えました。LGBTに配慮した制服を着るためには、自分が「そう」であると申告しなければならなかったり、着ることそのものがカミングアウトになってしまったりするからです。

ジェンダーレス制服でよかったのではないかと思います。生理が重くスカートの肌寒さがつらい人がスラックスを選択してもよいし、リボンをつける自分よりネクタイをつける自分が素敵だと感じるならネクタイを選択してよい、とすれば、身体の性別とは異なるように見える制服を選択することそれ自体がカミングアウトにはなりにくいです。

女性は、男性は、こうあるべき、という「らしさ」なんていうものは、もう過去の遺物として葬り去ってしまいたい。心からそう思います。

私は無性になりたい

私は、なりたい性別を明確に定義し始めているのかもしれません。

手術じゃなくてもっと楽になったら

昨年は「無性になる手術は、現在は不可能のようだ」と書いたのですが、よくよく話を聞いていくと、実は不可能でもないようでした。乳房切除、子宮や卵巣の摘出、ホルモン療法など手段はあるようでした。

ただ、ここから私の個人的な話になるのですが、私は痛いのが大の苦手です。インフルエンザのワクチンにも毎回大騒ぎし、皮膚科でいぼを取ってもらうときにも、半泣きでした。

乳房切除や子宮や卵巣の摘出に伴う痛みは、インフルエンザワクチンどころではないと予想されます。痛みや費用と性別違和を天秤にかけたら、現時点では前者が重く思えるので、手術を選びません。

でも、例えばもう少し安価で痛みの少ない方法、薬を飲み続けるなどで、性別Xになれるなら、それは検討するだろうと思います。寝て起きたら、無性になっていないかな、と夢見ることもあります。そんな都合のいいことは起こらないのですが、願ってしまいます。

私は私、男でも女でもない「無性になりたい」

前述の主治医の言葉を借りるなら、「症状はあなたとイコールではない」のです。症状はたしかにあっても、それ自体が私を定義しきっているものでもありません。カテゴライズのなかで、自分の言葉を奪われてしまわないように、当事者として考え続け、自分はどうありたいのかを明確にしようとする試みをやめないことが大事です。

私は、私であって、男でも女でもないのです。

カテゴライズとして、私はFTXになるのでしょうが、Xのなかにも中性になりたい人と無性になりたい私のような人とがいます。「FTX」でも、「トランスジェンダー」でもなく、「私」を見てください。

私も、男性や女性、トランスジェンダーといったカテゴリーでなく、「目の前のあなた」を見つめられるよう、努力していきます。企業や行政も、ある属性の人への配慮ではなく、その人個人への合理的配慮を模索していく姿勢が欠かせません。

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